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正義論

正義論

1 はじめに

 プラトンの『国家』の副題は確か「正義について」だったと思うが、その中の正義についての議論は明確な決着がついていなかったという記憶がある。ソクラテスが途中から「国家論」の方に話を変えてしまったのではなかったか。その中でソクラテスの論敵トラシュマコスの論は、「悪は本人に利益をもたらすのだから、(本人にとっては)善である」というようなものだったと記憶している。この論をソクラテスは結局否定できなかったはずだ。
 これから「正義」について考察する上で、『国家』を前車の轍とするならば、あの議論が紛糾し混乱したのは、「正義」を自明なものとしてしまい、きちんと定義づけなかったことから来たのだと思う。そこで、まず「正義」について定義する。

2 正義の定義

「正義」とは簡単に言えば「正しいこと」である。しかし、そう言うのは簡単だが、「正しさ」とは何かと言うと、もう少し話が複雑になる。
「正しさ」とは、
① 論理的に正しいこと。ある問題の正解。
② 道徳的に正しいこと。人間が他人との関係においてとるべき適切な行動。
③ 宗教的に正しいこと。神の掟(指図)に従うこと。
というような分析ができる。
それ以外の「正しさ」があるかもしれないが、今思いつくのはこれくらいだ。
 
 さて、物事を考察する便法として、「対立概念や類似概念を考える」という方法がある。そこで「正義」の対義語を考えれば、それはもちろん「悪」である。また正義の類似概念としては「善」が考えられるが、実は、善は悪の対義語にはなるが、必ずしも正義の同義語ではない。

「善」とは、
① 良いこと。一般的にすぐれていること。
② 利益であること。あるいは当人にとって好ましいこと。
③ 善良であること。道徳的にすぐれていること。
などの意味合いがあるが、これが「正義」とは必ずしも一致しないことはわかるだろう。

大胆な定義をすれば、「正義」とは行動基準(指針)であり、「善」とは評価基準であると言うこともできる。正義を行うことは当人にとっての不利益をもたらすことも多いのだから、「正義=善(当人にとって良いこと・利益であること)」とは限らないのである。逆にトラシュマコスの言うように「悪=善」ということが成り立つこともある。これは「悪行(悪因)→善果」ということなのだが、これを「悪=善」と言うと矛盾表現にも見える。


3 正義の判断

「善」を評価基準だと考えることにしよう。そして、「正義」の判断に「善」であるかないかを利用することにする。
「善でないこと」を「悪」とするのは、しばらく保留する。その前に、「悪」の定義から行おう。

「悪」とは
① 悪いこと。本人や周囲に害をもたらすこと。すなわち「害悪」
② 道徳的に悪いこと。ただし、その道徳が個人的道徳か社会的道徳かの問題がある。
③ 不快感を与えるもの。外面的なものと内面的なものがある。
上の③を「悪」の定義に入れるかどうかは、やや問題がある。「悪相」や「醜悪」のように、「悪」という字の用法としては③はありえるが、我々は通常「悪」という言葉に③の意味は含めていないだろうからである。しかし、今後の論の展開から③の意味も必要になるかもしれないので、そのまま置いておこう。
 上記の定義のうち、①はさらに細分化する必要がある。つまり、「本人に害をもたらすこと」と「周囲に害をもたらすこと」とはまったく別だからだ。だから、通常、不良青年やヤクザは周囲に害をもたらす行為によって本人は(主観的にでも)利益を得るのである。
 悪について考えるには、悪のもたらす利益と、本人と周囲(あるいは社会)との利害の対立について考える必要があるが、この問題は後に回そう。
 ②は、やや不明瞭に見えるかもしれない。①のような「害悪」は単に「不利益」なのだから、わかりやすい。しかし、「道徳的な悪」を考えるには、まずその「道徳」について検証しなければならない。「道徳の起源」「道徳の本質」「道徳の意義と効用」などの分析が必要だ。だが、これも後に回す。

 さて、「正義」の判断基準に「善」であるかどうかを入れるというのは適切か。つまり、「正しい行為」というのは、善であるかどうかで判断していいものなのか。いや、それより先にそれは誰にとっての正義であり、誰にとっての善なのか。
すなわち、「正義」や「善」は、全人類が共有でき、同意できるものなのか、それとも特定の集団内部でしか通用しないものなのか。
仮に後者であるならば、もはや哲学上の問題としては終わりであろう。私(我々)は私(我々)の正義を主張し、彼らは彼らの正義を主張する。そして力と力がぶつかりあって、勝った方の「正義」が生き残る。これが「勝てば官軍」という奴だ。そして現実世界の正義とはだいたいそんなものである。
しかし、哲学的な意味で我々が求める正義とはそのようなくだらないものではない。
全人類が同意し共有できる正義があるかないか。これがこの文章全体で扱う問題である。

