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「死ぬこと」のマニュアル

   「死ぬこと」のマニュアル

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、「葉隠」の中でもっとも人口に膾炙した言葉だが、あまりに明瞭な言葉の多くがそうであるのと同様に、この言葉を深く考えた人間は多くないように見える。(かつての私自身がそうだったのだが。)たいていの人間がそうだと思うのだが、人間にとって、やはり自分の命が一番大事だろう。もちろん、自分の愛する者の命をそれより上位に置く場合も多い。しかし、自分の主君のため、今なら自分の属する会社や組織や上司や国のために自分の命を投げ出すなんてまっぴらだ、というのが現代の大方の人間の心理に決まっている。私も同じである。だから、「葉隠」のこの言葉は、時代のパラダイム(枠組み、限界)に縛られた発言であり、自分とは無縁な言葉としか考えていなかった。しかし、花田清輝という、三、四十年ほど前に有名だった知識人の書いたある随筆の中に「葉隠」からの引用があって、その言葉で「葉隠」に対する見かたが少し変わったので、それを書いてみる。
 我々は、江戸時代や戦国時代の武士は、死ぬことに対する抵抗感が、今の人間より少なかっただろうと想像しているが、実は「葉隠」が書かれた頃はすでに太平の時代であって、武士の間ですら軟弱な気風が広がっており、その風潮に業をにやした老人が若い武士たちへの戒めとして書いたのが、この「葉隠」であったのだ。そして、彼は武士道の本質を、「死ぬこと」だと規定したのである。さすがに、当時としてもこれは大胆な規定だっただろう。この事は、逆に当時の武士たちが、死ぬことをいかに嫌がっていたかを表している。だから、作者の山本常朝は、「武士道に関し、二つの判断の間で迷ったら、早く死ぬ方を選べば良い」という、実践的なマニュアルを示している。これも極端な意見だが、「武士道とは死ぬことである」という大前提から出てくる、合理的で有効な命題ではある。
 さて、私が花田清輝の随筆の中で興味を持って読んだのは、その「葉隠」からの引用で、おそらくこれも若い武士への忠告と思われる、「おろめけ、空言言え、ばくち打て」と、「一町のうちにて七度空事言うが男なり」という言葉である。
 「おろめけ」とは、私の持っている古語辞典には載っていないが、「拝む」を「をろがむ」と言うのと同様、「をめく」つまり、「喚く」の命令形だろう。「わめけ、嘘を言え、博打を打て」と言っているわけだ。
 これは非常に面白い言葉で、また、ここに「葉隠」の本質が現れているのではないかと思われる。
 私は、「葉隠」とは、「死ぬ」ための実践マニュアルだと考える。
 人を、いかにして死に向かわせるか、というのは、すべての君主にとっての難問である。主君の与える「御恩」に対して、死で報いるという理屈もその一つだろうし、「忠」という抽象観念を持ち出すのもその一つだろう。戦国時代なら、戦場での死を賭した働きによって、褒賞や身分の上昇が得られる、というのもその一つだ。しかし、平時において、主君のために命を投げ出させるのは、容易なことではない。そうした状況で人間は、自らの死を逃れるために幾つでも理屈を考え出すだろうからだ。中でも邪魔になるのが、世間的なモラルと「忠」の衝突である。だいたいにおいて主君は、自分のエゴイズムのために部下を利用するわけだから、そこには当然世間一般の義理や人情との衝突も生じることになる。そこで、主君の側の立場に立てば、「二つの判断の間で迷ったら、ためらうことなく死を選べ」という実践的マニュアルが有効になるのである。つまりは、思考停止、判断停止を指示しているのである。その前提に、主君の、あるいは主家のために、という言葉があるわけだ。これは、軍隊、あるいは戦場においては、上官の命令は絶対であり、個人的判断は排除されるというのに似ている。こうした思考停止状態、判断停止状態で、兵士たちがいかに非人間的行為を行なってきたかは、枚挙に暇が無いだろう。また、それは戦争の遂行のためには正当な行為であったとされるのである。武家社会では、平時に於いても、主家の名誉のために個人の「自発的な」死が必要な場合もあっただろう。そうした時に有効なのが、この山本常朝の勧めるような自動反応的行為である。現代でも、新興宗教の教祖の非道徳的な犯罪命令に、信者たちが易々と無批判に従った例もある。人間は、習慣と訓練で、容易にロボット化するものなのである。新聞紙上を賑わす大企業や公務員の犯罪の多くも、そうした習慣による道徳的不感症によるものだろう。
 「喚け、嘘を言え、博打を打て」というのは、いつでも必要な時に命を投げ出せる(要するに、主君の役に立つ)のは、そうした人間だということなのである。これは、ヤクザの鉄砲玉(使い捨ての殺し屋役)などを考えてみれば納得がいくだろう。単純で動物的な人間のほうが、鉄砲玉には使いやすいわけだ。別の言い方をすれば、それがいいと言うわけではないが、部下たるものは、物事を理屈で考えず、本能(ただし、この本能は、単に自動反応的行為の意味だが)で動け、ということ、使命のために自らを狂的な状態にせよ、ということだ。人間は、理性的に自らの死を迎えるのは難しい。しかし、狂的状態では、人は容易に自ら死ぬものだ。そして、そうした状態を正当化する価値観が、「男」ということなのである。
「一町のうちにて七度空事言うが男なり」というのも面白い言葉ではある。一町とはおよそ百メートルほどだが、百メートル歩く間に七度嘘を言うのが男だ、と断定しているのが面白い。なぜ、嘘を言うのか、というと、これは「葉隠」の全体から見ての推測だが、自らの男としての誇りを守るために、という事ではないだろうか。一つの嘘は他の嘘を要求するものだ。そこで、最初の嘘を維持するためには七度も嘘をつけ、ということである。なぜ、主君のために、あるいは、組織のためでもいいが、死ぬことができるか、というと、一つには、そこに自分の男らしさの証明がかかっているからである。あいつは卑怯だ、弱虫だ、男らしくない、と言われる屈辱よりは死を選ぶわけである。そして、その前段階として、嘘をつくことに代表されるように、世間のあらゆる道徳にこの特殊なモラルが優先することが宣言されているわけである。
