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台風随想

沖縄は昨夜、本島を台風が通過し、20万世帯以上が一晩停電になった。停電など、何十年かぶりの経験である。
それで分かったのが、我々の生活がいかに電気に依存しているかということだ。電気が無いとほとんど何もできない。特に、トイレが電気仕掛けなので、「大」ができないのには弱った。文明の利器というものは、いざというときには不便なものである。
何もできないので、闇の中で下手くそなギターなどを弾いたりしたが、そうしながら「電気を使わない生活」についてぼんやりと考えた。何も珍しいことではない。昭和30年代くらいまでは、家庭の中の電気製品は電灯とラジオくらいだったのである。テレビも無い、冷蔵庫も無い、もちろんクーラーなど無いし、パソコンも無い。
今どきの子供から見れば「原始時代」に等しいように思われるだろうが、しかし、その頃、生活への不満などは何一つ無かったのである。もちろん子供というものは心が小さいから様々な悲しみや恐怖はあったが、娯楽や文化に関しては、まったく不満は無かった。つまり、読む本や漫画があり、遊ぶ野原があればそれで良かったのである。
音楽に関しても映画に関しても、その頃のほうがはるかに胸をときめかせてくれるものがあった。映画音楽、シャンソン、カンツォーネ、ロシア民謡、時にはポルトガルのファドや南米のボサノバなど、世界中のあらゆる音楽が清新な感動を与えてくれた。
今は、何を見ても何を聞いても感動しない。それは必ずしも私が年を取って感受性が鈍くなったせいだとは思わない。あきらかに日本の音楽文化や世界の映画文化などの質が低下しているのだ。
つまり、あの頃の文化には「作家性」があったのだ。今は「販売戦略」があるだけである。作り手が造りたいものではなく、営業側主導で「売れるもの」を作らせるのである。昔の優れた文化を知っている人間が満足できる作品が滅多に生まれないのは当然だろう。
話が電気の無い生活の話から逸れてしまったが、言いたいことは、「電気のある生活」とは「消費社会に首まで浸かった生活」であり、そんなものは無くても我々は幸福に暮らせるということだ。
パソコンやテレビが無ければ、私は毎日ニュースや情報を追う気忙しさから解放され、絵を書いたり書道をしたり、俳句を詠んだり、空を眺めたりするようになるだろう。パソコンやテレビは、確かにある種の娯楽と便利さを与えてくれるのだが、それで失っているものもあるのである。同じ時間で、別のことをやっていればもっと有益だったかもしれないのだ。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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