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秋風と秋風邪

今日は何の引用も無しで、ただの雑談である。まあ、いつも雑談だが、政治的・経済的な内容ではない、ということだ。
朝晩めっきり涼しくなってきた。
日中は、この上なく気持ちのよい季節だが、夜になると気温が低すぎて、風邪などを引きやすくなる。
これは私自身の体感による推測なので、何の客観的根拠も無いのだが、体温が1度下がると、体の免疫力が1割から2割低下する、という印象が私にはある。
簡単に言えば、寝冷えによって風邪を引くのは当たり前のメカニズムだ、ということである。人間の体温は、確か就寝時には低下するはずである。体温低下が免疫力を低下させるとすれば、寝冷えによる風邪引きは理の当然だろう。
ところが、若いうちは免疫力が高いから、少々の寝冷えでは風邪など引かない。しかし、年を取ると、免疫力自体が低下するので、若い頃のままの気持ちでいると危険なのである。
それに、今の季節は、まだ涼しさが気持ちいいので、布団などかぶって寝るのは鬱陶しい。そこで、薄着のまま、掛け布団無しで寝て、夜の冷え込みで風邪を引いたりすることになる。
私も夜明け近くになると、「あっ、今俺は風邪を引きかけている」と夢うつつで気付いて、掛け布団を肩まで持ち上げる。それで30分ほど体を温めると、その風邪っ気は消えている。毎朝のように、その繰り返しである。
しかし、その「風邪っ気」に気づくかどうか、そしてそれにすぐに対処するかどうかが大きな分かれ目だろう、と思う。
まあ、最初から、寝冷えをしない態勢を整えて寝ればいいのだが、今の時期、寝る時には涼しいのが気持ちいいので、なかなかそうもいかないのである。
特に、高齢の方々には、寝る時には靴下をはき、長袖の上着を着て寝ることをお勧めする。そうすれば掛け布団が就寝中に外れても大丈夫だろう。風邪は足先と肩先から来る、というのが私の持論である。


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価値観について

「般若心経」について書いた昨日の記事に関連して、昔書いた文章を掲載しておく。別ブログ(文書倉庫として使っている)にも載せているが、そちらは訪問者のほとんどいないブログなので、ここに載せたほうが誰かには読んでもらえるだろう。
なぜ前回の記事と関連するかというと、どちらも「心的態度」を扱っているからだ。



価値観について



第1節 社会的価値観と個人的価値観

 人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。

 何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は

1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。

我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、

2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。

我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、稼いだ金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)
その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。
 この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。

第2節 価値観と性格

 離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観の集合でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。
 そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、個人的価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。

 我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。ゴルファーにとってゴルフは労働だが、プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。
 
我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。
 もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、

3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。

「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。
 しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に即座に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な脊髄反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。

第3節 物の価値

 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。
 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)
 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。
 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育(洗脳)すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。これが資本主義の起源である。
 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。
 では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。
 なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。
 問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。
 我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。
 とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。
 つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。
 もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。

第4節 生きる価値

 つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。
 ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を礼拝するようなものである。
 
 我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。
 価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自分自身やその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。
 
 アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。
 自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。
 もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があるということだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。
 なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に刷り込まれ、植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。
金で計る価値にしても同じことであり、我々が既成の価値体系にノーを言い、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。
学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。

4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)

 この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。
 

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この諸法の空相は

私はただの「思いつき」を「思考素材」と堅苦しい言い方をするのだが、我々の思考は無意識の大海の中から浮かび上がる「断片的思考」が機縁となって、後はそれに引き続く連想によってまとまった思考ができてくるものである。で、一番大事なのはそのきっかけとなる思考だから、それをわざわざ「思考素材」と呼んで重視しているわけだ。もちろん、世間的な成功を収めるには、本当に一番大事なのは、思考の継続性と徹底性、正確さではあるのだが、べつに偉大な哲学者や宗教家になりたいのでなく、思考そのものを楽しむのなら、やはり面白い「思考素材」が浮かび上がってくることが一番だ。
そういう意味では私の好きな箴言的な言葉はほとんどが思考素材でもある。そしてそうした特有の好みの思考素材が混じってくることで、思考の方向が私好みの方向になっていくわけだ。だから私はいつも同じような事を言ったり書いたりすることになる。まあ、食べ物の好みと似たようなものである。進歩が無い、と言われればその通りだ。
さて、私の思考素材の一つに「般若心経」がある。「聖書」も好きだが、それは文学として好きなのである。世界の創造主としての神など、私にはお伽話としか思えない。ただし、「我々の内なる神」という考え方なら好きだ。で、私は宗教としての仏教の信者ではないが、哲学としての「般若心経」は非常に面白いと思っている。
少し前の「山科恭介のブログ」でその般若心経についての文章があり、それを面白く読んだのだが、その中で「『空』は『無』の上位概念である」と断定的に、何の説明も無しに書かれていたことが少し引っ掛かった。
そこで、それを思考素材として少し考えてみたい。