ここでは、自らの男としての誇りは、何物よりも優先されねばならないことになっている。つまりは、マッチョズムの行き着くところは、自死にあり、ということで、「葉隠」をあれほど愛読した三島由紀夫があのような死を遂げたのは、当然の帰結だったのかもしれない。一見、合理主義者に見える彼の、政治的発言やパフォーマンスのほとんどが理解不能なのは、彼が政治に求めたのは、自らの死のための単なる舞台装置だったからではないだろうか。もちろん、そこには、戦争中に自らが安全な場所にいて死を免れたことへの自己嫌悪があったと思われるし、彼独自の夭折への愛着、老化への恐怖もあっただろうが、本質的には男らしさというものへの強迫観念が彼の自死の原因だったと思われる。
 しかし、こうした男らしさへのこだわりが、女性からみれば、何ともあわれでいじましく見えるものであることを大抵の男は知らない。ボディビルで筋肉を鍛え上げた男性を、男は感嘆の目で見るが、女性は、「気持ち悪~い!」としか思わないものなのだ。大人の男たちの戦争ごっこ、軍隊ごっこに対し、田辺聖子が言った感想は「泣かんと、よう遊んではるわ」だったと覚えているが、男というものの子供っぽさを、これほどはっきりと表した言葉は無い。男たちの、力への憧れが、いかに幼児的な心理であるかが良く分かる言葉ではないか。それにくらべて、身の周りの細々としたものを大事にし、生活そのものを美化しようとする女性的姿勢は、はるかに高級で、文化的で、大人の態度だと言えるだろう。男は、彼らだけで放っておくと、着替え一つせず、風呂にも入らず、仲間うちで喧嘩ばかりする子供に戻ってしまうものだから、女性が教育してやる必要がある。しかし、残念ながら、権力は、それを望む者の手に入るものだから、世の権力は男性の手に握られている。戦争と闘争を事とする男社会はまだまだ続くだろう。男らしさが、自らの力の証明や実行と不可分であるかぎり、世の中は殺伐としたものにならざるをえない。
 要するに、「男」という価値意識は、現代ではほとんど建設的な意味を持たない。まあ、男らしさというものに強きをくじき弱きを助けるという任侠や、騎士道的な精神があれば別だが、しかし最近の映画やテレビや漫画などに見る現代の男らしさというものは、むしろ力で他を支配し、そのためには手段を選ばないという、弱い者いじめを恥じない、野蛮で粗暴なものになっているようだから、そうした男らしさは傍迷惑以外の何物でもないと言えるだろう。もっとも、それに比例して、最近の若い女性も生活の美意識を失った下品な女性が増えているから、お互い様ではあるが。
 本題に戻ろう。「葉隠」の基盤となっている「男らしさ」に意味が無いとすれば、「葉隠」にも意味が無いかといえば、そうではない。むしろ、現代においてこそ「死ぬ」ためのマニュアルは必要なのである。我々の現代生活は、生活感が希薄であるにも関わらず、いざ死ぬ段になったら誰もが死を恐れる。黒澤明の「生きる」の主人公のように、自らの死を目の前に突きつけられて、初めて自分の生の空虚さが分かるのだが、人生の中味はめいめいの問題だからここでは論じない。しかし、誰にでも一様に来る死を、いかに迎えるかは、マニュアルがあっていいだろう。主君のために死ぬのは真っ平御免だが、どうしても死ぬことが避けられないなら、何とかうろたえずに死にたいではないか。
「葉隠」が教えたのは、男らしさでも何でもいいが、何かの価値を大前提とし、その価値意識の前では、いつでも自分を判断停止の状態に持っていくように自分を訓練しておけ、ということである。実際には、その対象が、時には神であったり、天皇であったり、自分の名誉であったりするわけだ。しかし、死を乗り越えるような、そうした「虚構の」(現実の存在でもいいが)価値は現代で可能だろうか。私は、自分の家族のためなら、もしかしたら自死を受け入れることも可能かな、という気もするが、それ以外では思いつかない。しかし、宗教を信じている人間が、比較的容易に死を受け入れるのは、こうした判断停止によるものだということは、あまりにも当たり前すぎて逆に気がつきにくい点ではないだろうか。要するに、そうした連中は(失礼ながら)生前から半分気が狂っているから、簡単に死を受け入れられるのだ。まあ、神や仏といった虚構を本気で信じ込むことにも、こうした大きなメリットはあるということだが。ついでに言えば、神や仏といった存在が厄介なのは、それが存在しないことの証明が不可能なことだから、私がこんなことを言ったところで宗教信者たちには痛くも痒くも無いはずである。さらについでに言っておくと、私は、気の狂った人間が「正常な」人間よりも劣った存在だと考えているわけではない。北杜夫がどこかで言っていたように、正常と異常の間に明確な区別はなく、我々は皆、多かれ少なかれ狂人なのである。ただ、社会にとって不都合な種類の狂人が隔離されたり治療されたりするだけのことで、それは、我々すべてが潜在的な犯罪者でありながら、ある種の基準を満たした人間(必ずしも、法を犯した人間とは限らない。権力にとって不都合な人間や、単なるスケープゴート的な冤罪の犠牲者もいる。)だけが犯罪者扱いされることと、何も変わりはない。
結論的に言えば、「葉隠」は、あくまで封建領主の統治のためのサポートテキスト以上のものではなく、いわば、会社が社員教育に使う非人間的な教育マニュアルでしかないが、その中心に「死」がある、という点でユニークなものである。そして、死そのものの考察の上で、もしかしたら、これまでの微温的で空疎なホスピスやターミナルケアについての言説には欠けていた「狂」や「ロボット化」という視点を与えてくれる、重要な参考書となるかもしれないのである。問題は、しかし、「愛と誠」(ふ、古い!)の名台詞ではないが、「**のためなら死ねる!」という存在を我々は探せるだろうか、ということである。