4 所属集団にとっての正義と絶対的正義

 我々が考える正義とは、通常はその所属する文化によって規定された正義だろう。「嘘をつくな」「人を殺すな」「姦淫をするな」などの道徳律を守ることが正義であり、さらに、より積極的に周囲の人間にその道徳律を守らせるという行動が正義の行動となる。
 この場合その「正義」の正しさを保証するのはその集団の文化的伝統の総体である。その文化的伝統の中で「これは正しい行為である」と見なされた行為を行うのが正義なのである。たとえば「弱い者をいじめることは悪であり、弱い者を救うのは正義である」など。したがって、その集団の文化が変質した場合、その正義も変化することになる。たとえば前の命題とは逆に、スパルタにおいては弱いことそのものが悪であった。またたとえば「社会や他の集団に対しては悪事を行ってもいいが、仲間にだけは忠実である」というヤクザの正義が、現代の若者全体に広がっていることは、少年漫画を見れば一目瞭然である。もともと、少年漫画はストーリー展開上、他者との争闘が必須である。そして他者との争闘を合理化する理屈は、「自分の属する集団に対立する集団は敵であり、敵に対してはどのような悪も許される」という戦場の論理なのである。これはまた実質的に国家の論理でもある。
 さて、そうすると、ここで倫理学的に重大な問題が発生する。仮に、最初はある集団に属していた人間が、何かの事情で他の集団に移った場合、昨日までの味方は今日の敵となるわけだ。この場合でも正義そのものは変わっていないと見るべきだろうか。「昨日勤王明日は佐幕」と新納鶴千代みたいに生きることも正義にかなっているのだろうか。

 義(正しさ)とは何か、ということについて、墨子は「義とは利益であることだ」と定義している。この定義は簡潔であるが、浅薄にも見える。(ただし後述するが、これは実は浅薄ではない。)孟子はそれとは逆に「義と利をはっきりと弁別しなければならない」と言っている。しかし、では、孟子の考える義とは何か。それが分からないのである。

 とりあえず、最初に戻ってもう一度正義の定義を考えてみよう。正義とは正しさであり、正しさとは「① 論理的に正しい。 ② 道徳的に正しい。 ③ 宗教的に正しい」の三つがあった。この分類は、悪くはないと思う。
 言葉を変えれば、①は頭の中での正しさ、②は対人的・社会的な行為の正しさ、③は神の前での正しさである。この三つは合致することが多いとは思うが、常に合致するわけではないだろう。反社会的な教義を持つ新興宗教が社会から弾圧される例はよく見られることである。あるいは科学的な「真理」が反社会的な考えだとされた例も多い。いい例がガリレオ・ガリレイの「地動説」である。彼の説はキリスト教の教えに反するとして宗教裁判にかけられ、刑罰を恐れた彼は自説を撤回した。つまり、①と③は対立することがある。
 しかし、これらは皆、「宗教というものが根本的に誤っているのだ」とすれば問題は解消される。社会全体が宗教のエートスに染まっていた時代は迷信の支配する時代であっただけだ、という考えだ。そこで、とりあえず、③の「宗教的に正しい」については考察の対象から外して、①と②の関係について考えてみる。
 道徳的に正しいかどうかを考察する際に、その考察の仕方が論理的に誤っていないならば、世間のほとんどの人間が納得する客観性のある答えが出てくるだろう。つまり、①は②の正しさを保証しこそすれ、②と対立するものではない。問題は、言葉を使う側が「正しさ」をどちらの意味で使っているのか混乱させないことである。

 さて、ここでいよいよ本題に入る。
 「正義」とは、「道徳的に正しいこと」である、と定義しよう。では、何が道徳的に正しいことなのか。それを考える中で、「所属集団にとっての正義」と「絶対的正義」の違いも明確になってくるだろう。


