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頭髪の衰退阻止のために

「つむじ風」ブログから転載。
フルボ酸についての記事の一部で、フルボ酸には興味はないが、禿についての発言は聞き捨てにできない。
私は大昔には(セルフイメージ上は)美少年で美青年で美中年だったが、頭髪の衰退によって美老人になることはあきらめた男である。禿はショーン・コネリーのような男性的風貌の美男子には似合うが、キムタクやら二宮やら岡田准一やらといった優男(やさおとこ)タイプにはまったく似合わない。で、私は残念ながら後者のタイプであったわけである。(まあ、これも自称だが)
しかし、禿は知性の証明である、という下記発言は、我々のような頭髪障害者、頭髪に不自由な人間には実にいい言葉ではないか。
そうか、私が頭髪に不自由なのは、知性をハゲしく使っているからで、年を取っても頭髪のフサフサとした連中はまったく頭を使っていないからなのだ。となれば、五木寛之や鳥越俊太郎のような頭髪優越者は、実はあれは馬鹿だったのだと気持ちよくテレビ画面や写真を眺めることができる。
まあ、いつも世情を怒ってばかりいる記事を書いている当ブログだが、その怒りがストレスとなって私本人に頭髪衰退をもたらしているのかもしれないから今後はもう少し穏やかな心で生きるように心がけよう。


(以下引用)



Dr.ディック・ミヤヤマ博士が、何故、フルボ酸に行き着いたかというと、元は毛生え薬の研究であると言うから面白い。そして、その分野に関しては、「誰一人、外したことがない」と言う。






 つまり、



 禿の救世主である。



 写真にもあるように、ご本人はお年の割に毛がふさふさだ。知行合一だ。



 その種明かしは、ストレスの解消→リラックス→睡眠との流れから、フルボ酸に行き着いたという。睡眠→リラックス→ストレスの解消の流れになると、神経が再生するから毛が生えると言う寸法だ。それにはフルボ酸が卓効がある。



 極めて簡単な発毛法があったものである。



 確かに、神経を使う人には禿が多い。神経は知性だけではない。神経をすり減らすことで、神経細胞が死滅する。すると毛が育たない。あるいは抜け落ちる。細毛化する。禿げる。と言う理屈である。

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セロリの簡単料理

今日は料理の話である。野菜の好き嫌いと、その解消法の話だ。

私は嫌いな食べ物がまったく無いか、と言えば、それはある。というより私が食べる気になれないのは「昆虫」と「爬虫類」と「両生類」である。まあ、「漂流教室」みたいな状況になったら、昆虫でも爬虫類でも両生類でも食うかもしれないが、平和な世界でわざわざそんな「サバイバル食い物」を食う気にはなれない。というより、まず側に寄るのもいやだ。特に昆虫の幼虫など大嫌いで、オーストラリアのアボリジニーが芋虫を食うなどというのは、傍で見たくもない。またアラスカのエスキモーが、セイウチか何かを解体する時に、その皮膚の下の寄生虫が奥に逃げ込もうとするのを素早く捕えてぱっと口に放り込んで食べる、というのも気味が悪い。
こういうのは幸い、日本では普通の食べ物ではないから、料亭でセイウチの寄生虫の生き作りを出す、ということは無い。
もちろん、日本でも地方に行けば、「蜂の子」や「イナゴ」などを食うところはあるし、蛙を食うところもあるだろう。そんな野蛮な土地には旅行しないに限る。晩飯に蜂の幼虫やイナゴの佃煮など出されたら、私は卒倒する。まあ、おフランスのように上品ぶっていてもカタツムリを食う野蛮な土地もあるが。
しかし、野菜に限っては、どんな野菜でもそういう「気味悪さ」は無いのだが、嫌いな野菜のある人は非常に多い。これは概して、親の料理下手によるトラウマのためだ。最初に下手な料理をしたもので、子供はそれを野菜自体の不味さとして頭に刷り込んだのである。ゴーヤーなどはもちろん、「苦さ」という、子供の苦手とする味であるから、そのままでは子供が受け入れるわけはない。薄切りにして水でさらすなどして、少しでもその苦味を和らげる工夫が要る。そしてもちろん、卵や麩や三枚肉やポーク缶詰などと一緒にチャンプルーにすれば、子供はゴーヤー以外の物を中心に食べ、「うっかり」ゴーヤーを食べて、それが案外いけることに気づくのである。そうなれば、ゴーヤー好きになるまで時間はかからない。(ここまで私が「ゴーヤ」でなく、「ゴーヤー」と表記していたことからも分かる通り、私は沖縄の人間である。まあ、沖縄でも「ゴーヤ」と発音する人もいるが、それは「ゴーヤ・チャンプルー」などの場合で、単独では普通「ゴーヤー」と発音する。)

