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「死ぬこと」のマニュアル

   「死ぬこと」のマニュアル

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、「葉隠」の中でもっとも人口に膾炙した言葉だが、あまりに明瞭な言葉の多くがそうであるのと同様に、この言葉を深く考えた人間は多くないように見える。(かつての私自身がそうだったのだが。)たいていの人間がそうだと思うのだが、人間にとって、やはり自分の命が一番大事だろう。もちろん、自分の愛する者の命をそれより上位に置く場合も多い。しかし、自分の主君のため、今なら自分の属する会社や組織や上司や国のために自分の命を投げ出すなんてまっぴらだ、というのが現代の大方の人間の心理に決まっている。私も同じである。だから、「葉隠」のこの言葉は、時代のパラダイム(枠組み、限界)に縛られた発言であり、自分とは無縁な言葉としか考えていなかった。しかし、花田清輝という、三、四十年ほど前に有名だった知識人の書いたある随筆の中に「葉隠」からの引用があって、その言葉で「葉隠」に対する見かたが少し変わったので、それを書いてみる。
 我々は、江戸時代や戦国時代の武士は、死ぬことに対する抵抗感が、今の人間より少なかっただろうと想像しているが、実は「葉隠」が書かれた頃はすでに太平の時代であって、武士の間ですら軟弱な気風が広がっており、その風潮に業をにやした老人が若い武士たちへの戒めとして書いたのが、この「葉隠」であったのだ。そして、彼は武士道の本質を、「死ぬこと」だと規定したのである。さすがに、当時としてもこれは大胆な規定だっただろう。この事は、逆に当時の武士たちが、死ぬことをいかに嫌がっていたかを表している。だから、作者の山本常朝は、「武士道に関し、二つの判断の間で迷ったら、早く死ぬ方を選べば良い」という、実践的なマニュアルを示している。これも極端な意見だが、「武士道とは死ぬことである」という大前提から出てくる、合理的で有効な命題ではある。
 さて、私が花田清輝の随筆の中で興味を持って読んだのは、その「葉隠」からの引用で、おそらくこれも若い武士への忠告と思われる、「おろめけ、空言言え、ばくち打て」と、「一町のうちにて七度空事言うが男なり」という言葉である。
 「おろめけ」とは、私の持っている古語辞典には載っていないが、「拝む」を「をろがむ」と言うのと同様、「をめく」つまり、「喚く」の命令形だろう。「わめけ、嘘を言え、博打を打て」と言っているわけだ。
 これは非常に面白い言葉で、また、ここに「葉隠」の本質が現れているのではないかと思われる。
 私は、「葉隠」とは、「死ぬ」ための実践マニュアルだと考える。
 人を、いかにして死に向かわせるか、というのは、すべての君主にとっての難問である。主君の与える「御恩」に対して、死で報いるという理屈もその一つだろうし、「忠」という抽象観念を持ち出すのもその一つだろう。戦国時代なら、戦場での死を賭した働きによって、褒賞や身分の上昇が得られる、というのもその一つだ。しかし、平時において、主君のために命を投げ出させるのは、容易なことではない。そうした状況で人間は、自らの死を逃れるために幾つでも理屈を考え出すだろうからだ。中でも邪魔になるのが、世間的なモラルと「忠」の衝突である。だいたいにおいて主君は、自分のエゴイズムのために部下を利用するわけだから、そこには当然世間一般の義理や人情との衝突も生じることになる。そこで、主君の側の立場に立てば、「二つの判断の間で迷ったら、ためらうことなく死を選べ」という実践的マニュアルが有効になるのである。つまりは、思考停止、判断停止を指示しているのである。その前提に、主君の、あるいは主家のために、という言葉があるわけだ。これは、軍隊、あるいは戦場においては、上官の命令は絶対であり、個人的判断は排除されるというのに似ている。こうした思考停止状態、判断停止状態で、兵士たちがいかに非人間的行為を行なってきたかは、枚挙に暇が無いだろう。また、それは戦争の遂行のためには正当な行為であったとされるのである。武家社会では、平時に於いても、主家の名誉のために個人の「自発的な」死が必要な場合もあっただろう。そうした時に有効なのが、この山本常朝の勧めるような自動反応的行為である。現代でも、新興宗教の教祖の非道徳的な犯罪命令に、信者たちが易々と無批判に従った例もある。人間は、習慣と訓練で、容易にロボット化するものなのである。新聞紙上を賑わす大企業や公務員の犯罪の多くも、そうした習慣による道徳的不感症によるものだろう。