5 道徳的な正しさとは何か

 道徳とは何か。「道」とは「人として歩むべき正しい道」であり、「道」とは「やり方」でもある。現実の道と同様に、人は道徳的に正しい道を正しい歩き方で歩く(正しいやり方で生きる)ことで正しい目的地へ行き着けるというわけだ。その正しい道の例が「嘘をつくな」「人を殺すな」「姦淫をするな」などの道徳律であるというのは前にも書いたが、個別的に見ればこれらの道徳律が実にあやふやなものであることは明白である。たとえば、我々は嘘をつかずには一日も暮らすことはできない。朝の挨拶から社交辞令、世間話に至るまで、その大半は嘘のオブラートにくるまれているはずだ。また、「人を殺すな」についても国家そのものが戦争時には殺人を命じるし、平常時にも死刑制度によって国家自体が人を殺している。「姦淫をするな」に至っては、「誰にも迷惑はかけていないのに売春(セックス)して何が悪いの」と主張する中高生の女の子が納得できるように説得できる大人は一人もいないだろう。
 では、道徳とは単なる「努力目標」なのか? 誰も守っていないが、守っているふりをするのが社会的儀礼だというだけのものなのか? あるいは国境を越えればそれぞれに異なる、ただの民族的風習にすぎないのか?

 いや、そうではないだろう。なぜなら、どの民族にも国家にもそれぞれに道徳があったということ自体、道徳が人間にとって必要なものであることを示しているからである。
 そこで、もう一度立ち戻って考えてみると、墨子の言う「義とは利益であることだ」という言葉は、見かけよりも深いものがある。つまり、道徳が存在することは社会全体にとっての利益であり、ひいては、それは個人の利益でもあるということなのだ。だが、道徳の規範自体は通常、「欲望の制限」であるから、個々の人間は道徳を自分にとって不利益であると考える。ここが道徳のパラドキシカルなところであり、道徳についての思考が紛糾する原因なのである。

 つまり、道徳とは「より大きい立場に立ってみた場合、個人にも社会にも大きな利益になるところの欲望制限の体系」なのである。そして、道徳とは「完全な実行が不可能に近いために、一般の人間には努力目標でしかありえない」という宿命がある。これも道徳が軽視される原因だ。つまり、法律とは異なり、「道徳を破ることの罰則」は無い。あくまで、道徳的な葛藤は個人の内面で起こるのである。「欲望をもって女を見るよりは、その目をえぐり出すほうがよい」などとキリストに言われても、自分の目を抉り出す者などおるまい。

 では、具体的現実的に考えて、道徳的に正しいこととは何だろうか。すなわち、その禁欲や規制が社会全体の利益であることとはどのようなことか。これはほとんど子供でもわかるような常識的行動になるはずだが、それを次章で考えてみよう。

6 我々はどう行動するべきか

 ロールズの「正義論」は、現代の古典的書物のようだが、学校教科書に紹介されているその趣旨は、次のようなものだ。
 「正義とは公正のことであり、自由と公平を実現することが正義である。それには以下の三つの原理がある。①平等な自由の原理:誰もが自由を保障されること。②機会均等の原理:社会参加や競争に関して機会が均等に保証されること。③格差の原理:社会的に不利な立場の人々には一定の配慮がなされること。」

 では、「公正」とは何か。「公」とは「私」の反対であり、社会性を意味すると見てよいだろう。つまり、「公正」とは、「社会性と客観性のある正しさ」だ。これによって個人が自分の主観のみで正義を主張するという態度は否定される。
 正義とは公正のことである、というロールズの主張には私は異論は無い。しかし、それに続いて出てくる「自由と公平を実現することが正義である」という主張には賛成できない。そもそも「自由と公平」が両立できないことは自明のことだろう。もちろん、ここで「公平さを損なわない限りで、個々の自由をできるだけ実現すること」と言えば、まったく問題は無くなる。アメリカ人は自由という言葉が好きだから、こういう「修飾語(制限)付きの自由」はお気に召さないだろうが、自由は基本的に他人の自由と衝突するものなのだから、まずその点を明確にする必要がある。
 そもそも、正義の概念の中に「自由」という要素が必要かどうかも疑問である。正義とは当為としての道徳律、つまり、いやいやながらでもやらざるを得ない行為であり、自由とはむしろ対立するものではないか。仮に本当に「自由に」行動させるなら、ほとんどの人間は自己の欲望を優先し、正義などそっちのけで行動するだろう。ロールズが「自由」という語を使ったのは、アメリカ文化のパラダイムが原因の思考停止から生じた勇み足だろう。
 そこで、ロールズの論を少し改変すれば、「公平を実現することが正義である。」という非常にシンプルな原理になる。そして、そのような行動は「公正な行動」だということになる。つまり、私が自分の個人的な欲望を抑え、社会性と客観性のある判断に従うとき、その行動は公正な行動と見なされるということである。
 こんな当たり前のことを言うのに、ずいぶん長々と回り道をしてきたものだが、正義というあいまいな言葉を明確にするのは、そう簡単なことではないのである。
 ロールズには「無知のヴェール」という用語もある。それは、私の判断が公正かどうかを判定するには、「私」という存在やその利害を棚上げにして、客観的に判定することが必要だということである。つまり、問題の件に無関係な第三者として判断する、その判断こそが正義にかなった判断だということである。
 以上のロールズの論は、「自由」云々を除けば、まずまず妥当な考えだろう。しかし、ここまではまだ一般論でしかない。現実的な場面で、正義にかなった行為とはどんなものを言うのか。それは道徳的行為とは何かと言い換えられるだろう。道徳とは、結局、社会正義の体系なのだから。