私としては、「色即是空、空即是色」に先立つ「是諸法空相……色即是空、空即是色」の「是諸法空相」を問題にすべきではないのか、と思うわけである。つまり、この世界の諸法則(世界の在り方)を「空」という相(フェイズ)に於いて観じる時に、「あらゆる存在は空と見なせ、また空はあらゆる存在でもある」というのが私の解釈だ。つまり、「空」とは「空という見方」である。それを私流にこじつければ、「自分が存在しない場合のこの世界」が「空」なのである。自分がいなければ自分にとっての世界は存在しない。したがって「色即是空」である。「色」とはあらゆる存在、と考えておけばいい。あるいはあらゆる現象、でもいい。そしてまた、常識的に考えても分かるように、私が存在しなくてもこの世界は客観的には存在し続ける。だから「空即是色」なのである。
実に簡単で合理的な解釈ではないだろうか?
そして、これが実はすべての娑婆苦から脱出する道でもある。つまり、この人生のさまざまな不幸に苦しんでいる人間は「自分が最初からこの世界に存在しなかった世界」を思考実験的に考えてみればいい。そして、その世界と、今、あなたが苦しんでいるこの現実世界と比べて、どちらを選ぶだろうか。おそらくほとんどの人は、あらゆる苦難にも関わらず、「自分がこの世に存在する世界」を選ぶだろう。まさしく「生ける犬は死せる獅子に勝る」(聖書)のである。そして、ひとたび生を選んだ以上は、不幸や苦難にめそめそせず、雄々しく人生に立ち向かう意志が生まれるのは当然のことだ。
もちろん、「死に勝る苦しみ」を今現に味わっている人間には、こんなのは寝言かもしれない。そういう人間が自殺を選んだとしても仕方のないことだ、とは思う。それに、私自身、「いざとなれば死ねばいいさ」と、生きることを軽視するかのようなことを少し前に言ってもいるのだが、それは生の軽視ではなく、生にあまりに執着したくない、ということだ。生への過度の執着が多くの人にとって、逆に精神的な不幸や不満の原因になってはいないだろうか。前回書いた、認知症になったら殺処分にする、というのは、私自身が自分自身への処置として強く求めていることなのである。
死は必ずいつかは来るものであるし、死んだ後にどんな世界があるのか(まあ、まったくの虚無である可能性が99%以上だろうが)誰にも分からないのだが、「曲がり角を曲がった先に素晴らしい風景が広がっている」(「赤毛のアン」より)というのは人生だけでなく、死についても成り立つ可能性もある。
要するに、いつでも死ねるということの安らかさ、という考え方もありだ、ということである。死はすべての義務や苦痛からの解放でもあるが、すべての快楽からのお別れでもある。どちらかと言えば生のほうがいいが、生がすべて苦痛のみになれば、あるいは生きていてもしょうがない、という状態になれば、死も一つの選択肢であっていい。
我々はこの世界の下宿人のようなものだが、この世界を自分のイメージを元にして飾り付けることは許されている。そして、すべては我々がいかに考えるかで決まるのである。そういう意味では本当の富とは精神的な富のみである、と或る英語リスニングCDの中で最近聞いたのだが、(まあ、聞き間違いかもしれないが、私が聞いたことが私にとっての現実だ)実際、あらゆる幸も不幸も、根本的には我々の精神的態度で決まるのである。