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他人を否定することで優越感を持つ人々


「阿修羅」によく投稿するASY8氏の文章を、コメント付きで転載する。なぜコメントも転載するかは後で説明する。
ASY8氏の文章はたいてい面白い。自分の周囲の物事に対する観察眼があり、分析も的確だ。特に、描写力が素晴らしいから、この人は作家的才能があると思う。ただ、感想が常識的すぎるから、私小説系統の作品以外は向いていないように思う。つまり、奇想や飛躍のあるユニークな作品は書けないかと思う。しかし、これだけの観察眼と描写力があるだけでもたいしたものだ。下の文章は、普通の人のあまり知らない世界の優れたルポルタージュになっている。ただ、この人は文章の段落分けをしない癖があって、非常に読みにくいので、こちらで勝手に段落分けをして転載する。
で、コメントを転載する理由だが、それは、こうした掲示板でのコメントというものの浅薄さの事例としてである。ASH8氏の記事は、読者が直接には知らない世界をレポートしてくれる貴重な文章であるにも関わらず、こうして簡単に否定するようなコメント(コメント2は肯定的だが)をしているわけだが、これは他人を否定することで自分がより上位の存在になったかのような錯覚と満足感を得ているのである。実はこういうコメントの書き手はこの記事の中の「常に誰かを嘲笑している」連中と同タイプなのだ。
「東大話法」の本質を言えば、「自分はレベルが高く、他の人間はレベルが低い」ということを見せつけるということだが、ネット上のコメントの多くは、幼稚なレベルの「東大話法」と言える。
なぜ幼稚かと言えば、そこには論拠も何も存在せず、ただ他人を否定するだけだからである。一言コメントというものは概して下らないものだが、それでも言った本人は自分が偉くなったような錯覚に陥るのである。
「他人を否定すれば、自分はそれより上であることになる」という錯覚は、実はほとんどの、他人の陰口や批判の根底にある心理でもある。
そういうお前のブログも他人の批判ばかりじゃないかって? まあ、それはそれ、これはこれである。(©島本和彦)


(以下引用)

独立行政法人
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/784.html
投稿者 asy8 日時 2012 年 2 月 17 日 18:27:09: 3ati27iqg4fYY