6 道徳を単純化してみれば

 あらゆる道徳は、ただ一つの原則に集約できる。それは「他人に害を与えるな」ということである。「嘘をつくな」も「殺人をするな」も「姦淫をするな」も、それらが他人に何らかの害を与えるため、その規制として作られたのである。しかし、我々が生きるのは、自分の欲望を満足させるためでもある。欲望を満足させるには他者との衝突や闘争が避けられないこともある。したがって、他人への害悪があまりに大きい場合は「法律」によって処罰が規定され、社会全体の抑止力となるが、害悪が小さい場合は道徳によって内面的に規制される。かつて(具体的には宗教心が道徳の背後にあった時代)は通常の人間に対しては、道徳だけでも十分な抑止力だったのである。だが、現在では、道徳による社会秩序の維持はほとんど存在しない。我々が悪事を行わないのは、ただ法律があるからである。
 いずれにしても道徳の基本原則は非常に単純であり、ただ「他人に害を与えるな」ということだ。しかし、その実際への適用が難しい。そこで、「嘘をつくな」「殺人をするな」「姦淫をするな」などの個々の道徳律が生じてくるのだが、それでもまだ「どのような状況なら許され、どのような状況では許されないか」という問題、つまり、現実というアナログで不定形の存在に「言葉」というデジタルで不完全な物差しを当てはめるという困難な作業が必要になってくる。そして、その解決は基本的に、「担当者、あるいは当事者の恣意的判断による」しかないのである。これは道徳以上に厳密性を要求される法律でさえも基本的にはそうなのである。
すなわち、法廷で様々な議論が行われても、裁判での最終判断は裁判官の恣意(裁判官の主観による法解釈と事実解釈)で決まっているというのが現実だ。それが明らかになるのは、国家の悪行に対する裁判官の判断が、必ず政府有利にしか判断されないということによってである。すなわち、裁判官は政府に雇われている以上、政府に逆らう判決を下すのはほとんど不可能に近いのである。しかしながら、それは本当は法の否定であり、国家自身が自らを法治国家ではないと知らせるようなものだ。本当の法治国家ならば、政府が敗北する裁判がもっと頻繁にあってよい。
 道徳に話を戻そう。道徳的戒律の対象となる悪行にはどのようなものがあるか。それを一言で言えば、「他人に害を与えること」だ、というのは先に書いたとおりである。それには「肉体的に危害を加えること」「財産や所有物を侵害すること」「精神的に危害を加えること」の三つがある。意外にもこの三つしかないのである。つまり、「私の身体への危害」「私の精神への危害」「私に所属するものへの危害」の三つだけである。
 たとえば、他人を侮辱することは、武家社会においては、そのまま刀での切りあいに発展した。名誉を汚されたままで生きることはできない、とかつての武士たちは考えたのである。こうした名誉を重んずるという心性は、日本人だけのものではないが、日本の武士は極端なほどに名誉を重んじたということだ。しかし、良く考えてみると、他人の侮辱は、それを自分が侮辱だと考えた場合にのみ侮辱になるのではないだろうか。もちろん、それが公衆の面前で行われたら、自分がどう思おうが、名誉が汚されたということは事実となる。プーシキンの『その一発』の中で、ある男が、自分に加えられた侮辱に対し、決闘という手段を採らなかったことで、その男の心酔者がその男に失望するという記述があったが、侮辱に対する復讐というのは、名誉回復の正当な手段だと洋の東西を問わず認められていたのである。余談だが、個人的な復讐や決闘が禁じられて、国家が暴力の権利を独占してからは、名誉という観念も失われた気配がある。
 要するに、精神への危害は肉体への危害以上にかつては重大なものだったのだ。しかし、今や、精神への危害に対して復讐をしたならば、その人間は国家によって処罰されるだろう。精神への危害に対する報復ができなくなったことと、現代において正義の観念が希薄化してきたことには深い関係がありそうである。
 肉体への危害は、それとは逆に、過剰に保護を受けているように思われる。つまり、目に見えるものについては権利義務関係が細かく規定されるが、目に見えないものはその存在価値がどんどん薄れていっているようである。(これに似た例が、現代における神への信仰の希薄化だ。)
 所有物への危害に至っては、「民法」の大半がその規定ではないかと思われる。しかしもちろん、所有物への危害は法律の問題であると同時に道徳の問題でもある。「汝盗むなかれ」という戒律は法律でもあり道徳でもあるのだ。ここで所有物とは何かを論じてもいいが、話が煩雑になるので省略する。たとえば夫や妻はその妻や夫の所有物だろうか。奴隷ならば明らかに所有物になるが、家族は所有物ではあるまい。また土地を所有するとはどういうことか。本来は誰のものでもない土地に、なぜ所有権というものがあるのか。開墾し手を加えたことによって所有権が生じるなら、なぜ森林や山林や原野にも所有権があるのか。また、先祖の所有権がなぜ子孫の所有権として認められるのか。これらは無批判に受け継がれてきた伝統にしかすぎないのであり、誰も問題視しないから問題化されないだけのことである。だが、ここではこれ以上は論じない。
 以上のような「精神への危害」「身体への危害」「所有物への危害」が「他人に害を与えること」だというのは、まず了解されたことにしよう。
 では、なぜ他人に害を与えてはならないのか。
 数学には極限という考えがある。ここでそれを応用してみよう。「他人に害を与える」ことを極限化して考えてみるのである。それは『どらエモン』の「独裁者スィッチ」のようなものになる。相手に与える最大の害は、その存在の消去である。つまり、自分が嫌う相手をどんどん消去(デリート)していくのだ。すると、最後に残るのは自分だけか、あるいは自分の意に逆らうことはけっしてしない奴隷かロボットと自分だけだろう。後者も「真の意味でこの世に存在するのは自分だけ」という世界である。
 さて、このような世界にいるあなたは幸せな人間だろうか。まさにこれは極限の自由であり、世界中のすべての物はあなたの思いのままだ。だが、あなたはそれを他人に与えてはならない。なぜなら、今は他人に害を与えることの極限を考えているから、どのような善行もやってはならないのである。そうすると、あなたの幸せは、本当に幸せなのか、という疑問が出てくるだろう。あなた以外に「人間」が存在しない世界で贅沢の限りを尽くして、あなたはそれで幸せになれるのか。誰か、他人の存在が無いと、あなたの幸せは完全にはならないのではないだろうか。仮に誰かが存在しても、その相手が、あなたの意に逆らうことはまったくできないようにプログラムされた人間ならば、そういう相手は人間と呼べるだろうか。おそらく、余程精神の異常な人間(これは社会上位の人間にも実は多いのだが)でない限り、自分以外に「人間」がいない、そういう世界にいる自分を幸せだと感じることは難しいだろう。
 他人に害を与えてはならない、というのは、以上の思考実験から、他人に害を与えることで自分も不幸になるからだと言える。だが、それほど簡単なものか。

