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我執と「神」

我執と「神」

私のキリスト教への考えの中心は、まず、「神は存在しない。特にユダヤ・キリスト教の創造神はモーゼらによる創作である」しかし「キリストによる教えは、千古不易の偉大な教えである。その偉大さは『汝の敵を愛せ』という不可能な倫理を人類に示したことにある」という2点だ。後者はトルストイの示唆によって私が得たものだ。
自分を愛する者や自分に利益を与える者を愛するのは容易だ。しかし、それは「ギブ・アンド・テイク」の商取引にすぎない。何の見返りもなく、むしろ自分に危害さえも与える存在を愛することが、あなたにはできるか。
母親による育児放棄や児童虐待は、見返りの無い行為ができない現代人の時代精神の象徴だろう。子供がうるさい、邪魔だ、面倒だ、だから育児を放棄する、あるいは虐待する。これは自分にとって利益になる存在しか愛せない、ということだ。育児のために自分の好きなことができない、という不満も(子供)と(趣味)の価値比較をしているのだ。もちろん、自分にとっての価値であり、子供はそこではただのモノ(物体)だ。
我々は、援助の必要な無力な存在には本能的に援助を与えたくなるものだ。社会福祉とはその自然な本能を制度化したものにすぎない。もともと功利主義とは相反するものだ。したがって、功利主義と拝金主義に毒された現代社会では排斥の対象になるのである。その先頭に立つのが野田民主党や自民党、そして橋下のような連中だ。
社会的弱者への援助と母親の子供への援助は同根であり、どちらも「無償の愛」なのだから、その両者が同時に弱まっているのは当然だろう。

最初の段落の考えを補足する。キリストの教えは「人間はどう生きるべきか」という社会倫理がその大半を占め、その倫理の土台には神の存在がある。だから私のように神の存在を否定したら、ドストエフスキーの作中にある「神が存在しなければすべてが許される」という思想になる、というのが西欧的な考え方だ。だが、私はキリストの教えは神の存在と切り離しても有効だと考える。そういう意味では、私は「無神論的キリスト教徒」と自分を名乗ってもいいかと思う。
もちろん、「神」の定義次第では私も神を信じると言ってもいい。むしろ人間の心の中の善性を「神」と言うべきかと思う。「神」という漢字は「しめすへん」である。つまり、人間に正しい方向を示すのが神だ。人間はときどき自分自身が神になる、という考えなど面白いかもしれない。と言っても、新興宗教の話ではない。自分自身の中の善なるものに無心に従う時、その人は神のようなものだ、ということで、神というものはこのように日常的な、身近なものとしてもいいのではないか。
「汝の敵を愛せという不可能な倫理」とは、「倫理の極限」と言うほうがいいかもしれない。この「不可能」とは「不可能だが、それを目指して近づこうとするべきもの」であり、それに近づくほど人類は神的な存在になるのである。

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