2012年2月17日、午後3時43分頃、ポリテクセンター三重の手書き製図制作教室付近にて、電気設備科の若いごろつきにまたしても因縁をつけられた。
これはいつもの人物ではなく、別の人物である。私が担当教官に対して相談した時に、他にもいろいろと不愉快なことを言う奴がいるから気をつけるように言われていた。しかし、そのときにはなんのことかわからなかった。これも同じく10月入所組である。とにかく平然と、侮辱的な発言を行う。しかし、面と向かって喧嘩をする度胸はないようだ。女の腐れのようにいつもつぶやいているし、これまた暴言を吐き続けている。
ここには常に教室でもどこでも帽子をかぶりつづけている者がいる。それも作業用の帽子ではなく、ファッション的な帽子である。頭が禿げているのを隠したいのか、それともそれほどまでに帽子が好きなのかよくわからない。この人物も教官の指示命令には従わず、いつも好き勝手なことばかりしている。他にもいつもニット帽をかぶっている者もいる。ヒッピーのような服装の者もいる。これにはあまり気がつかなかった。最近になって、やたらに挑発行動をするようになったのは、例の人物がおとなしくなってからである。本当に今までに働いてきたことがあるのかわからないが、ものすごく傲慢であり、威張り腐っており、これまた横柄で、平然と昼寝をする。そして、やたらと強がりを言う。何をそんなに怖がっているのかわからないが、やたらに強がる。強がるし、いきがるし、とにかく結果(引用者注:「喧嘩」の誤記だろう)を売ってくるのだが、いつも逃げ腰である。仕掛けてくるのはいつも向こうであり、私はなるべく避けているのだが、とにかくやたらに注目を浴びたいようだ。
ここの訓練校に入校することはお勧めできない。こういうごろつきやチンピラが集結しており、まったく統制が取れておらず、いかなる正常な訓練も行われていない。形だけでの表面的なものだ。とても本気で、技術や技能、学問をしようという気配は感じられない。常に退廃的であり、無気力であり、非常に険悪で、治安が悪く、常に陰口悪口が蔓延している。規律とか、規範とか、倫理、良心、道徳心、向上心は全く感じられない。普通の人にとっては退屈だろうし、真面目な人には苦痛だろう。ここはゴロツキが集結する危険地帯である。
もちろんまともな人物もいる。それが私だとは言わない。もちろん私自身にも問題があるのだが、それにしてもここは全くいかなる配慮もなく、全て完全に放任主義なのである。いかなる規則もなく、規律も、ルールも何もない。若いからといっても、過去の職場において、まったく地位や役職もなかったとは言えず、それなりの責任ある地位にいたのかもしれない。だが、この連中の日頃の言動や、雑談の違法行為の自慢話や、因縁つけの手口等からすると、とても責任ある地位にいたとは思えない。もしもこの連中が再就職ができたら、本当に奇跡だとしか思えない。だが年齢が若いのであれば、就職では(注:「就職は」の誤記)できるだろう。
この毎日因縁をつけてくる、例の人物以外のいじめ常習犯については、まったく相手にしたくないし、逆に相手にすると、指導員に怒られてしまうが、どうやら何としても、私に認めて欲しいようだ。私が認めるかどうかがどうしてそんなに重要なのかわからない。そもそも他人の陰口悪口を言いたい放題、毎日言い続けておいて、友達になりましょうとか言うのは全く変であり、異常であるとしか思えない。未熟であることは、当人も気がついているようだが、そんな卑怯者に対しては、何も意見は述べられない。少なくとも、他人に意見を述べるときは、まずは自分お(注:「の」の誤記)氏名を名乗るべきであるし、また、群衆に紛れて背後から言うべきではない。そういうことに熟練しても、誰も褒めてくれないし、それで出世することもない。国会では、ヤジ将軍などもいるが、それで成功した人はいない。なんともやっていることは女の腐れのようなことであり、どうにもこうにもならない。その上、それを追求(注:「追及」が適切か)すると、とぼける始末で、結局は、自分の発言にいかなる責任も取らず、知らぬ存ぜぬととぼけるだけで、まさに自分から志願して幽霊になったようなものである。こういうのはまったくつかみどころがないし、どこの誰なのかもわからない。こういう幽霊が今後どのように生きようとも、それは自由だが、自分が不正行為をしてきたのに、それを誰も親切に注意してくれなかったなどと言わないで欲しいものだ。またそういうやり方で、仲間を増やすことは難しい。
この人物は、特定の同じ10月入所組に対しては、やたらにゴマすりをして、授業中でも私語を続けている。どうも何か勘違いをしているようであり、自分が偉いと錯覚しているようだ。確かに頭は悪くないようだし、器用でもある。不思議なことに、こういう連中は、過去に工業高校を卒業したせいか、頭は悪くないし、器用だし、工業技術系の知識とか、経験も豊富である。確かに仕事のやり方は知っているようだ。ただ共通しているのは、文化的なものは一切ない。何か知的なというか、文化的な、芸術的な高尚なものはなく、神や仏を信じない傾向がある。もちろんそれは個人の自由である。ただし、自分が偉いと思い込んでいるうちは、絶対に本当の友人はできないものである。それに、何か自分の好きな文化的な、知的な趣味を持つべきである。パチンコとか、競輪、競馬、競艇等の賭け事ではなく、何かもっと芸術的なことだ。本を読むのもいい。要するに、今までの荒廃した、すさんだ人生観ではなく、何かこうもっとNHK的な、(注:こういう表現が期せざるユーモアになってもいるが、高踏的な読み手には嫌われそうなところだ)要するに、一般教養を習得すると、管理職向きとなる。いつまでも、毎日のように、他人に暴言をはき、陰口悪口を言い続けて嘲笑し、他人のゴシップだけで雑談を終了させるのではなく、もっと知的な文化教養度の高い会話をするべきだ。他人に因縁をつけるのではなく、普通の挨拶をするべきだし、それが嫌ならせめて沈黙するべきだ。
私が教養があるとか、知的であるということではない。もしもそうであれば、今頃は公務員になって威張っている。訓練生ではなく、所長になって、一日中パソコンで遊んでいる。全て部下に任せて自分は部屋に閉じこもって昼寝をしている。(注:もちろん、皮肉だろうが、全体の書きぶりが真面目なので冗談に聞こえないところが難点だ。しかし、職業訓練校の所長の仕事の実態を知らせるメリットもある。すべて天下りの仕事ぶりはそんなものだろう。)
いくら自分の間違った人生観を他人に押し付けようとしても、そんなものは通用しない。
訓練校の指導員も大変だ。こういうのを相手にしないといけない。まったくどうにもこうにもならない。ただこの連中の嫌がらせの手口はかなりのものである。しかし、その手口を褒め称える気にはなれない。むしろとてつもなく悲しいし、情けない。若いとはいえ、もうすでにそれなりの年齢であるのに、やっていることは小学生程度である。小学生でもしないかもしれない。
まずなによりも悪いのは、卑怯であることだ。自分の安全を確保しつつ、何の関係もない他者を陰湿に攻撃し続け、それを得意としている。反省もないし、罪の意識もない。まったく進歩向上する気もなく、堕落しているのをかっこいいと勘違いしている。再就職しても、相当に苦労するだろうし、逆に職場で相当にいじめ攻撃を受け、上司からもいびられるだろう。だが、巧妙に取り入って、ゴマすりをする技術はあるようだ。仲間とは何であろうか?普通の一般人は、犯罪者と仲間になりたいとは思わない。
さらに不思議なことに、この人物は、やたらに警察の話をするようになった。あたかも警察は自分の仲間であるかのような話ぶりである。しかも授業中にその話をしている。休憩時間中は、誰も相手にしてくれないので、授業中に雑談をしたいようだ。
こういう連中に共通していることは、とにかく常に誰かを嘲笑しているということである。よほど劣等感が強いのか、常に誰かを見下していないと安心できないようだ。しかし、まともに喧嘩をする度胸はない。そして自分の言ったことを決して認めない。常に堂々巡りであり、水掛け論であり、収拾がつかない。要するに何がしたいのかもわからない。べろべろに甘えん坊であり、まったくへろへろで女よりも女の悪い面が出ている。要するに会話にも筋が通っていない。それは私も同じだが、とにかくいつもぶーたれている。ダウンタウンのはまぐちのように、いつもぶーたれている。何か今までに苦労をしてきたという感じがしない。火星かどこかからきたかのようだ。
ただし、他人が不愉快になることはズバリと決して逃さずに言いまくる。もちろん同じことは他の誰でも出来るが、あまりにもガキっぽくて他の人はしないだけだ。こういう連中は、本当に間髪を入れずに、他人を侮辱する方法を心得ているし、相手傷つく言葉を常に考えているようだ。それを武器として大量に備蓄し、常に使用する機会を狙っている。(注:このあたりの観察眼と分析力、描写力は凄い)
あまりにも悲しい。果たしてこんな人間が、責任ある地位を獲得できるのだろうか。そんなことで部下の信頼を勝ち取ることができるのだろうか?企業の星として、会社の重役として、あるいは、小さな町工場の社長としてであろうとも、そんなチンケな根性ではとてもなれない。そんなことをして、物が売れると思っいているのだろうか?私もいろいろな店を知っているが、確かに店員のなかには、客に対して陰口悪口を言う者がいる。しかし、そういう店員はすぐにいなくなってしまう。長続きしないのだ。それどころか、店そのもがつぶれてしまうことも珍しくない。客に対して、そういう態度をする店が繁盛するわけがない。
私がどうしてこのようなことを述べるのかというと、それはこれからここに来ることを計画している人に、実態を知ってほしいからだ。もちろん他の訓練校でも問題はあるだろう。バラ色の訓練校等はないと思うかもしれない。しかし、私は、こういう問題がいつまでも長く続いたということばかり記憶しているのではない。決してすべての訓練校が、こういう状態にあるわけではない。
過去にどういう実績、経験があろうとも、謙虚な気持ちは捨てないで欲しい。それを捨てたら人間は終わりだ。傲慢になり、威張り腐り、もう自分は何でも知っているとか、他者よりも作業が早いとか、そんなことは、自慢にも何もならない。それはそれで素晴らしいが、現場で活躍して自慢するべきことだ。それにどんなにそういう技能が優れ、知識があり、早く作業を終わらせられても、他人に因縁をつけたり、侮辱し、嘲笑し、からかい、陰口悪口を言って面白がるなら、そんな人間は、たとえどんなに若くても、有害な存在であり、どんな職場でも必要ではない。会社としては、作業が完了しさえすれば、それでいいのかもしれないが、一人ですべてをやるならともかく、協力してやらねばならばならない時には、そういう態度ではだめだ。またそういう人間に友人はできない。  
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コメント
01. 2012年2月17日 20:08:10 : IYyRSPdFJA
面白いが私的なことは書き込むな。