セロリが嫌いな子供を持つ人に、いい料理法を二つ教えよう。

1 セロリの葉を味噌汁の具にする。これは、お雑煮のミツバなどと同じくらいに少しでいい。一椀に3~4枚程度がベストか。あまり入れすぎると、子供をうんざりさせる。セロリの香りによって「洋風味噌汁」とも言うべき不思議な味わいになる。これで、子供のセロリへの抵抗感を減らすわけだ。
ついでだが、一般に女性の作る味噌汁は具が多すぎて、汁ではなくオカズになってしまう傾向があるので、注意したい。汁の中の具は全体の4分の1以下がいい。

2 セロリの茎を短冊に切って、(輪切りにしてはいけない。味が変わる。野菜の切り方は舌ざわりや噛み心地に関係し、味覚に大きな影響を与える。短冊の長さは5~6センチで、幅は適当、厚みは2~4ミリ程度。薄い方がいい)油で炒める。味付けは塩と化学調味料だけ。胡椒を加えてもいい。セロリ以外の野菜を加えないこと。肉なども不要。ただセロリだけを油でいためるのである。炒め方の程度は適当でいい。生でも食えるのだから、気にすることはない。まあ、少し黄ばむ程度がベストだろう。酒のツマミにもなる。油はバターでもサラダ油でもいい。ごま油などを試すのもいいだろう。
注意しておくが、「炒める」のであって、「蒸す」のではない。間違っても蓋などして蒸してはいけない。蒸気をどんどん発散させ、汁は出ないようにすること。

一般に、複数の野菜を同時に炒めると、味が濁って、それぞれの野菜の味わいがなくなるものである。料理下手な主婦が作る「野菜炒め」はたいてい子供が嫌うものだが、たいてい、その中には、人参だのブロッコリーだの、子供が嫌う野菜が紛れ込んでいるので、子供は野菜炒めを見ただけで食欲を無くすのである。しかも、味は幾つもの野菜の味が混じったわけのわからない味だから、不味いのだ。沖縄の「味クーター(ごちゃまぜの味)」がいいなど、味覚の鈍感な人間の言い草だ。
それに、「野菜炒め」と言いながら、フライパンに蓋をして「蒸す」馬鹿もいる。蒸したら汁気が野菜の外に出て、野菜自体の旨味は無くなるのである。そして、その汁は捨てられるだけなのだ。
セロリには、それ自体のおいしさがある。そのおいしさを引き出すには、塩だけの味付けが一番だ。だが、化学調味料を使えば、もっとおいしくなるのだから、遠慮せずに使って、子供にセロリのおいしさを教えればいい。化学調味料を使う時点で、私の言葉は聞くに値しないって? まあ、それで結構。化学調味料を使わないレストランがどれだけあるだろうか。化学調味料がいやなら、別のダシを使えばいいが、自然食品的なダシは料理との相性があって使うのが難しいのである。まあ、べつに塩だけを使ってもいいのだが。


(以下「ネットゲリラ」から引用)