 悪とは破壊的行為であると定義できるだろう。特に人間関係を破壊する行為である。いや、悪事を行いながらけっこう周囲と友好関係を築いている例もある、と言われるかもしれない。もちろん、その人間が真の悪人なら、それは周囲を騙して良好な人間関係を偽装しているだけだ。それでもその人間が幸せである、ということもあるだろう。そして物事の真実を見抜いている人間が、そういう「幸せな悪人」を見た時に、「天道是か非か」と司馬遷の嘆きを嘆くのである。しかし、それはその悪人が「悪によって」得たものではない。悪によって得られるものは物質的財産だけであり、物質的財産がその価値によって他の人間を引きつけたならば、それは財産自体の持つ「善」つまり「利益性」の結果にすぎない。悪の結果が直接に善報になったわけではない。
 金には善も悪も無い。金を得る手段の一つに悪行もあるし、むしろ悪行こそが手っ取り早い財産獲得の手段だろう。そこで金と悪が結びつくのである。金が目的で悪行をするわけだ。世の犯罪の大半はそれである。
 こうした犯罪を抑止するのがかつては道徳であったが、現在は法律しか無い、とはずっと前に書いた。
 他人に害を与えたことで本人が不幸になるのは、神経が弱いからにすぎない、という考えもできる。マクベスが主君殺しをした罪の意識に悩んでいるとき、マクベス夫人は夫の小心さを嘲笑ったものである。しかし、そのマクベスは勇猛な武将であり、戦場では無数の敵兵を殺してきたはずである。だから彼の怯えは殺人のためではなく、主君殺しを彼が特別な罪だと考えたことの結果だと言える。つまり、罪の意識は社会的・文化的に形成される超自我だろう。ならば、罪の意識なしに悪行をするのはそう難しいことではないはずだ。社会全体がアモラル(無道徳)になれば、罪の意識というものも無くなるはずだ。それこそ、まさしく現代という時代の特徴ではないか?
 悪を為すことで本人が不幸になるのは罪の意識のせいだとすれば、罪の意識さえ無くせば悪を為すことへの障害は無くなることになる。実際、この世界にはそういう悪の訓練所はヤクザ組織から軍隊に至るまでたくさんある。軍隊の第一の役目は「人を殺すことが平気な人間を作ること」なのである。会社なども会社の利益のためなら悪事のできる人間を重宝するだろう。善人ほど役に立たないものもない。なぜなら、道徳とは「禁止の体系」だからである。道徳とはブレーキなのだ。しかし、ブレーキの無い車はどういう存在になるか。そう、破壊的存在そのものになるのである。