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我執と「神」

我執と「神」

私のキリスト教への考えの中心は、まず、「神は存在しない。特にユダヤ・キリスト教の創造神はモーゼらによる創作である」しかし「キリストによる教えは、千古不易の偉大な教えである。その偉大さは『汝の敵を愛せ』という不可能な倫理を人類に示したことにある」という2点だ。後者はトルストイの示唆によって私が得たものだ。
自分を愛する者や自分に利益を与える者を愛するのは容易だ。しかし、それは「ギブ・アンド・テイク」の商取引にすぎない。何の見返りもなく、むしろ自分に危害さえも与える存在を愛することが、あなたにはできるか。
母親による育児放棄や児童虐待は、見返りの無い行為ができない現代人の時代精神の象徴だろう。子供がうるさい、邪魔だ、面倒だ、だから育児を放棄する、あるいは虐待する。これは自分にとって利益になる存在しか愛せない、ということだ。育児のために自分の好きなことができない、という不満も(子供)と(趣味)の価値比較をしているのだ。もちろん、自分にとっての価値であり、子供はそこではただのモノ(物体)だ。
我々は、援助の必要な無力な存在には本能的に援助を与えたくなるものだ。社会福祉とはその自然な本能を制度化したものにすぎない。もともと功利主義とは相反するものだ。したがって、功利主義と拝金主義に毒された現代社会では排斥の対象になるのである。その先頭に立つのが野田民主党や自民党、そして橋下のような連中だ。
社会的弱者への援助と母親の子供への援助は同根であり、どちらも「無償の愛」なのだから、その両者が同時に弱まっているのは当然だろう。

最初の段落の考えを補足する。キリストの教えは「人間はどう生きるべきか」という社会倫理がその大半を占め、その倫理の土台には神の存在がある。だから私のように神の存在を否定したら、ドストエフスキーの作中にある「神が存在しなければすべてが許される」という思想になる、というのが西欧的な考え方だ。だが、私はキリストの教えは神の存在と切り離しても有効だと考える。そういう意味では、私は「無神論的キリスト教徒」と自分を名乗ってもいいかと思う。
もちろん、「神」の定義次第では私も神を信じると言ってもいい。むしろ人間の心の中の善性を「神」と言うべきかと思う。「神」という漢字は「しめすへん」である。つまり、人間に正しい方向を示すのが神だ。人間はときどき自分自身が神になる、という考えなど面白いかもしれない。と言っても、新興宗教の話ではない。自分自身の中の善なるものに無心に従う時、その人は神のようなものだ、ということで、神というものはこのように日常的な、身近なものとしてもいいのではないか。
「汝の敵を愛せという不可能な倫理」とは、「倫理の極限」と言うほうがいいかもしれない。この「不可能」とは「不可能だが、それを目指して近づこうとするべきもの」であり、それに近づくほど人類は神的な存在になるのである。

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自分が存在しない世界を想定してみること

「ITスペシャリストが語る芸術」というブログから転載。
筆者のkayさんは超能力や超常現象を信じる神秘思想家で、運命論者であるようだ。最初は女性かと思っていたが、どうやら男性のようである。
そのあまりにも断定的な言い方に反発を感じる向きもあるだろうし、ブログを続けて読むと同じ内容を何度も繰り返すので、少々付き合いかねる面もあるが、時に素晴らしい文章で素晴らしい叡智の言葉を書くことがある。
下に引用するのが、その一例である。
これは仏教で言う「色即是空 空即是色」の本質をつかんだ言葉だと思う。つまり、自我を捨てた目でこの世界を見て初めて、この世界の真の素晴らしさは分かるということ。にもかかわらず、それに執着してはいけない、ということである。執着するやいなや、この世界は地獄と接続する。
私は筆者の主張する運命主義は、この世を改善する意志を失わせるマイナスの思想と見るから、それには不賛成だが、それが自我の苦しみから脱する道だとするなら、理解はできる。


(以下引用)




6月10日


あなたが死んだ世界


カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育

自分が存在しない世界を想像したことのある人は少ないだろう。
ところが、それをやってみると、これまで全く知らなかった神秘的な感覚を感じると共に、深い知恵を得るのである。

あなたが死んで少し経ったとする。
学校や職場、そこへの通学や通勤で通った道、利用した駅の風景を思い浮かべてみる。
すると、あなたがいた頃と、何も変わっていないことが分かる。
誰もあなたのことなんか、もう忘れている。
家族なら、しばらくの間は、あなたのことをよく思い出したり、話したりするかもしれないが、それも、そう長いことではない。
あなたが死んだ影響なんて、全くないのだ。

会社などで、「俺がいなければ、仕事が回らない」なんて思っている者は多いだろうが、そんなことは全くない。
実際、そんな態度を露骨に見せながら仕事をしていた者が、不意に移動させられたなんてことを何度か見たが、それで職場が少しでも混乱したなんてことは一度もなかった。
プロ野球やプロ・サッカーでも、主力選手がケガをして出場できなくなると、マスコミはよく、いかにもチームが大打撃を受けるようなことを書くが、実際は、すぐに別の選手が活躍して、むしろチームがよくなったりするものだ。スター選手が欠場したら、かえって大勝する場合が多いじゃないか?