1 ◆zzzbb2c.e6 (東京都) 2011/09/30(金) 20:28:00.76 ID:IaCa4p7v0
■セロリ、ゴーヤに続きトマトがランクイン
子どものころに苦手だった野菜で、今でも食べられないものはありますか?
はい……39.4%(343票)
いいえ……60.6%(528票)
なんと4割もの人が、今でも苦手とする野菜があるということです。子どものころ嫌いだった野菜の定番といえばニンジン、ピーマンなどが浮かびますが、大人になった今、はどうなのでしょうか。
Q.嫌いな野菜を教えてください(複数回答)
1位 セロリ  36.1%(124票)
2位 ゴーヤ  20.1%(69票)
3位 トマト  15.2%(52票)
4位 ピーマン 12.5%(43票)
5位 オクラ  10.5%(36票)
6位 ナス   9.0%(31票)
7位 ニンジン 6.1%(21票)
7位 キュウリ 6.1%(21票)
9位 ブロッコリー 5.5%(19票)
10位 ニラ   4.1%(14票)
その他   22.7%(78票)
1位、2位はセロリやゴーヤのように苦みのある野菜でした。3位のトマトは意外な気もしますが、言われてみると、「トマトが苦手で」という友人や同僚が周りにいます。
そのたの野菜としては、しいたけ(10票)、グリーンピース(6票)、カリフラワー(4票)、かぼちゃ(3票)が続き、パクチー、ホワイトアスパラガス、モロヘイヤなどがありました。

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人を愛するということ

「青葉台ブログ」から転載。
私ははっきり言って爺いである。その爺いがアニメを見るだけでも馬鹿にされそうだが、そのアニメのタイトルが「魔法少女まどか☆マギカ」となると、下記記事ではないが、「気が狂ったか」となるだろう。だが、この「まど☆マギ」は、10年に一度という傑作であるから、ぜひ多くの人に見てもらいたい。
内容については下記記事が簡潔に説明しているが、これは脚本・映像・キャラクター・音楽・演出の総合的なレベルの高さによる傑作なので、ストーリー要約だけでは、あまり内容は伝わらないと思う。しかも、第三話の途中までは、まったくの「お気楽魔法少女物」にしか見えないのだから、けっこう多くの人は第一話だけで投げ出す可能性もある。だが、第三話で「えっ?」となり、それから後は「ええっ?」「ええーっ!」となり、後は怒涛のラストまで引きずり込まれていくのである。その間、見る人の心には「これは傑作だ、傑作だ」という思いが絶えず渦巻いているはずだ。もしも、これに感動できない人がいたら、本当に可哀想なことだ。
私は作品をテーマで論じるのは嫌いだが、この作品を一言で言えば、「あなたはどこまで人を、そして人類全体を愛することができるか」という問いのように思える。家族への愛、友達への愛、あこがれの人への愛、そして、自分と同じ魂を持った過去の人々への愛。
愛する人のために自分の人生を捧げた、その愛がまったく報われなかった時、愛は憎しみに変わるかもしれない。それでも、あなたは相手のために自己犠牲ができるか。あるいは、転校生として不安に怯えていた自分に優しい声をかけてくれたという、それだけであなたはその相手に、自分の人生を賭けて後悔しないか。
愛は必ずしも打算と無縁ではないだろう。しかし、人生のある時期には、まったく打算の無い愛に生きることも可能であり、その時人は人間以上のものになるのである。


(以下引用)


「魔法少女まどか☆マギカ」が素晴らしすぎる。
テーマ:書評・映画・演劇・音楽など
私がこんなブログをアップしたら、この作品を知らない人からは、「魔法少女」というタイトルだけで、ついに気でも狂ったかと思われるだろうが、いや、「魔法少女まどか☆マギカ」を見たことがある人なら、うんうん、あなたもね、と共感してもらえると思う。