02. 蒲田の富士山 2012年2月17日 21:02:46 : OoIP2Z8mrhxx6 : 8h0h6m0uF2
面白かった。

03. 2012年2月20日 10:27:29 : BLErIkpY3A
心情の吐露ってそもそも雑談板じゃ無いでしょう?

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言うまいと思えど今日の寒さかな

「晴耕雨読」というブログから転載。しかし、ワードの馬鹿ぶりにもうんざりだ。「性向ウ独」だとさ。そんな言葉どこにあるんだ。この程度の四文字熟語さえ出すのに四苦八苦するワープロソフトがデフォルトなんだから、日本人の日本語能力が今後どんどん劣化していくのは確実だ。そういう私自身、ワードのせいで、気付かずに誤字を書いていることもある。
それはともかく、談志はやはり鋭いね。実はプーチンも同じことを言っていて、地球が温暖化するなら、それはロシアにとっては福音であり、温暖化のどこが悪いのか、と欧州の科学者に聞いて、相手をしどろもどろにさせたという。
ついでながら、私が父親から聞いた英語謎々である。答えは下の談志の話の中にもある。

「次の英文を訳せ。

You might or more head today’s some fish. 」

何? この程度の英文が訳せなくて、それで中学生か!
答えは「ゆうまいと思へど 今日の 寒さかな」である。
わからん人は、上の英文をもう一度音読してみよ。ただし、「today’s」と「fish」だけは日本語でね。日本語表記を「思へど」にするのもポイント。
ついでながら

「You might or more head today’s as fish.」なら「今日の 暑さかな」になる。
「あずさかな」だろう、などと細かいことを言うんじゃない。

これも蛇足だが、現在地球は新生代第四紀の冲積世であるが、これは氷河時代の第四の氷河期、ウルムが終わって、次の氷河期になるまでの「第四間氷期」(おお、安部公房!)であり、つまり地球はこれから第五氷河期に入るはずである。であるから、温暖化が来るなんて嘘っぱちだよ~ん。
もっとも、上の考えは、私が中学生の理科の参考書を解読して出した結論であるし、私は理科の劣等生だったから、あまり当てにはならない。


(以下引用)


「追悼:元政治家・立川談志~「地球温暖化論」の大ウソを見抜いていた。」 
 エネルギー問題
追悼:元政治家・立川談志~「地球温暖化論」の大ウソを見抜いていた。
投稿者 長岡京・豊 日時 2011 年 11 月 26 日 から転載します。

地球温暖化の話題で騒がしかった頃、科学のことばを全くつかわないで、ウソ話を喝破していた立川談志、時事放談・「地球温暖化」(週刊現代)、面白かったので、そのまま転載して、元政治家・立川談志の冥福を祈ります。



「地球温暖化」だとサ、笑わせやがる。早い話、寒いよりゃ暖ったかいほうがいいに決まってる。

第一寒いと風邪をひく。氷屋が儲からないし、冷蔵庫も売れない。暖ったかけりゃあ裸で暮らせる。貧乏人にゃもってこいだ。

裸一貫とか、裸で話し合おうなんざぁ暖かくなきゃできないこった。

今年の春(注・原文のまま)も寒かった、嫌だった。チベットの地震も寒くなきゃ被害が少なかったろうに…。

寒いところよりゃ、暖かいほうが住みやすい。「常夏の国」にどれだけ日本人は憧れたか。早い話、それがハワイであったり、アメリカ人も南へ南へという心持ちがどっかにあるのだろう。だからフロリダは夢の場所だった。

寒くていいのは…何かあるかい? 毛皮屋かネ、けど、毛皮ぁ取りすぎて今日の姿である。

志ん生の小噺に長屋の女房の会話で、

女A「ねぇ、お前さん、あんな亭主と一緒にいるけど、先々、何か脈あるのかい?」
女B「ないよ、あんなもなぁ…」
女A「それじゃ、何だって一緒にいるのだい?」
女B「…だって…寒いんだもの…」

大好きなフレーズだ。寒いなぁ本当だった。日本中寒かった。

「おお寒、小寒、山から小僧が泣いてくるっていうが、小僧どころか船頭が泣いてらぁ…」、これは「夢金」、吹雪の夜に船を漕がねばならない船頭の愚痴だった。

今も昔も変わらない。人はどれだけ春を待ったか、暖かい日々を待ったか、夏の暑さも貧乏人にゃさほど苦でもないし寒いよりゃいい。

人間暑けりゃ裸一貫で暮らせる。が、雪ン中、冬の寒さに浴衣一枚ではもつまいに。

湯だってそうだ。熱けりゃうめりゃいいが冷たいのは焚かなきゃなるまい、沸かさにゃなるまい?

