「ITスペシャリストが語る芸術」というブログから転載。
筆者のkayさんは超能力や超常現象を信じる神秘思想家で、運命論者であるようだ。最初は女性かと思っていたが、どうやら男性のようである。
そのあまりにも断定的な言い方に反発を感じる向きもあるだろうし、ブログを続けて読むと同じ内容を何度も繰り返すので、少々付き合いかねる面もあるが、時に素晴らしい文章で素晴らしい叡智の言葉を書くことがある。
下に引用するのが、その一例である。
これは仏教で言う「色即是空 空即是色」の本質をつかんだ言葉だと思う。つまり、自我を捨てた目でこの世界を見て初めて、この世界の真の素晴らしさは分かるということ。にもかかわらず、それに執着してはいけない、ということである。執着するやいなや、この世界は地獄と接続する。
私は筆者の主張する運命主義は、この世を改善する意志を失わせるマイナスの思想と見るから、それには不賛成だが、それが自我の苦しみから脱する道だとするなら、理解はできる。
(以下引用)
6月10日
あなたが死んだ世界
カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育
自分が存在しない世界を想像したことのある人は少ないだろう。
ところが、それをやってみると、これまで全く知らなかった神秘的な感覚を感じると共に、深い知恵を得るのである。
あなたが死んで少し経ったとする。
学校や職場、そこへの通学や通勤で通った道、利用した駅の風景を思い浮かべてみる。
すると、あなたがいた頃と、何も変わっていないことが分かる。
誰もあなたのことなんか、もう忘れている。
家族なら、しばらくの間は、あなたのことをよく思い出したり、話したりするかもしれないが、それも、そう長いことではない。
あなたが死んだ影響なんて、全くないのだ。
会社などで、「俺がいなければ、仕事が回らない」なんて思っている者は多いだろうが、そんなことは全くない。
実際、そんな態度を露骨に見せながら仕事をしていた者が、不意に移動させられたなんてことを何度か見たが、それで職場が少しでも混乱したなんてことは一度もなかった。
プロ野球やプロ・サッカーでも、主力選手がケガをして出場できなくなると、マスコミはよく、いかにもチームが大打撃を受けるようなことを書くが、実際は、すぐに別の選手が活躍して、むしろチームがよくなったりするものだ。スター選手が欠場したら、かえって大勝する場合が多いじゃないか?
まして、我々凡人は、いてもいなくても、世界に何の影響もない。
「残された妻子が不憫だ」とか、「年老いた親を残したまま死ぬわけには」という者も多いが、何とかなるものだ。
実際、主人が亡くなった後、奥さんが強くなり、そして、家族の協調性が強くなって幸福になった家庭を見たこともあるし、それが自然なことと思う。
『蘇る金狼』という映画で、松田優作さん演じる朝倉哲也が銃を向けた暴力団の男が命乞いをした時、哲也が、「女房子供あんのか?」と聞くと、その男は、「いるいる!いっぱいいる!」と必死ですがる。しかし、哲也は、「死んだ方が幸せになるだろ」と言って、引き金を引いた。
我々も、その暴力団の男と、ちっとも変わらないのだ。
家族、地域、学校、職場・・・そういった、あなたが深く関わった処でも、あなたが死んでも、何の影響もない。
ましてや、別の学校、会社、隣町、さらに、行ったこともない場所では、あなたの死は、あまりに無関係だ。
通勤電車の中で眺めた風景も何も変わらない。
ところが、ふと、不思議なことに気付くかもしれない。
自分がいなくなった世界を、観察するという行為を超えて、もっと静かに、深く感じた時、すなわち、観照した時だ。
実に、世界が美しく変わっていることに気付く。
あなたが知らなかった場所のことさえ感じられる。遠い国の町、草原、砂漠、海のことまで見えてくるようだが、それらが、ことごとに美しい。
なんと、我々がいない方が、世界は美しいのだ!