「魔法少女まどか☆マギカ」は今年前半に、深夜枠で放送されていたアニメで、DVDの1巻が発売されるやいなや、6000円ぐらい単価もするのに、5万枚以上も売れて、この手のアニメではギネスをつくった作品である。
http://www.madoka-magica.com/

この作品の魅力は語り尽くすのも難しくて、ゆえに、あちこちでネット上も考察がたっているし、新聞や雑誌でも評価がとりあげられてきた。

「子連れ狼」原作者の小池一夫氏が激賞し、
http://getnews.jp/archives/137487

またSPAでは、四人のオトナの評論家が大まじめに作品の魅力を語った。
http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20110822/zsp1108221121004-n1.htm

なかなかこの魅力を文章で表現するのは難しいが、私の場合は、「意外性の連続」に虜になってしまった。まあ、みごとなまでに、裏切る展開が続き、そして最後には落ちつくべきエンディングにくるというスマートさもある。

まずタイトルからして裏切りである。
「魔法少女」とタイトルをつけて、少女漫画っぽく見せながら、ぜんぜんそんな雰囲気から変えていく。
マスコットっぽく登場したキュゥべぇ。そもそもキャラデザインが「萌え系」であること。
それらすべてが、どんどん裏切っていって、ジェットコースターに乗せられた気分になる。
最終回まで見終えて、「魔法少女まどか☆マギカ」って、これ主人公は、まどかなの?とそういう最後の裏切りも感じた。しかし、先入観を打ち砕く裏切りの連続が心地いいのである。

また音楽も映像も素晴らしい。魔女の世界に入るあたり、まるでディズニーランドのホーンテッドマンションに初めて入った時のようなワクワク感があった。

作品の世界観としては、芥川龍之介や、太宰治の作品を読んでいるような錯覚を感じたりもする。

最後に、私自身が一番響いた示唆は、最終回で時間遡行を繰り返すほむらが、まどかのことを「道しるべ」と呼んだことだ。

この作品のこれまた魅力なのだが、私たちもまた現実世界では、彼女たちのようなしがらみや悲しみ、迷いの中に生きている。

キュゥべぇのようなブラック企業の人事担当に騙されて、入った会社が、ひどいことばかりだが、「契約」のために逃げられないしがらみに苦しむこともある。

魔法少女たちのように、誰かのためにやったことを、恩をアダで返されて、また、理解されないことなんて毎日のことだ。

流されて、囚われて、逃げられなくなって、自分を見失い、どうすることもできない無力感の中で、私たちはどうやって生きていけばいいかと途方に暮れる。
そんな中で、「道しるべ」となるべきものの存在。

ほむらにとっては、まどかだった。

ぜひ、この作品はできるだけ多くの人に見てほしい。
そう思って、ブログ記事を書きました。

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山にいる人は仙人、谷にいる人は俗人

私はブログのプロフィールに「職業:仙人」と書いているが、それはもちろん、精神的には、ということで、現実にはただのサラリーマンだ。しかし、世の中には仙人らしい仙人もいる。「がま仙人」という人だ。
もとはIT技術者で、社長か何かだった人で、合気道か何かの武道の達人で、現在は仙人らしい。まあ、いろいろと世の中を経験した後で仙人になる、というのは、私などのように華々しい現実と渡り合うことなくのんべんだらりと老年を迎えた人間からは少々羨ましい。
その「がま仙人のブログ」の一部を紹介する。最近の仙人はアニメも見るし、ピアノも弾く、その合間に百姓をして自分で作った玄米を食べて健康的に生きているのである。
私のように、世の中の政治や経済に悲憤慷慨している人間は仙人には程遠いようだ。
今回のブログタイトルは、もちろん、漢字の絵解きである。私も、精神的には山から下界を見下ろしてはいるつもりなのである。


(以下引用)



うさぎドロップが終わってしまった
リンちゃんの乳歯がごそって抜けて
スキッ歯でにっこり笑って終わってくれた
実にほっとした
育児放棄したお母さんが
リンちゃんを取り返しにくるなんていう
ありきたりなドロドロにならずにすんでよかったと思う
うん、あの終わり方でよい
リンちゃん、ほんと可愛いい
名作だった