「談志、馬鹿いうな、地球だぞ。話は我々が住んでいるこの地球だぞ。それが温暖化してるんだぞぉ!」

「知らねえよ、暖っかいのと寒いのとどっちがいいというこった。答えは簡単だろ」

だいたい、学問なんてあんなものは貧乏人の暇つぶし、未来なんて手塚治虫の漫画で知ってらぁ。

あの人は天才。
議論するのは勝手だけど、この頃日本人、生意気に手塚さんになったつもりが多すぎて…、つまり、地球温暖化はねえ…等々。こういう奴に限って飲み屋に借金があるもんだ。

歌謡曲だって南の唄はいい。北国の唄なんて、「エリモの春は何もない春です……」だとさ。もっと古くなりゃ、「興安おろし吹きすさび 戦闘服は凍るとも 我等祖国の前衛は ここにあくまで頑張って 冬を越します 左様なら」

上原謙の便りシリーズ「北満便り」である。知らねぇだろうなぁ、この懐メロ……、まあいいや。地球温暖化、なるようにしかならない。いいよ、氷山なんか溶けたって、日本の夏が暑すぎたって。

暑いネ、暑いよ、言うまいと思えど今日の暑さかな。この文句、冬にもあるよ。言うまいと思えど今日の寒さかな。くどいが暖っかいほうがいい。雪の見たい奴は寒いところに行きゃいい。(以下略)

北半球の今年の冬、厳しい寒波が襲来すると予測されています。地球寒冷化論が優勢になりつつあるらしいです。「CO2排出25%削減」のホラ話、始末はどうするのですかね。

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空の幽霊騎士たち

酔生夢人という名前にふさわしく、たまには夢の話でも書こう。といっても「私には夢がある」というあの夢ではない。私は「実現目標」という言葉は好きだが「夢」という言葉は嫌いだ。そういう夢はたいてい夢のままで終わるものだからだ。
しかし、本物の夢は映画やテレビを見るのと同じであり、それ以上に奇妙な切実感があるから面白い。
で、下記の記事は私が別にやっているブログに今朝掲載したものだが、(私は4つほどブログをやっている。そのうち「徽宗皇帝の娯楽的語学ブログ」は現在休止中だ。)なかなか書くのに手間がかかったので勿体ないからここでも使わせてもらう。実際に今朝見た夢の話である。


他人の見た夢の話など馬鹿馬鹿しくて聞いていられないものだが、今朝がた見た夢が面白かったんで備忘のために書いておく。
それはクリント・イーストウッドの遺作となるべき映画の夢である。つまりその映画そのものを夢で見たのだ。というより、これはもちろん私が夢の中でその映画を創造したということだ。
私はべつにイーストウッドのファンではないが、彼が現在の最高の映画監督の一人であり、映画そのものを代表する人間であると思っている。そして、彼は映画というジャンルの最後を看取る人間だろうと思っている。
CGによって映画は死んだのである。映画の持つ、「作り物であることが分かっていながらの、いや、作り物だからこそのワクワク感」がCGには見事に無い。それは映画そのものの死である。
で、イーストウッドには最後の映画でCGを使い、映画というジャンルがこれでお終いであることを語ってほしいわけだ。

さて、この映画のポイントは最後の10分間にある。映画のエピローグ部分だ。本編はありきたりのB級西部劇でいい。その内容は、イーストウッドが西部の保安官、あるいは賞金稼ぎの西部男で、それとコンビを組む若者がいる。で、イーストウッドは本編の中で死ぬかどこかに去っていって本編は終るのだが、実はここからが本当のテーマだ。
エンディングクレジットが流れた後、画面には、今は老人となったかつてのイーストウッドの仲間の若者の部屋が映る。その老人はおそらく自分のヒーローであった西部男(イーストウッド)の伝記でも書こうとしていたようで、机や棚にはタイプされた紙が堆積して埃をかぶっている。
ある日、老人は過去の記録を書き遺すことをあきらめ、自分の小屋に火を点けて旅に出る。
そして老人はある田舎町に来る。
そこで老人はイーストウッドによく似た若者が仲間と談笑しながら通り過ぎるのを見て驚く。もちろん、ただの田舎の青年で、鉄工所かガレージにでも勤める平凡な若者にすぎない。
老人は首を振って町のかなたに目をやる。
小さな丘の向こうに赤い小山のようなものが見える。
すぐにそれは巨大な、枯れたアカマツのような巨木であることが分かる。しかし、高さは500メートルほどもある巨木なのである。(もっと馬鹿馬鹿しく大きくてもいい)
その巨木はゆっくりと倒れていく。と同時に、その巨木の枯れた枝が赤い雲のようになって空に飛散し、赤い吹雪となって流れていく。次の瞬間にその赤い吹雪は無数の騎馬の西部男の姿になる。(ここから軽快な音楽が流れるが、一連の単調な音の繰り返しであり、高揚感とドライブ感はあるが、実は「葬送曲」なのである)次にその赤い雲は無数の騎馬のインディアンの姿になり、空の彼方に駈けていく。
こうしていわば「GHOST RIDERS IN THE SKY」の姿を残像に残し、映画は終わる。
そしてそれと共に映画というジャンル、西部劇というジャンルも終わるのである。

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飯山一郎伝授の健康法

闘う老人飯山一郎のブログから転載。
さすがに癌は人生を豊かにするとまでは思わないし、下に書いた方法が本当に癌の対策になるかどうかは分からないが、むしろ一般的健康法、特に老人の健康法としては理想的だろうと思う。特に過食は万病の元だと私は思っている。
消化能力の衰えた年齢の人間が食べ過ぎると肥満が起こり、高血圧、糖尿病、そしてこれは私だけの考えだが腰痛などの原因になる。腰痛はウェストへの不要な肉や脂肪の蓄積が原因であると私は考えているのだ。というのは、私自身かつて肥満気味だった頃は腰痛に悩んでいたが、8キロほど減量し、ウェストも6センチほど細くしてからは腰痛が起こらなくなったからである。
ついでに言うと、ダイエットには食事量を減らすしかないというのが私の考えだ。「食べながら痩せる」という虫のいいダイエット法はすべてインチキである。まあ、さすがに毎食コンニャクだけを食うか野菜だけを食えばある程度は痩せるだろうが、そういう食事にいつまでも我慢できるはずはない。運動によるダイエットも長続きはしないものだ。
食事量を少しづつ減らすことで、「胃袋を縮める」のが中年以降のダイエットの基本だ。胃袋は習慣によって容量が変化するのである。大食が習慣の人間は胃袋がいつも大食を要求するから小食が苦痛になるわけだ。その胃袋の要求に屈服して大食しているのが世間の肥満者なのである。要するに、自己コントロールができない意志薄弱な連中にすぎない。もちろん肥満している自分に満足しているなら、その限りにあらず、だが。
ついでに言えば、寒さは健康の大敵であるから、地球温暖化は全人類にとって福音なのである。だが、残念ながら地球は温暖化などしていない。
私などのように、冬でも凍死することのない沖縄で暮らすことは恵まれたことなのだが、ここにはまた四季の区別の面白さが無い。すべてを一度に手に入れることはできないわけだ。