 「喚け、嘘を言え、博打を打て」というのは、いつでも必要な時に命を投げ出せる(要するに、主君の役に立つ)のは、そうした人間だということなのである。これは、ヤクザの鉄砲玉(使い捨ての殺し屋役)などを考えてみれば納得がいくだろう。単純で動物的な人間のほうが、鉄砲玉には使いやすいわけだ。別の言い方をすれば、それがいいと言うわけではないが、部下たるものは、物事を理屈で考えず、本能(ただし、この本能は、単に自動反応的行為の意味だが)で動け、ということ、使命のために自らを狂的な状態にせよ、ということだ。人間は、理性的に自らの死を迎えるのは難しい。しかし、狂的状態では、人は容易に自ら死ぬものだ。そして、そうした状態を正当化する価値観が、「男」ということなのである。
「一町のうちにて七度空事言うが男なり」というのも面白い言葉ではある。一町とはおよそ百メートルほどだが、百メートル歩く間に七度嘘を言うのが男だ、と断定しているのが面白い。なぜ、嘘を言うのか、というと、これは「葉隠」の全体から見ての推測だが、自らの男としての誇りを守るために、という事ではないだろうか。一つの嘘は他の嘘を要求するものだ。そこで、最初の嘘を維持するためには七度も嘘をつけ、ということである。なぜ、主君のために、あるいは、組織のためでもいいが、死ぬことができるか、というと、一つには、そこに自分の男らしさの証明がかかっているからである。あいつは卑怯だ、弱虫だ、男らしくない、と言われる屈辱よりは死を選ぶわけである。そして、その前段階として、嘘をつくことに代表されるように、世間のあらゆる道徳にこの特殊なモラルが優先することが宣言されているわけである。
ここでは、自らの男としての誇りは、何物よりも優先されねばならないことになっている。つまりは、マッチョズムの行き着くところは、自死にあり、ということで、「葉隠」をあれほど愛読した三島由紀夫があのような死を遂げたのは、当然の帰結だったのかもしれない。一見、合理主義者に見える彼の、政治的発言やパフォーマンスのほとんどが理解不能なのは、彼が政治に求めたのは、自らの死のための単なる舞台装置だったからではないだろうか。もちろん、そこには、戦争中に自らが安全な場所にいて死を免れたことへの自己嫌悪があったと思われるし、彼独自の夭折への愛着、老化への恐怖もあっただろうが、本質的には男らしさというものへの強迫観念が彼の自死の原因だったと思われる。
 しかし、こうした男らしさへのこだわりが、女性からみれば、何ともあわれでいじましく見えるものであることを大抵の男は知らない。ボディビルで筋肉を鍛え上げた男性を、男は感嘆の目で見るが、女性は、「気持ち悪~い!」としか思わないものなのだ。大人の男たちの戦争ごっこ、軍隊ごっこに対し、田辺聖子が言った感想は「泣かんと、よう遊んではるわ」だったと覚えているが、男というものの子供っぽさを、これほどはっきりと表した言葉は無い。男たちの、力への憧れが、いかに幼児的な心理であるかが良く分かる言葉ではないか。それにくらべて、身の周りの細々としたものを大事にし、生活そのものを美化しようとする女性的姿勢は、はるかに高級で、文化的で、大人の態度だと言えるだろう。男は、彼らだけで放っておくと、着替え一つせず、風呂にも入らず、仲間うちで喧嘩ばかりする子供に戻ってしまうものだから、女性が教育してやる必要がある。しかし、残念ながら、権力は、それを望む者の手に入るものだから、世の権力は男性の手に握られている。戦争と闘争を事とする男社会はまだまだ続くだろう。男らしさが、自らの力の証明や実行と不可分であるかぎり、世の中は殺伐としたものにならざるをえない。