まして、我々凡人は、いてもいなくても、世界に何の影響もない。
「残された妻子が不憫だ」とか、「年老いた親を残したまま死ぬわけには」という者も多いが、何とかなるものだ。
実際、主人が亡くなった後、奥さんが強くなり、そして、家族の協調性が強くなって幸福になった家庭を見たこともあるし、それが自然なことと思う。
『蘇る金狼』という映画で、松田優作さん演じる朝倉哲也が銃を向けた暴力団の男が命乞いをした時、哲也が、「女房子供あんのか?」と聞くと、その男は、「いるいる!いっぱいいる!」と必死ですがる。しかし、哲也は、「死んだ方が幸せになるだろ」と言って、引き金を引いた。
我々も、その暴力団の男と、ちっとも変わらないのだ。

家族、地域、学校、職場・・・そういった、あなたが深く関わった処でも、あなたが死んでも、何の影響もない。
ましてや、別の学校、会社、隣町、さらに、行ったこともない場所では、あなたの死は、あまりに無関係だ。
通勤電車の中で眺めた風景も何も変わらない。
ところが、ふと、不思議なことに気付くかもしれない。
自分がいなくなった世界を、観察するという行為を超えて、もっと静かに、深く感じた時、すなわち、観照した時だ。
実に、世界が美しく変わっていることに気付く。
あなたが知らなかった場所のことさえ感じられる。遠い国の町、草原、砂漠、海のことまで見えてくるようだが、それらが、ことごとに美しい。
なんと、我々がいない方が、世界は美しいのだ!
これはどういうことだろう?それは、我々の自我が、いかに世界を醜いものにしていたかということだ。
雨が降ったら憂鬱なのは、雨のせいでも、誰のせいでもなく、自分の心のせいだったことに、初めて本当に気付くのだ。
教師や上司、あるいは、クラスメイトや同僚の誰かが嫌なやつだったのは、実に、我々の心がその原因だったのだ。
全ての悪の根源たる自我が消えたら、世界は元々美しい。
そりゃ、世界には様々な問題があり、我々が死んだからといって解決するものではないし、実際、我々が死んでも、状況が変わるわけではない。
しかし、何かが違うのである。
まるで、映画の中の出来事のように、虚ろで嘘っぽいものに変わっている。
世界は、実に、ただの劇であったと分かる。

そして、ふと気紛れに、自分が元いた場所を見てみる。
すると・・・
自分がそこにいる。生きて、以前と同じようなことをしている。
それが、ほとんど他人事のように感じる。実際、それはもう自分ではない。
ただ、生まれる前に定められた運命の通りに生きているだけの、思考する個別体である。
その自分が、死のうが生きようが、もうどうでもいいことだ。運命の尽きるまでは生きるし、定められた時にちゃんと死ぬだろう。
これが悟りの実際である。