7 社会にとっての悪と当人にとっての悪

 前章の最後の考察から、道徳を必要としているのは個人ではなく、社会である、という結論を出すのは簡単だ。だが、私はその結論を採用したくない。私は、実は「悪はその当人をも幸福にしない。その当人にとっても不利益な選択である」という仮説を心の中に持ってこの論考を始めたのである。
 つまり、「悪は当人にとって利益をもたらすから善(良きもの)である」というトラシュマコスの説を打破するためにこの文章を書き始めたのだ。
 もちろん、社会に害悪を与えれば、それが跳ね返って本人にも害悪を与える、などという理屈も言えるが、それが屁理屈であることは誰でも分かる。この世では悪を為しながらそこから利益しか得ていない人間が無数にいるからである。「悪因→悪果」という連鎖は、ここでは途中で切れるのである。すなわち、悪が利益を生むという現実が確かにある。
 にもかかわらず、悪は当人にとっても悪(不利益)である、という結論は私の中では動かし難い。最初に結論ありき、かよ、と馬鹿にされるかもしれないが、私には悪の結果として「幸福」になっている人間が本当に幸福だとは思えないのである。それは別に良心の呵責に苦しめられるだろうから、という話ではない。本物の悪人には良心など無い以上、良心の呵責も存在しない。たとえば、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人たちに良心の呵責というものがありえるだろうか。良心がかけらでもあれば、あのような残虐な行為はできないはずだ。いや、この世には良心などまったく無い人間も無数にいる。全人口の2~3%は、おそらくそうした人間である。つまり、学校ならば一クラスに一人は、生まれつきのヤクザ・殺人者だろう。
 では、そういう人間として生きることは幸せなことだろうか。良心が無い、ということは他の能力の欠如は別に意味しない。そういう人間が天才的なスポーツマンであることも、勉強の才能があることも、漫才の才能があることもあるわけだ。道徳のブレーキが無いということは、行動が自由であり、世間的権威をも恐れないから、案外格好良くさえもある。昔からドラマの世界では不良がもてはやされるのはそのためだ。
 しかし、私が悪人を見る時に思うのは、その精神の貧困さである。なぜ彼らはこれほどに貧困な精神しか無いのだろうか。悪を為し得るという心の回路には、他の人間を人間として尊重するという部分は無い。だからこそ悪を為し得るのである。他の人間は彼にとって道具か餌でしかない。そういう人間が作る人間関係が貧困なものにしかならないことは自明だろう。もちろん、幸福になるのに人間関係など不要だ、という人間もいるだろう。だが、人間関係を別としても、悪人の精神は私には汚らしいものに思える。いかに物質的に恵まれていようとも、彼らの精神と自分の精神を取り換えたいとはけっして思えない。それが、悪人として生きることは不幸だ、と私が言う理由だ。
 実在の人物を例に出して申し訳ないが、某東京都知事は文学的才能に恵まれ、金持ちの家に生まれ、生まれてから一度も経済的困難を味わったことはなく、政治家としては三流だったが都知事にまでなった男だ。だが、私は、彼になって生きるよりは都庁の傍で凍えているホームレスになったほうがいい。彼の得たあらゆる幸福も、彼のような精神で生きるという不幸の償いにはならないのである。この東京都知事はただの例である。彼はべつに「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を犯したことはない。ただ、その精神は彼らと同一だと私には見えるということである。
 つまり、悪は社会にとって不利益をもたらすから悪なのではない。それなら当人にとって利益でさえあればいいわけだ。悪は、当人にとって悪なのである。それは、汚い心で生きることによって当人の人生そのものが汚染されるからである。
 汚い心とは何だ、という文句が聞こえそうだが、それは人間の理想や善なるものに対する不感症のことだ。悪人は、そういう理想や善への感性が無いからこそ悪を為し得るのである。通常、そういう理想や善が心に存在することで他人への愛情も可能になる。他人の体だけを所有すればいいという人間関係ではなく、相手のために自分が犠牲になってもいいという真の愛情は悪人には不可能なのである。
 結論的に言えば、倫理とは実は美感なのである。なぜ我々は利己的行為を嫌悪するか。それは、その行為によって自分が害を受けるからではない。それが汚い行為だからだ。他の悪行も同様である。それらは他者への害の有無以前に、汚いという感覚を我々に与える。その起源がどこにあるのか、これもまた文化による超自我にすぎないのか、今は論じる気は無い。
 抽象的な悪ではなく、現実の悪人を想像してみて、あなたは彼あるいは彼女になりたいか、と自分に聞いてみたらいい。なりたくない、という心の声が聞こえたら、それはなぜか考えてみる。すると、悪人の精神を汚いと感じる心がそこにあるはずである。もしも、なりたい、という心の声が聞こえたら、あなたはすでに立派な悪人である可能性が高い。