 要するに、「男」という価値意識は、現代ではほとんど建設的な意味を持たない。まあ、男らしさというものに強きをくじき弱きを助けるという任侠や、騎士道的な精神があれば別だが、しかし最近の映画やテレビや漫画などに見る現代の男らしさというものは、むしろ力で他を支配し、そのためには手段を選ばないという、弱い者いじめを恥じない、野蛮で粗暴なものになっているようだから、そうした男らしさは傍迷惑以外の何物でもないと言えるだろう。もっとも、それに比例して、最近の若い女性も生活の美意識を失った下品な女性が増えているから、お互い様ではあるが。
 本題に戻ろう。「葉隠」の基盤となっている「男らしさ」に意味が無いとすれば、「葉隠」にも意味が無いかといえば、そうではない。むしろ、現代においてこそ「死ぬ」ためのマニュアルは必要なのである。我々の現代生活は、生活感が希薄であるにも関わらず、いざ死ぬ段になったら誰もが死を恐れる。黒澤明の「生きる」の主人公のように、自らの死を目の前に突きつけられて、初めて自分の生の空虚さが分かるのだが、人生の中味はめいめいの問題だからここでは論じない。しかし、誰にでも一様に来る死を、いかに迎えるかは、マニュアルがあっていいだろう。主君のために死ぬのは真っ平御免だが、どうしても死ぬことが避けられないなら、何とかうろたえずに死にたいではないか。
「葉隠」が教えたのは、男らしさでも何でもいいが、何かの価値を大前提とし、その価値意識の前では、いつでも自分を判断停止の状態に持っていくように自分を訓練しておけ、ということである。実際には、その対象が、時には神であったり、天皇であったり、自分の名誉であったりするわけだ。しかし、死を乗り越えるような、そうした「虚構の」(現実の存在でもいいが)価値は現代で可能だろうか。私は、自分の家族のためなら、もしかしたら自死を受け入れることも可能かな、という気もするが、それ以外では思いつかない。しかし、宗教を信じている人間が、比較的容易に死を受け入れるのは、こうした判断停止によるものだということは、あまりにも当たり前すぎて逆に気がつきにくい点ではないだろうか。要するに、そうした連中は(失礼ながら)生前から半分気が狂っているから、簡単に死を受け入れられるのだ。まあ、神や仏といった虚構を本気で信じ込むことにも、こうした大きなメリットはあるということだが。ついでに言えば、神や仏といった存在が厄介なのは、それが存在しないことの証明が不可能なことだから、私がこんなことを言ったところで宗教信者たちには痛くも痒くも無いはずである。さらについでに言っておくと、私は、気の狂った人間が「正常な」人間よりも劣った存在だと考えているわけではない。北杜夫がどこかで言っていたように、正常と異常の間に明確な区別はなく、我々は皆、多かれ少なかれ狂人なのである。ただ、社会にとって不都合な種類の狂人が隔離されたり治療されたりするだけのことで、それは、我々すべてが潜在的な犯罪者でありながら、ある種の基準を満たした人間(必ずしも、法を犯した人間とは限らない。権力にとって不都合な人間や、単なるスケープゴート的な冤罪の犠牲者もいる。)だけが犯罪者扱いされることと、何も変わりはない。
結論的に言えば、「葉隠」は、あくまで封建領主の統治のためのサポートテキスト以上のものではなく、いわば、会社が社員教育に使う非人間的な教育マニュアルでしかないが、その中心に「死」がある、という点でユニークなものである。そして、死そのものの考察の上で、もしかしたら、これまでの微温的で空疎なホスピスやターミナルケアについての言説には欠けていた「狂」や「ロボット化」という視点を与えてくれる、重要な参考書となるかもしれないのである。問題は、しかし、「愛と誠」(ふ、古い!)の名台詞ではないが、「**のためなら死ねる!」という存在を我々は探せるだろうか、ということである。

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