(以下引用)


このところ、掲示板:『放知技(ほうちぎ)』での論争を楽しんでいる。
ところが、別のスレッドに深刻な書き込みが投稿された。それは次の文章だ。

飯山先生へ
いつもブログ拝読させていただいています。
自家製豆乳ヨーグルトで日々免疫力を高めています。
おかげさまでこの冬は、風邪をひくこともありませんでした。
感謝しております。
実はお聞きしたい事があるのですが、私の家内が本日の検診にて
乳がん(初期段階)を言い渡されまして、不思議に思っております。
マクロファージががん細胞を駆逐してくれていると思っていました。
摂取量が少ないかもしれませんが・・・・。

これを読んだ私は、全ての作業を中止し、しばし黙想したあと、一気に書いた。
最愛の家族と親友に読ませるつもりで書いた。以下の文章である。

        『癌は人生を豊かにする病気』

清水さん
世の中のお医者さんに嫌われるのを覚悟で懸命に書きます。
先ず…、
癌は、昔と違って、今は「死に至る病」ではないということ。
私の親友のヤン教授のように、乳酸菌と春ウコンと散歩と入浴。これだけ
で癌が完治しました。このような完治例は少なくありません。
次に…、
最大の問題は、日本の医療システムにあります。
最初は検診の結果、厳(おごそ)かに告知されます。
そして、告知する医師は必ず言います。
「まだ初期段階ですから心配要りません! ただし、早期発見、早期治療の
原則どおりに早めに治療を受けて下さい!」
こうして患者は、「早期治療」を受けることになります。どんな治療なのか?

  1.患部の切除  2.抗癌剤の投与  3.放射線の照射

  上の3つの「治療法」しか、日本の医療システムはもっていません。
どれも、大変な荒療治です。荒療治すぎて、身体は免疫力が落ちてしまい
自然治癒力もなくなります。
ですから、私でしたら、上の3つの荒療治は、頑として拒否! します。

さて…、
清水さんの奥さんの乳がんは、初期段階ですから、乳房に癌が形成され
はじめたのは、5~10年前のことです。
つまり、清水さんの奥さんの乳癌は、5年~10年かかって、やっと検診に
引っかかるだけの大きさになったのです。…これはどうしてなのか?

癌細胞は、活性酸素や放射線によって正常細胞が癌化したものです。
この癌化する細胞は、正常な人間でも、一日に5~7千個できます。
それで、この癌細胞は、マクロファージやNK細胞という白血球やリンパ球
が、どんどん呑食していきます。
清水さんの奥さんの場合、マクロファージやNK細胞の数が少なかったか?
癌細胞の生成数が多かったか? …で、乳部において癌が育ってしまった、
ということです。

では、今後どうしたらいいか?
 1.先ず、上に書いた3つの荒療治は、絶対に受けてはいけません。
 2.次に、免疫力(=血中のマクロファージやNK細胞の数)を上げるために
   腸内の乳酸菌の密度を濃くすること。
   そのためには、乳酸菌の密度が濃い豆乳ヨーグルトが最適。
   普通、米とぎ汁乳酸菌の乳酸菌密度は、1cc当たり、数百万個。
   ところが、良く発酵して酸っぱい豆乳ヨーグルトは、1cc中数億個!
   この濃密な乳酸菌が腸内に入ると、血中マクロファージが激増する!
 3.あとは、激増した血中マクロファージが癌細胞を呑食します。
   これを自然治癒力と言います。癌が自然に治る力です。
   この自然治癒力は、癌が消失するまで続きます!
 4.そのほかに、気をつけることは…、
   A.少食。食べ過ぎると癌細胞が喜んで増える。
   B.温暖。身体が冷えると免疫力が落ちる。
         身体が温まると癌細胞は増えない。
   C.散歩。速足・大股で汗が出るまで歩くと新陳代謝が亢進し、身体が
         温まり、免疫力があがり、癌細胞が減ってゆく。
   D.色素。春ウコンなど、色素、ミネラル、ポリフェノールの多い食材は
         血中のマクロファージやNK細胞の数を増大させる。
   E.感性。そうなんだ!貴男が飯山さんに聞いた方法でEんだ!という
         自信と確信をもって二人して生き抜いていく仕合せ…。

清水さん、以上の文章を何度も読んで、自信と確信をもって、奥様と二人、
力をあわせ、心をあわせながら実行して下さい。必ず!長生きします。

                             飯山一郎 拝む

上の文章をココに載せた理由は、もう一つある。
今後7~8年後から、日本における癌の発症率は激増する。
その時、私たちは、どう対処したらいいのか?
上の文章は、その時の一つのシナリオとしても活用できる。
わずか1時間弱で一気に書き上げたが、日頃から自分のこととして考えていた
ことなので、文章は悪文だが、内容というか、闘病哲学的には自信がある。
上の文章は、清水さんのほか、最愛の家族と、年老いた親友たちに捧げたい。

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日本と世界の今年を占う

私は趣味で易をやっているので、今年度(立春以降に変化は現われてくると思う)の日本と世界の運勢を占ってみた。で、出た卦に驚いたのだが、まさしく現在の世界情勢にぴったりな卦なのである。
最初に安心させておくが、日本の卦は素晴らしい卦であるから、日本人にとっては良い1年になりそうだ。(去年が最悪だから、今年は良くなって当然と思うだろうが、去年より悪化することだってありうるのだ。)だが、世界全体の卦は最悪に近い。