あ、ちなみに
「うさぎドロップ」って深夜枠のアニメです
死んだ祖父の隠し子を
30代独身の男が引き取って
育てるという物語



ただそれだけの物語なんだが
仕事と育児との両立の難しさとか
小学校に上がるときの男の
あわってっぷりとか
髪の毛をどうやって決めてあげるとか
縄跳びを教えるとか
風邪ひいたときの看病の大変さとか
いろいろ
子育ての戸惑いを丁寧に描いてる
みんなワシも経験したことなので
毎週見るのが楽しみで
画面に向かって
そうじゃないだろ、こうだろ
とか先輩ぶって一人つっこみしてた
まあ、そういう男手一つの育児の物語なわけで
すごく共感できたのである

 俺がリンを育ててるのか
 俺がリンに育てられてるのか
 ちょいちょいわからなくなる

そういうことです
子育てってさ
実際には子供に育ててもらってるんだよね
このへんを勘違いしてる親がほとんどです
このアニメでそのへんを
考えてみるといいでしょう

ところで、これって実写の映画もあるんだね
松ケンと、なんとかマナとかいう子役が出る映画だけど
ワシ、映画のほうは興味ないな
どうでもいいや
まあ、見ないでしょ

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聞かせよ愛の言葉を

2チャンネルのネタだったかと思うが、特撮映画の悪役や怪人の特徴として「世界征服のために日夜真面目に努力している」というのがあったが、悪人は悪事のためにいろいろ頭を使うから頭はいいし、案外勤勉なものである。勤勉さのために生活の楽しさを犠牲にしているから、その反対に楽しく暮らしている愚鈍な平凡人を憎悪する。特撮映画の悪役や怪人の特徴は「高笑い」だが、これは平凡な人々への嘲笑なのである。これは、一流企業の幹部や高級官僚にも共通した心性であり、彼らの優秀さは若い頃の刻苦勉励による毎日の生活の犠牲と引き換えになっている。だから、彼らは精神的(というか、人格的)には貧困であり、道徳的には残忍で嫉妬深く、傲慢である。
というわけで、私が最近面白く読んでいる「マドモワゼル愛」というおっさんのブログから転載する。しかし、自分の通称を「マドモワゼル愛」とつけるその勇気には感心する。なんで男なのに「マドモワゼル」なのだろう? 心は乙女よ、ってことか?


(以下引用)



私たちも苦労して怒っているときは、絶対に笑おうとしない。
笑ってしまったら自分が負けたようになってしまう、、、そんな意地が働く。

そして笑うことよりも不幸を選択する。
その権化が悪魔であり、彼らは人一倍努力している。

なので、この世の支配者になっても確かにおかしくない権利は一面ではあるのかもしれない。
なにせ、一番苦しいことを、一番無理なことを、何年も何世代にもわたって努力してきているのだから。

快適さ、解放感、笑い、、、なぜ現代からそうしたものが急速に消えていったのか、、、、テレビを見れば、そこにある笑いは冷笑と嘲笑の笑いである。
15年ほど前まではまだお笑いでももう少し、本当に面白いものがあったが、最近ではやっぱり変わってきている。

腹の底からわらったことが最近ない、、、そういう人が多いと思うが、おそらく何かで苦労されて努力することを求められているのだろう。
そうなれば、きっと何かに復讐したい、、、人間が嫌いだ、、、という気持ちとセットされていると思う。

古き良きアメリカの時代のホームドラマは笑わせるものが多かった。
そんなものでもどんなに大勢のアメリカ人を幸福にしていたことか。

しかし一度苦しみ、つらい努力を重ねる、、そうなったら、どんなに面白いものを見ても知っても笑えなくなる。
笑えるようになるには、その前の心をほぐしたり、自然なものを受け入れるような体験が必要なのだろう。

