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ある短歌の分析

   ある短歌の分析

 寺山修司の有名な短歌

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

は、おそらく誰にでも深い感銘を与える歌だろうが、その理由は何か、分析してみよう。

 まず、この歌の特徴として、上の句と下の句の断絶がある。連歌の付け合いのようでもある。これは、句点を打ってみるとはっきりする。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし。身捨つるほどの祖国はありや」
 つまり、上の句は情景描写、下の句は心内語である。そして、この両者の間には、結びつく必然性はない。なさそうに見える。(このあたり、田中芳樹風)
 だが、この上の句と下の句との照応が、この歌の生命だ、と私には思える。
 細かく見てみよう。
 まず「マッチ擦る」で、我々はそこにすでにある種のはかなさを感じる。マッチの火の生命がわずかなものであることは、誰でも知っている。そして、そのはかなさは同時に我々の生命そのものの、もしくは青春のはかなさを連想させる。
 その印象が誤りでないことは、ただちに次の「つかのま」の語で確証を与えられる。
 この「つかのま」の語は、一見冗語に見えるが、実は、我々をこの歌の世界に取り込む大きな働きをしているのである。
 そして、次の「海に霧ふかし」で、我々の心には、ある情景が浮かんでくる。
 霧に包まれた港で、トレンチコートか何かを着た男が、マッチで煙草に火をつける。その一瞬、霧の中に男の顔が浮かんで、すぐにまた白い霧に包まれる。沖合いで船の鳴らす霧笛がボーッと聞こえる。
「霧笛が俺を呼んでいるぜ」とでも言いたくなるような、日活映画的情景である。
 しかし、ある意味陳腐なこの情景が、次のフレーズで異常な様相を帯びる。
「身捨つるほどの祖国はありや?」
 祖国のために身を捨てようかどうかと迷う、この男は何者なのか。作者本人か?
 それが作者本人であれ、フィクションの人物であれ、この自問はこの情景に深い奥行きを与える。なにしろ、国家論である。政治論である。日活映画的安芝居ではない。少なくとも、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」のような政治とテロとニヒリズムと残酷の詩情に溢れたドラマを我々は想像してしまう。
 というような、上の句と下の句のドラマチックな対比による効果が、この短歌の魅力の理由だと、私は考えるのである。皆さんの意見はどうだろうか。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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