日本の卦は「地天泰」であり、安泰・安心の卦だ。

世界の卦は「山地剥」で、すべてが剥がれ落ちるという卦である。つまり剥奪される卦だ。

詳しく言うと、日本の卦は「地天泰」の五爻で、全体運は「小往き大来る。吉にして亨る。」というもの。日本を駄目にしていた小人物どもは去り、大人物が主導権を握る。吉であり、願いは通る、ということである。つまり、現民主党や官僚の中の泥棒的支配者どもが一掃され、信頼できる指導者(小沢一郎か?)が日本を導いてくれるだろう。五爻は婚姻の卦で吉の卦だが、国家に置き換えれば、日本にとって好ましい国際同盟や友好関係が結ばれるかもしれない。相手はロシアか中国ではないかと思われる。小沢一郎や鈴木宗男が政治の表舞台に復帰すれば、その可能性はある。世界情勢が最悪の中で、おそらく日本と少数の国だけ(南米の反アメリカ政府連合と中国、ロシアくらいか)がその災厄から免れるだろう。あるいは世界的大恐慌の中で、日本だけが安泰となるかもしれない。それには日本の指導者となる人間が毅然としてNWOの世界的侵略に立ち向かうことが必要になる。

世界全体の卦は「山地剥」の4爻で、全体運を簡単にまとめると「往くところあるによろしからず。小人長ずればなり」で、4爻は危険がその身辺近くに迫っている、という卦だ。おそらくIMFや世界銀行による世界収奪が大恐慌を引き起こすということだろう。「剝」は彼らによる富の収奪だろうと思われる。ロックフェラーやロスチャイルドその他の大金持ちたちが強盗のように庶民からなけなしの金を剥ぎとるわけだ。あるいは戦争などもあるかもしれない。
しかし、一方では「剝」は隠していたものが現れる意味もあるから、NWOの正体が世界的に知られることにもなるだろう。NWO対地球市民の全面戦争になるかもしれない。つまり「オキュパイ・ウォールストリート」の世界的運動化だ。マルクスの予言した資本家対プロレタリアートの階級闘争がはっきりと形になるわけだ。
「山地剥」の4爻が変ずれば「火地晋」となり、太陽が地上に出て、物事が好ましい方向に進んでいくような時代が到来することを暗示しているので、この「剥」はむしろ陰謀的な世界支配者の正体が世界全体の目に明らかになることを意味し、本年はその最後の戦いの年になるとも考えられる。もちろん、今年一杯はNWOが暴威を振るうが、その後は彼らの敗北になるわけである。
まあ、そううまく行くかどうか。楽しみに見ることにしよう。

というわけで、まあお遊びと思ってもらえばいいのだが、なかなか面白い卦ではないか。
易というのは、それ自体が予言を与えるというよりは「考えのヒント」になるというのがその一番の利点だと私は思っている。つまり、何も無いところから発想するのは困難だが、易の言葉を手掛かりにすることで考えを発展させることができる。そういう思考のマトリックス(分母・母胎、あるいは順列組み合わせの表)として利用できるのが易の面白さであり、有益なところである。

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「沖縄」と「琉球」の名前の起源

「沖縄」と「琉球」の名前の由来についての冗談半分の一考察

高良倉吉氏の『琉球王国』を読んで、ふと思いついたことだが、『唐大和尚東征伝』に記載された「阿児奈波」の発音は「あこなわ」ではなく、「あこなは」ではなかったろうか。
「わ」と読める漢字は幾つもあるのに、「波」の字を充てたのは、それが「は」という発音を表すためだったのではないかと推理したわけである。私の記憶が確かなら、「ひらがな」の「は」は「波」の崩し字が由来であり、「波」を「は」と読むのは当時の人には自然なことであっただろう。とすれば、「阿児奈波」を「あこなわ」と読んだという前提で明治政府が今の沖縄に「おきなわ」という名を与えたのは誤りであったことになる。
まあ、「沖縄」の語がどういういきさつで選ばれたのかは良く知らないのだが、少なくとも発音の上では「オキナワ」ではなく「オキナハ」であるべきだったのではなかろうか。
というのは、おそらくこの「オキナハ」の「ナハ」は現在の「那覇」に由来すると思われるからである。「おき」や「あこ」が何を意味するかは分からないが、当時の沖縄人(日本では奈良時代末期)にとって沖縄という島全体を意識することはほとんど無かったと考えるのが自然だろう。とすれば、『唐大和尚東征伝』の筆者が島の人間に島の名前を聞いたのに対し、聞かれた方は自分の住む地域、いわば「那覇村」とでも言うべき場所の名を答えたことは大いにありそうなことである。沖縄方言、あるいは沖縄南部方言で「あこ」に近い言葉があるとすれば、「あこなは」が「あこ+那覇」である可能性が出てくるわけだ。もちろん、「縄」などという漢字を当てる意味はない。それこそ、沖縄は改名して「那覇県」とでもするほうがいい。そうすれば県名と県庁所在地名が一致して覚えやすい。まあ、「那覇」の字は漢字が難しいから「奈波県」でも「那波県」でもいいが。ついでに那覇市も改名して「那波市」にすればいい。字が書きやすくて小学生たちが喜ぶだろう。
さて、同じく『琉球王国』を読んでのもう一つの推理だが、同書に一説として書かれているように「琉球」とは本来は台湾を指したのではないだろうか。『隋書』にある「流求」の記述には沖縄には生息しない動植物の記述があるという話だ。とすれば、中国王朝から勘違いで「流求」という名で呼ばれた古代沖縄の族長(まあ、王様と言ってもいいが)がその名を受け入れ、字を「琉球」に変えたという推理ができる。
これも「流求」でもべつにいいが、そうするとその後の沖縄(琉球)の歴史的流浪を予言する名称であったわけである。我々は薩摩に支配され明治政府に支配され米軍管理下に置かれ、祖国復帰し、などさまざまに流浪する沖縄の中で、その未来を求め続けるわけだ。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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