文化の本当の役割は生きる際に出くわす幾多の苦労を、悪にせずに笑いによって流し、あらゆる努力以前の三昧によって生きる道を作ることにあるのではないか。

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夏の聖なるチルダイ

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」から一部転載。
彼の分析力の素晴らしさについては何度か書いてあるので、今更言わない。しかし、夏は遊ぶべき季節、怠けるべき季節であったという指摘はやはり素晴らしい。
これを敷衍すれば、夜は休むべき時間、寝るべき時間であったのに、電気をコウコウと(どんな漢字だったか忘れた)輝かせて、起きている時間にしているのも、人間の内部の自然に逆らう行為だろう。
つまり、文明は「便利と効率」を与えたが、それは人を労働に駆り立てるだけで、少しも幸福にはしていないのである。現代人で幸せな顔をしているのは、多幸症という精神病患者くらいだろう。テレビで笑い転げているタレントたちも、収録が終わればむっつりしているに決まっている

原発事故は、我々の文明の、この反自然性を見直すきっかけになるかもしれない。反自然性は人間の不幸の原因にもなっているのだから、その見直しは必要だろう。

夏の暑さは我々を「チルダイ」させる。チルダイとは、沖縄方言でぼうっとした気分、だらけた気分のことである。しかし、そのチルダイが気持ちがいい、というのが夏という季節の特色だ。だから、昔、沖縄演劇のポスターで「聖なるチルダイ」というキャッチコピーを見た時、実にうまい表現だと感心した。(ただし、私は沖縄県民だが、沖縄方言には詳しくないので、嘘を書いている可能性もある。一知半解は私のブログの特徴なので、にわかに信じないように)


(以下引用)


 秘密はここにある。
 子供の頃はあんなに大好きだった夏が、大人になってから憂鬱な季節になってしまっている理由のうちの大きな部分は、実は「生産性」という言葉の中にある。私はそうにらんでいる。

 この一週間、私は、当面の仕事を投げ出して、ただ暑さに身を任せていた。
 と、働かない男にとって、猛暑日の暑さと真昼のダルさは、案外にフィットするのである。確かに、肉体は暑さに参っている。でも、精神はかえってのびのびとしている。そんな気がするのだ。

 こじつけのように聞こえるかもしれないが、私は、夏がイヤな季節になったのは、実は冷房装置のせいだと思い始めている。
 エアコンディショナーというものがなかった時代、われわれは、夏を「しのぐ」という形で、暑さに対応していた。
 「しのぐ」方法は、細かく拾い上げれば、手法としては山ほどある。
 が、根本は、「生産性を落とす」ことだ。
 最も暑い季節の一番しのぎにくい時間帯は、いろいろなことをあきらめる――これが、夏を「しのぐ」際の基本姿勢だ。といって、夏をやり過ごすことに関して、特段に目新しい決意やコンセンサスを持つ必要はない。真夏の暑さの中に置かれたら、人間は、誰であれ、生存以外のほとんどのことをあきらめざるを得ない。われわれは、生物学的にそういうふうにできているのだ。

 だから、昭和の半ばごろまで、夏の間、日本の産業界の生産性は、明らかに低下していたはずだ。
 それが、エアコンという文明の利器を得て以来、事情が変わる。
 エアコンは、「温度を下げる」というあらためて考えてみれば、とんでもなく強引な方法で、夏をねじ伏せてしまう機械だ。
 と、少なくともエアコンの冷房能力が及ぶ範囲にいる限り、夏は、事実上消滅する。
 と、冷房された部屋の中では、生産性が維持される。
 冷気を維持するためのコストと、生産性の低下を防ぐことによって得られるメリットを比べてみて、メリットの方が大きいということになれば、オフィスを運営している人々は当然、エアコンを導入する決意を固める。かくして、日本の夏は、少なくとも働く現場からは駆逐されたわけだ。コガタアカイエカや、日本住血吸虫がほぼ根絶やしにされたみたいに。文明の力で。