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角砂糖は菓子の代わりにはならないけど

今朝の(一つ前の)記事が少しブルーな内容なので、気分を変えるためにもう一つ投稿する。
角砂糖はなぜグラニュー糖や上白糖、あるいはコーヒーシュガーなどよりもコーヒーや紅茶に入れておいしいのか、という疑問を解くためにネットを調べているうちに、テレビの「物食い番組」でのボキャブラリーの貧困さを批判したスレッドにぶつかり、ちょっと面白いので転載する。
多分、「2ちゃんねる」派生サイトだろうと思うが、よくわからないサイトからの転載である。
テレビで物を食う番組の多さと、それを食った時の褒め言葉のワンパターンぶりには確かにうんざりするが、「甘みがあって美味しい」どころか、ただ大声で明後日の方向に向かって「うんま~い!」と叫ぶだけで通す芸能人も何人かいる。どちらも嫌だが、食事時に見る番組としては、そういう「物食い番組」は案外無難なのだよな。無芸芸人のおしゃべりの不快感とは別に、うまそうな料理が画面に出ているだけで、自分の食っている食事の貧弱さが精神的に緩和されるのかもしれん。
美味さの表現については、1番の意見に賛成だが、8番15番の反論ももっともである。テレビ放映の限られた時間の制約もあるが、味を言葉で表現するには、もともと優れた才能が必要なのだ。東海林さだおのエッセイがその点では最高だが、それもどちらかというと味よりは食感を微分的に表現する才能である。グルメブームの走りであった漫画「美味しんぼ」の中の表現にしても、味そのものがうまく表現されているかどうかは疑問だ。「まったり」などは有名だが、これも食感だ。
結局、味を表現するなら「甘くて美味い」「辛いけど美味い」「苦いけど美味い」「酸っぱいけど美味い」とするのが本当は正解なのだろう。なぜなら、7番が言うように、「美味い」とはもともと「甘い」が転化した言葉であり、どの世界でも甘いと美味いは最初は同義であったからだ。それは、昔は甘さが希少で貴重なものだったからである。
素材の持つ味は、それぞれにおいしさがあるが、菓子などは最初から甘さがその本質的な味だ。だから、22番などに書かれたように、菓子などが「甘くなくておいしい」というのこそトンマの表現であり、「甘さは控えめで、味わいがあっておいしいです」と言うくらいの言語能力の無い女の子に食べ物レポーターをさせるべきではない。


(以下引用)

1 :名無しさん:2000/10/27(金) 16:02
テレビの中途半端な(?)グルメ番組でよく聞くセリフ「甘味があって
美味しいですねー」ってどう思います? ナントカ産キャベツ食べて
「甘くて美味しい」、肉食って「甘味があって美味しい」、果ては、明石
の塩舐めて「甘味があるんだよー」。「美味しい」を構成するのは甘味だけか?あん?
そんなに甘いのが好きなら角砂糖でも食ってやがれ! と思うのは私だけでしょうか?
2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:11
正直な意見じゃないの?「甘味があって美味しい」
甘いのが好きっていう問題じゃないと思うが。
3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:17
1は、砂糖の甘さしか知らんのか?
4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:31
キャベツでもお米でも肉でも、噛んでると甘味が出てくるもんだよ。
アイスやチョコみたいに甘いもん食って「甘い」って言うのは当たり前だけど、
「味」はそんな単純なもんじゃないってことじゃないの。
今晩早速、ごはんを30回くらい噛んでみなよ。
5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:32
「甘みのある野菜」はうまいとおもうがね。
6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:34
素材そのものの味を知らんのか?>1
7 :ばかぐるめくん:2000/10/27(金) 17:46
日本のように食生活が貧しく、人民の味覚が未発達な国において
は、食べ物の「甘味」には絶対的な価値があるとされています。
貧者の食事における至上目的はカロリーの確保であり、甘さ、辛さ、
酸っぱさ、苦さ…など数ある味覚の構成要素の中でも、満腹感の象
徴である「甘さ」に対して唯一独特のポジションが与えられているの
は当然のことであります。
つまり「甘ければ甘いほどおいしい」わけです。
たしかに「甘すぎて不味い」という場合もあるにはあるのですが、
「美味しい」が「不味い」に転じる境界線が、「辛すぎて不味い」や
「酸っぱすぎて不味い」に比べて極端に高いところに置かれているの
です。

アジアの発展途上国の人が、茶に砂糖をドバドバいれて「美味し
く」して飲む人のは貧しさの象徴と考えられていますが、なあに、
日本人の味覚だって、50年前からなんにも変わっちゃいないのですよ。
相変わらず、いちばんよく売れている缶飲料は、UCCのベトベト
砂糖入り缶コーヒーなんですねー。
8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 18:06
紋切り型の表現にウンザリという意味なら、1にちょっとだけ同感。
キャベツの甘み、肉や塩の甘み、
「甘み」といってもそれぞれ違うもんね。
ただ「甘み」以外にいい表現って難しいし、
表現にこだわる余り長々語られてもなんかイヤ。
抽象的でわかりづらいよりは、「甘み」の方がよっぽどいいよー。