ニーチェは『善悪の彼岸』の中で犯罪を称揚している。犯罪を為すことは精神の偉大さを表すと言わんばかりである。確かに、孤立無援の状態で犯罪を為すことには、ある種の勇気が要る。勇気や男らしさを最大の価値と見做す男根主義者(障子を破るくらい、オレのは固いゾ、というわけだ。まあ、小説でならどうとでも書ける。)なら、犯罪もまた勇気の証明だということになるだろう。映画やテレビドラマが犯罪者をヒーローとして描くのも同様の思想が底にある。しかし、世の犯罪の大半は弱者いじめと詐欺的行為にすぎない。権力を持った強大な敵にアウトローとして立ち向かうヒーローなど現実にはほとんど存在しない。権力に立ち向かう人間は遵法的に戦って、当然ながらみじめに敗北するのである。
つまり、悪を為すのはただ卑しい心性の証でしかないというのが現実だ。勇気や男らしさは、弱い存在を守ってこそ価値があるのであり、弱者をいじめ、自分のエゴを満たすだけの「勇気」や「男らしさ」に何の価値があるのか。もちろん、当人にとっては欲しい物を手に入れるのだから、価値があるだろう。しかし、周囲の人間にとっては、そういう存在は唾棄すべきものなのである。
悪人とは、いわば人間社会にまぎれこんだ野獣なのである。法律や道徳という社会のルールを無視することで彼らは自分の望むものを手に入れる。野獣とは言っても、東大や一橋を出た人間もその中にはたくさんいる。だが、精神が「人間」ではないから野獣だと私は言っているのである。当然だが、この場合「野獣」は褒め言葉ではない。力こそすべてという人間の場合、野獣という呼称を褒め言葉と思うから始末が悪い。
 
悪人のほうがこの社会では成功する可能性が高いということを説明しよう。単純に数学的な話だ。善人は「できないこと」が無数にある。彼は善に反することはできない。ルールに反することはできない。だが、悪人はすべてが可能である。最終的な目的のために必要なら善行だってできる。つまり、偽善も可能だ。ルールも彼には存在していない。
ならば、この世界では悪人こそが成功するというのは自明の理ではないか。あらゆる悪を拒否して生きれば、まあ、妻子にさえ愛想を尽かされるのがオチだろう。品性高潔な騎士ドン・キホーテはあらゆる人間に嘲笑されつつ絶望のうちに死んで行き、「現代のキリスト」ムイシュキンは「白痴」扱いされた。その一方、「神も悪魔も男も女も信じない」男、ド・マルセーは総理大臣にまでなるのである。世界文学の名作には、世の真実があふれている。