 素晴らしい達成だと思う。
 科学の勝利。あるいは文明の凱歌だ。
 とはいえ、われわれが、有史以来数千年間にわたって、夏を生産性の低下によってやり過ごしてきた国の国民であるという事実を軽視してはならない。われわれは、この何千年かの間、夏の間は、ほぼ無力化していたのである。そういう気分なり季節感が、わたしたちのDNAの中には、刻まれているはずなのだ。

 エアコンの助けを借りて、夏を抑えこむことによって得られるメリットは当然、素晴らしく大きい。が、一方には、必ずデメリットも発生している。で、そのデメリットの一つが、この国の大人の間に蔓延している「サマータイムブルース」だと私は考えるのである。
 “There ain't no cure for the summertime blues”
と、ロジャー・ダルトリーは叫んだ。
「夏の日の憂鬱につける薬なんてありゃしねえぞ」
 そう。働く者にとって夏はどうにも始末に負えない季節だ。
 人は誰も、子供の時分は夏が大好きなのに、年齢を加えるに従って、夏を憎むようになる。これは、体力の問題ではない。
 休めない夏は、一種の呪いなのだ。

 生産性をあきらめてしまえば、夏は心地良くダルく、素敵にレゲエな、懐かしい季節に戻る――ような気がする。私の考えは甘いのだろうか

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台風随想

沖縄は昨夜、本島を台風が通過し、20万世帯以上が一晩停電になった。停電など、何十年かぶりの経験である。
それで分かったのが、我々の生活がいかに電気に依存しているかということだ。電気が無いとほとんど何もできない。特に、トイレが電気仕掛けなので、「大」ができないのには弱った。文明の利器というものは、いざというときには不便なものである。
何もできないので、闇の中で下手くそなギターなどを弾いたりしたが、そうしながら「電気を使わない生活」についてぼんやりと考えた。何も珍しいことではない。昭和30年代くらいまでは、家庭の中の電気製品は電灯とラジオくらいだったのである。テレビも無い、冷蔵庫も無い、もちろんクーラーなど無いし、パソコンも無い。
今どきの子供から見れば「原始時代」に等しいように思われるだろうが、しかし、その頃、生活への不満などは何一つ無かったのである。もちろん子供というものは心が小さいから様々な悲しみや恐怖はあったが、娯楽や文化に関しては、まったく不満は無かった。つまり、読む本や漫画があり、遊ぶ野原があればそれで良かったのである。
音楽に関しても映画に関しても、その頃のほうがはるかに胸をときめかせてくれるものがあった。映画音楽、シャンソン、カンツォーネ、ロシア民謡、時にはポルトガルのファドや南米のボサノバなど、世界中のあらゆる音楽が清新な感動を与えてくれた。
今は、何を見ても何を聞いても感動しない。それは必ずしも私が年を取って感受性が鈍くなったせいだとは思わない。あきらかに日本の音楽文化や世界の映画文化などの質が低下しているのだ。
つまり、あの頃の文化には「作家性」があったのだ。今は「販売戦略」があるだけである。作り手が造りたいものではなく、営業側主導で「売れるもの」を作らせるのである。昔の優れた文化を知っている人間が満足できる作品が滅多に生まれないのは当然だろう。
話が電気の無い生活の話から逸れてしまったが、言いたいことは、「電気のある生活」とは「消費社会に首まで浸かった生活」であり、そんなものは無くても我々は幸福に暮らせるということだ。
パソコンやテレビが無ければ、私は毎日ニュースや情報を追う気忙しさから解放され、絵を書いたり書道をしたり、俳句を詠んだり、空を眺めたりするようになるだろう。パソコンやテレビは、確かにある種の娯楽と便利さを与えてくれるのだが、それで失っているものもあるのである。同じ時間で、別のことをやっていればもっと有益だったかもしれないのだ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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