「角砂糖食っとけ」ってちょっと笑った。
9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 23:43
馬鹿リポーターが肉食ったときの台詞「やわらか~い」が嫌。
お前等入れ歯か?
12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:12
そんな番組見なければいいのに。
当然自分は見てないので、1の言っている事が全然わからん。
13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:15
あと似たようなのに、柔らかいというのもありますね。
「このお肉、やわらか~い!」
14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:20
常套句としては、「スープに絡まりやすい縮れ麺」てのがなんかイヤ。
なんとなくだけど。
あとソムリエの表現が全部イヤ。
「秋の森のような、爽やかでいてやや乾いた感じの香り」とか。
長くて訳わからん。尻がかゆくなる。
イメージを喚起するのに、必ずしも語彙の多さが必要なわけではないと思う。
(テレビの「甘みがあって」とかは安易かなと思うけど、
 「甘み」と表現すること自体に文句はないです)
15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:38
では、逆に1がリポーターになったとして、
限られた時間の中でどう表現するんだ?
出来ない事を偉そうに言うな。
「甘みがあって美味しい」というのは、一般に分かりやすく
限られた時間で伝える表現としては良いと思う。違うか?
16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:32
>日本のように食生活が貧しく、人民の味覚が未発達な国において
British food is the most horrible in the world!
17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:38
「甘味があって云々」は確かにいまや常套句で、かえって不快になるほど多用されてるけど、
15の言うように他の表現がむずかしい。
「味に奥行きがある」とか「しゃっきりポン」とか言っても見てる側は
わかるようでわからんしな。
18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:38
貴重な食材とかを「鶏肉みたいでおいしい」とかいう表現するのは
なんだかなーと思う。そんなら鶏肉食べればいいやと思う。
19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 05:25
「コクがある」って言葉も連発するよね。
よく聞く単語だけど、みんな雰囲気で使ってるって感じ。
キチンと説明して欲しいところだけどね。

ほんと、こんな曖昧な言葉もないよなぁ。
22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 16:11
なぜか最初から甘いとわかっているもの(ケーキとかチョコレートとか)に
対しては、「甘くなくって美味しい」というコメントが出てきますね。

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「梅ちゃん先生」を見るためならNHK料金も払う

ブログ中断前は、毎日のように更新しなければならないという強迫観念めいたものがあって、負担感が少しあった。趣味で始めたブログに負担感があるのでは、本末転倒だろう、ということで、再開後はなるべく気楽にやるつもりでいる。
ブログ内容も気楽な、趣味的なものを書きたいと思っているのだが、ついつい重い社会的問題についての感想などを書いてしまうのは、根が真面目だからだろう。まあ、軽い記事は「アンファニズム」あたりに書いているので、私という人間の子供っぽい部分はそこで発散しているからいいわけだ。

さて、今日はNHKの朝ドラの話をしよう。
大評判だった「カーネーション」の後を受けて始まった「梅ちゃん先生」は一向に評判にならないのだが、これは近来出色の出来ではないかと私は思っている。毎日ただで見ていては済まないので、私はこれまで不払い方針だったNHK料金を払い始めたくらいだ。しかしこのドラマが人気にも評判にもならないのは、多分主人公の梅子があまりに「いい子」すぎて女性受けしないのだろう。
女性は自己中でわがままな女主人公が好きなものだ。松田聖子やダイアナ妃が女性に好まれるのは、自分もそう生きたいという願望を代行しているからだろう。梅子のような「いい子」は男にとって都合のいい女として嫌われるわけだ。「カーネーション」は数回しか見ていないが、あれも女性受けするタイプの主人公だったようだ。
で、「梅ちゃん先生」というドラマは、実に気持ちのいいドラマである。一日が始まる朝からドロドロの不倫劇など見たがるのは女性くらいであって、男は爽やかなドラマを見たいものだ。「梅ちゃん先生」は爽やかで楽しいドラマであり、朝ドラとしては最高だろう。昔の、「おハナはん」という朝ドラ(表記は不明。「お花はん」か?)に近いのではないか。あの頃はそういう朝ドラが好まれたのだが、多分、これから世間の嗜好がそういう方向に回帰していく気がする。だから、「梅ちゃん先生」スタッフは気長に構えて、今の方向を見失わないように作っていってもらいたいものである。

蛇足だが、タイトル画面のジオラマの中で、よく見ると焼鳥屋か何かの前に朝も昼も夜も同じ猫がずっといるようだ。そういう細部も面白い。

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酔生夢人
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職業:
仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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