8 世に悪人の種は尽きまじ

「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽きまじ」とは石川五右衛門の辞世の歌だと言う。もちろんフィクションだが、この歌は世の真実を語っている。盗人を悪人と詠み変えたら、もっといい。
なぜ悪人の種が尽きないのか、と言えば、それは悪を為すことが当人にとって利益である、と一般には思われているからだ。
縁なき衆生は救いがたしと言うが、悪人は以上のような私の論考を笑い飛ばすだろう。悪が利益であることなど当然すぎることで、そういう自分の精神が貧困だとか醜いとか言われても、俺は一向に痛痒は感じないね、というわけである。俺は豪華な大邸宅で一本何十万円のワインを飲み、お前は暖房も無いような四畳半で凍えながら、力のある連中を内心では羨みながらぶつぶつ文句を言っているだけさ、というわけだ。
そして世の大半の人間も、金と権力のある人間と無名の貧乏人の発言を比べたら、当然前者に軍配を上げるだろう。これは「東大にも入れない人間の東大批判など聞く価値はない」という論法に似ている。だが、悪を為した後で悪を批判するということはできないのである。バルザックの小説に出てくる哲学的悪党のヴォートランは「美徳は切り売りできないんだぜ」と言っている。今日は悪行を為し、明日は善行を為すというわけにはいかないのである。
というわけで、善と悪が戦えば、確実に悪が勝つ上に、世間的評価も悪人の側に上がるという、情けない戦いがこの世界での善と悪の闘争なのである。
それでもなおかつ善を選ぶというのは容易ではないが、勝ち目の無い戦いだからやらないというのは算盤勘定を優先させすぎた考え方だろう。人生の価値は何も1本何十万円のワインや一晩何百万円の美女だけにあるわけではない。
『吾輩は猫である』の中の苦沙弥先生と金満家の金田氏との精神的闘争も、いわば拝金主義者の醜さへの夏目漱石の嫌悪感の現れであるが、現代の悪は拝金主義と、金を得るための闘争の中にある。もちろん、性犯罪者などもたくさんいるが、それらはすべて「自分の利益のためには他人に害を与えてもいい」という心性から来ている。
その心性は、元を尋ねれば、自分の動物的欲望を満たすことが何よりも大事だという考え方から来ているのだが、若い頃ならともかく、20歳を超えた人間がまだそう思っているなら、それは頭の中身が動物レベルであるということだ。人間の中の野獣なのである。それでいながら社会的地位も名声もあるという人間が無数にいるわけである。名声などというのは地位に付属するものであり、地位は人格とは無関係に得られるものだから、これはべつに奇妙でも何でもない。東京電力の社長や会長なども、原発事故が無ければ最後まで地位も名声もある人物で通せたはずなのである。

9 それでも悪にノーと言おう

私はこの論考で「善は利益であり、悪は不利益である」ということを言うつもりであるのに、善が割に合わないことを長々と書いてきた。
「それでも人生にイエスと言う」というのはフランクルの書物の題名だが、それに倣って、
「それでも悪にノーと言おう」というのがこの文章の結論だ。
なぜか? それは悪が薄らみっともない行為だからである。悪を為す時の自分の顔を鏡で見ればいい。それがいかに卑しい顔か、自分でわかるだろう。
ただその一点だけで私は、仮に龍之介の『杜子春』のように人生の選択を迫られたならば、東京都知事の豪華な生活よりもホームレスの暮らしを選ぶべきだと言っているのである。
馬鹿馬鹿しいって? まあ、そういう人間は『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノの行為も馬鹿馬鹿しいの一言で終わりだろう。あのシラノの行為は、東京都知事を何億人積み重ねても足元にも寄れない気高さがあるのである。人間としてこの世に生まれたのは、人間として生きるためであり、野獣や昆虫のように本能的欲望を満たすためだけではない。人類が美という概念を考えだしたことはまさしく奇蹟であり、行動の美というものが、この世には確かにあるのだ。それが善である。
正義とは、最終的には自分自身が正しいと見なす行為であるが、それはまた、自分自身をより高い次元から見て、自分や周囲全体によい結果をもたらす行為のことである。
それは時には人間の常識的限界を超える。だから、自己犠牲というものがあれほど崇高な美的感銘を与えるのであり、我々がそれに感動できるところに、美とは空虚な概念などではなく、生きる意味につながるものであることが示されているのである。

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