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三月の雨の日に

芭蕉の俳文の中に、「朝から雨が降っている。寂しい心のままに無駄書きして遊ぶ」という文章がある。この「無駄書きして遊ぶ」というのが、まさしく文章を書く楽しみを表していると思う。
文章を書くというのは、自分自身の心と遊ぶということである。
たとえば、読書という遊びもあるが、それは他人との対話であり、やや騒がしい。「雨降りだからミステリーでも読もう(「勉強しよう」だったか?)」というのは植草甚一の本の題名だったが、雨降りの日の読書はミステリーには限らない。パソコンの前で他人のブログなどを読むのも、一種の読書だ。しかしそれらはすべて「他者」との対話である。雨降りの日は世間の喧騒から離れられる得がたい機会でもあるのだ。
雨降りの日は家に閉じこもっていて、来客も無いことが多い。その無為の時間を楽しむには、何もいらない。ただ外の雨を眺め、自分の心と対話をするだけでもいいのである。

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「39階段」のスポーツ感覚

ジョン・バカン「39階段」のスポーツ感覚

ジョン・バカンの冒険小説「39階段」は、冒険小説の本質であるスポーツ感覚に満ち溢れている。スポーツ感覚とは、つまり、障害や困難の克服と、それに伴う爽快感である。英国にすぐれた冒険小説の伝統があることと、英国人のスポーツ好きとは表裏一体の関係だろう。アメリカ人は、実は冒険小説を好まない。彼らはもともと農夫であり、居酒屋での政治談義は好むが、自らスポーツ的に冒険の世界に飛び込む気は、あまりないのである。したがって、ハリウッド製の映画でも、スポーツ感覚に溢れた冒険映画は、実はそれほど多くはなく、たいていはサスペンス映画である。例外的なのは、ジョン・スタージェスの「大脱走」くらいだろうが、あれもヨーロッパが舞台であり、原作は多分、英国人ではないかという気がする。アメリカ人の好むのは、ホラーとサスペンスであり、だからこそスティーブン・キングやディーン・クーンツなどがベストセラー作家になるのである。アリステア・マクリーンやイアン・フレミングのような冒険小説作家は、英国からしか出ないと言ってもいい。イアン・フレミングの「007」にしても、イギリスでテレンス・ヤングが監督した作品と、ハリウッドで作られるようになってからではかなり変質しており、ハリウッド版は肉体感覚を伴ったスポーツではなく、頭の中で組み立てられただけの、ただのゲームに化しているのである。この肉体感覚の無さが、ハリウッド映画の最大の欠点であり、彼らの考えでは、すべては頭脳の内部で決まるゲームなのである。ハリウッド映画にもしも人々が違和感を感じるなら、その原因はおそらくここにある。それは、近年のアメリカ文学にしてもそうなのである。つまり、「爽快感が無い」ということだ。「ダイ・ハード」を見て、爽快だったと言う人もいるだろう。確かに、難問の知的攻略を「体を張って」やる、という点では比較的スポーツ的ではあった。だが、「大脱走」や「ナバロンの要塞」のようなスポーツ感覚かというと、どうも違う気がする。一つには、あれが閉ざされたビルの内部の話である、という理由もあるだろう。
ジョン・バカンの「39階段」は、スパイ退治の冒険小説だが、「ピクニック小説」と言っていいくらいの野外感覚がある。それはスポーツの爽快さの重要要素なのである。つまり、「ダイ・ハード」での汗が、不快な冷や汗でしかないのに、「39階段」の汗は、かく側(そば)から涼風に吹き払われる気持ちのいい汗なのである。これが私の言う「39階段」の爽快さである。
「39階段」の作者は保守主義の政治家でもあり、英国の植民地主義を正当化するその愛国思想は、他国民から見ればいい気なものだと思うが、困難を笑って受け入れ、それと戦っていこうとするスポーツマン精神には感心せざるをえない。英国の階級制度に良い点があったとすれば、それは「ノブレス・オブリッジ」に見られる騎士道精神と、冒険精神にあったのだろう。それを私はフェア・プレイ精神に基づくスポーツ感覚と言っているのである。

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「微細なものの巨匠」

     微細なものの巨匠

 「微細なものの巨匠」とはワグナーについての評言だが、ここで取り上げるのはワグナーではなく、俵万智である。
 彼女の「愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」という短歌は、何となくわかる気がするが、その気分を説明するのは難しい。これを分析してみよう。
 この歌の鍵になるのは、「言ってくれるじゃないの」という言葉の持つ含みであろう。この「じゃないの」という蓮っ葉な言い方は何を意味しているのか。
「言ってくれた」とは「良くぞ言ってくれた」という肯定のはずだが、それを単純な肯定に終わらせず「じゃないの」と斜めに構えたところにこの歌の個性がある。
 もしもこの歌が最初の愛人云々をただ肯定するだけの歌だったら、おそらく誰の共感も呼ばない歌になっていただろう。俵万智という歌人の独自性は、彼女が世間の若い女性たちと共通する感覚を持ち、しかもその微細なニュアンスを見事に歌に表現する能力があったところである。この愛人でいいのとうたう歌手に対して「言ってくれるじゃないの」という反応を返すのは、若い女性のほとんど全体なのである。この、相手を高みから見下ろす意地の悪い物言いは、テレビを見ている人間に共通する姿勢なのだ。この「言ってくれるじゃないの」という言葉は、相手を見下す姿勢以外の何ものでもない。相手の発言を「良く言った」と認めながら、しかし、それを素直に肯定しないのは、言った相手が自分より下だと見ているからだ。これはテレビを見ているあらゆる大衆が、芸能人に対して抱いている気持ちなのである。我々は彼ら芸能人から娯楽を与えて貰いながら、彼ら全体にはけっして好意は持っていない。彼らの無軌道ぶりやスキャンダル、たいした才能もないくせに送っている贅沢な生活に嫉妬し、反感を持っているのである。しかも、言った相手が女性歌手で、それを見ているのが若い女性なら、意地悪な気持ちを持たないはずはない。女王様が、テレビの中の自分の下僕である芸能人に対し「あんた、なかなか面白い事言ったわねえ、ほめてあげるわよ」と言っているわけだ。そういう意地悪な気分が、俵万智のこの短い歌の中で見事に定着されているのである。私が彼女を微細なものの巨匠と呼んだ理由がこれでおわかりだろう。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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