これはどういうことだろう?それは、我々の自我が、いかに世界を醜いものにしていたかということだ。
雨が降ったら憂鬱なのは、雨のせいでも、誰のせいでもなく、自分の心のせいだったことに、初めて本当に気付くのだ。
教師や上司、あるいは、クラスメイトや同僚の誰かが嫌なやつだったのは、実に、我々の心がその原因だったのだ。
全ての悪の根源たる自我が消えたら、世界は元々美しい。
そりゃ、世界には様々な問題があり、我々が死んだからといって解決するものではないし、実際、我々が死んでも、状況が変わるわけではない。
しかし、何かが違うのである。
まるで、映画の中の出来事のように、虚ろで嘘っぽいものに変わっている。
世界は、実に、ただの劇であったと分かる。
そして、ふと気紛れに、自分が元いた場所を見てみる。
すると・・・
自分がそこにいる。生きて、以前と同じようなことをしている。
それが、ほとんど他人事のように感じる。実際、それはもう自分ではない。
ただ、生まれる前に定められた運命の通りに生きているだけの、思考する個別体である。
その自分が、死のうが生きようが、もうどうでもいいことだ。運命の尽きるまでは生きるし、定められた時にちゃんと死ぬだろう。
これが悟りの実際である。
筆者のkayさんは超能力や超常現象を信じる神秘思想家で、運命論者であるようだ。最初は女性かと思っていたが、どうやら男性のようである。
そのあまりにも断定的な言い方に反発を感じる向きもあるだろうし、ブログを続けて読むと同じ内容を何度も繰り返すので、少々付き合いかねる面もあるが、時に素晴らしい文章で素晴らしい叡智の言葉を書くことがある。
下に引用するのが、その一例である。
これは仏教で言う「色即是空 空即是色」の本質をつかんだ言葉だと思う。つまり、自我を捨てた目でこの世界を見て初めて、この世界の真の素晴らしさは分かるということ。にもかかわらず、それに執着してはいけない、ということである。執着するやいなや、この世界は地獄と接続する。
私は筆者の主張する運命主義は、この世を改善する意志を失わせるマイナスの思想と見るから、それには不賛成だが、それが自我の苦しみから脱する道だとするなら、理解はできる。
(以下引用)
6月10日
あなたが死んだ世界
カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育
自分が存在しない世界を想像したことのある人は少ないだろう。
ところが、それをやってみると、これまで全く知らなかった神秘的な感覚を感じると共に、深い知恵を得るのである。
あなたが死んで少し経ったとする。
学校や職場、そこへの通学や通勤で通った道、利用した駅の風景を思い浮かべてみる。
すると、あなたがいた頃と、何も変わっていないことが分かる。
誰もあなたのことなんか、もう忘れている。
家族なら、しばらくの間は、あなたのことをよく思い出したり、話したりするかもしれないが、それも、そう長いことではない。
あなたが死んだ影響なんて、全くないのだ。
会社などで、「俺がいなければ、仕事が回らない」なんて思っている者は多いだろうが、そんなことは全くない。
実際、そんな態度を露骨に見せながら仕事をしていた者が、不意に移動させられたなんてことを何度か見たが、それで職場が少しでも混乱したなんてことは一度もなかった。
プロ野球やプロ・サッカーでも、主力選手がケガをして出場できなくなると、マスコミはよく、いかにもチームが大打撃を受けるようなことを書くが、実際は、すぐに別の選手が活躍して、むしろチームがよくなったりするものだ。スター選手が欠場したら、かえって大勝する場合が多いじゃないか?
まして、我々凡人は、いてもいなくても、世界に何の影響もない。
「残された妻子が不憫だ」とか、「年老いた親を残したまま死ぬわけには」という者も多いが、何とかなるものだ。
実際、主人が亡くなった後、奥さんが強くなり、そして、家族の協調性が強くなって幸福になった家庭を見たこともあるし、それが自然なことと思う。
『蘇る金狼』という映画で、松田優作さん演じる朝倉哲也が銃を向けた暴力団の男が命乞いをした時、哲也が、「女房子供あんのか?」と聞くと、その男は、「いるいる!いっぱいいる!」と必死ですがる。しかし、哲也は、「死んだ方が幸せになるだろ」と言って、引き金を引いた。
我々も、その暴力団の男と、ちっとも変わらないのだ。
家族、地域、学校、職場・・・そういった、あなたが深く関わった処でも、あなたが死んでも、何の影響もない。
ましてや、別の学校、会社、隣町、さらに、行ったこともない場所では、あなたの死は、あまりに無関係だ。
通勤電車の中で眺めた風景も何も変わらない。
ところが、ふと、不思議なことに気付くかもしれない。
自分がいなくなった世界を、観察するという行為を超えて、もっと静かに、深く感じた時、すなわち、観照した時だ。
実に、世界が美しく変わっていることに気付く。
あなたが知らなかった場所のことさえ感じられる。遠い国の町、草原、砂漠、海のことまで見えてくるようだが、それらが、ことごとに美しい。
なんと、我々がいない方が、世界は美しいのだ!
これはどういうことだろう?それは、我々の自我が、いかに世界を醜いものにしていたかということだ。
雨が降ったら憂鬱なのは、雨のせいでも、誰のせいでもなく、自分の心のせいだったことに、初めて本当に気付くのだ。
教師や上司、あるいは、クラスメイトや同僚の誰かが嫌なやつだったのは、実に、我々の心がその原因だったのだ。
全ての悪の根源たる自我が消えたら、世界は元々美しい。
そりゃ、世界には様々な問題があり、我々が死んだからといって解決するものではないし、実際、我々が死んでも、状況が変わるわけではない。
しかし、何かが違うのである。
まるで、映画の中の出来事のように、虚ろで嘘っぽいものに変わっている。
世界は、実に、ただの劇であったと分かる。
そして、ふと気紛れに、自分が元いた場所を見てみる。
すると・・・
自分がそこにいる。生きて、以前と同じようなことをしている。
それが、ほとんど他人事のように感じる。実際、それはもう自分ではない。
ただ、生まれる前に定められた運命の通りに生きているだけの、思考する個別体である。
その自分が、死のうが生きようが、もうどうでもいいことだ。運命の尽きるまでは生きるし、定められた時にちゃんと死ぬだろう。
これが悟りの実際である。
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