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病院のベッドとジャガーの座席

市民図書館で借りた佐野洋子の『役にたたない日々』というエッセイ集がなかなか面白く、一息で読んでしまった。68歳で痴呆症の気配があり、乳がんにもかかっている著者だが、癌で余命が2年とわかって、かえって元気になったという。
以下に一部を引用する。
高名なお坊さんが、癌の宣告をされて、見苦しく取り乱し、ノイローゼになったなどという話もあるが、余命2年なら2年と宣告してもらったほうが、「では、その2年をどう使うかな」という楽しみができるのではないか。べつに大げさに考えることはない。今元気な若者でも、息を吸い込んだ拍子に異物が気管に詰まり、そのまま死ぬということもある。我々には1秒後の生命さえ、本当は保障されてはいないのだ。
作者が抗がん剤や延命治療を断ったのは、非常に賢明だったと思う。というのは、癌治療を始めると、残された時間が治療のみに費やされることになるからである。それよりは、やりたいことをやって静かに死を待つのがいいはずだ。ジャガーに乗ってみたかったならば、ためらわずにジャガーを買えばいいのである。
「メメント・モリ」、すなわち「死を思え」と言われるのは、それによって我々の生がダルな日常から救い出され、輝きをもって現れるからだろう。


(以下引用)


「こわくないって、それにガンってすごくいい病気だよ、死ぬ時に死ぬじゃん、もっと大変な病気いっぱいあるじゃん、リューマチとかだんだん悪くなるだけで、ずーっと痛くて治らないとか、死ぬまで人工透析するとか、脳梗塞で寝たきりで口がきけないとか、体が元気で痴呆とか、何でガンだけ『ソウゼツなたたかい』とか云うの、別にたたかわなくてもいいじゃん。私、たたかう人嫌いだよ」


初めての診察の時、「あと何年もちますか」「ホスピスを入れて二年位かな」「いくらかかりますか死ぬまで」「一千万」「わかりました。抗ガン剤はやめてください。延命もやめてください。なるべく普通の生活が出来るようにして下さい」「わかりました」(それから一年はたった)
ラッキー、私は自由業で年金がないから九十まで生きたらどうしようとセコセコ貯金をしていた。
私はその帰りにうちの近所のジャガーの代理店に行って、そこにあったイングリッシュグリーンの車を指さして「それ下さい」と云った。

買って一週間たったらジャガーはボコボコになっていた。私は車庫入れが下手でうちの車庫は狭いのだ。ボコボコのジャガーにのっていて、その上毎日カラスがボンネットの上にふんをする。
私は今、何の義務もない。子供は育ち上がり、母も二年前に死んだ。どうしてもやりたい仕事があって死にきれないと思う程、私は仕事が好きではない。二年と言われたら、十数年私を苦しめたウツ病がほとんど消えた。人間は神秘だ。
人生が急に充実して来た。毎日がとても楽しくて仕方ない。死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う。

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ドラマの無い人生

ドラマの無い人生

『耳嚢』という江戸時代の随筆集で読んだ格言が、人生の秘訣をなかなか簡潔に言っているので紹介する。元の言葉通りではないが、

「気は長く、仕事は強く、色は薄く、食は細く、心は広く」

というものである。単純だが、まさに人生の指針として過不足の無いものだろう。特に、「食は細く」というのは過食から不健康になりがちな現代人への良い戒めだし、「気は長く、心は広く」というのもストレスフルな現代人が心がけるべきことだろう。もちろん、仕事を一生懸命にやるのも大事だし、過度の情事を慎むのも大事だ。全体を一言で言えば「節制」である。あるいは「生活を自己コントロールせよ」ということだ。

こういう戒めを守っていると、ドラマチックな人生にはならないだろうが、ドラマとは実は「不幸の塊」なのである。あなたは父親を殺し、母親を犯したいと思うか? ところがそれが古典古代世界最大のドラマとして古来有名な『オィディプス王』のプロットなのである。あるいはハムレットのように恋人を発狂させ、義理の父を殺し、恋人の父親を殺し、友人すべてを破滅させるというプロットもある。あなたはそういう人生にあこがれるか?
世の中にドラマがあふれた結果、自分の平凡な人生に満足できなくなった人間がいるとしたら、ドラマも罪つくりである。(『ドン・キホーテ』とは実はそういう小説である。)
実際、世間の人間はドラマに毒されており、私は、たとえば世間の恋愛の90%はドラマの真似をしているだけだと思っている。封建時代には恋愛など無くても人々は結婚し、幸せに暮らしていたのである。そうした時代には恋愛とは不倫でしかなかったと言ってよい。近松の心中物とは「封建時代における真の恋愛は不倫のみである」ことの証明のようなものだ。
しかし、私が案ずるまでもなく、ドラマチックな人生を送るには多分、才能が要るのである。才能もない人間が現実人生にドラマを求めると、周囲をめちゃくちゃにするのがオチだろう。もっとも、そのめちゃくちゃがドラマではあるのだが、ただし、周囲の人間にとってはいい迷惑だし、面白いものでも美しいものでもないはずだ。

というわけで、平凡な人生をなぜ人々が嫌うのか、私には理解できない。自分の力で生きているだけで立派だし、周囲に迷惑をかけずに生きていたらもっと立派だ。それだけでも、ドラマチックな人生を送った犯罪者の1万倍も称賛する価値がある。
もっとも、実人生と混同しなければドラマは有益なものだ。有益どころか、ドラマ世界に浸っている時間は「高次元の人生」と言ってよい。これはたとえば歌謡曲やポップスの中のドラマであってもいい。我々がそのドラマの美に感動するというのは、より高次元の人生を自分の脳内世界で体験していることなのである。ただし、それはあくまでヴァーチャルなものであり、現実世界の美や感動はそれとは別だ。

コリン・ウィルソンの言う「至高体験」はドラマチックな出来事に遭遇して生じるものではない。たとえば、若い母親が夫を仕事に送り出し、洗濯をした後、その洗濯物が青空を背景に揺れているのを見て、何とも言えない幸福感に包まれる、そういうものこそ至高体験であり、「自分の今の状態こそが幸福なのだ」という感覚なのである。
あなたはドラマの無い人生は空しいと思うだろうか? この若い母親の幸福感を馬鹿馬鹿しいと思うだろうか?

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ヨイトマケの唄

  (父ちゃんのためなら エンヤコラ
  母ちゃんのためなら エンヤコラ
  もひとつおまけに  エンヤコラ)


1 今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  工事現場の昼休み
  たばこふかして 目を閉じりゃ
  聞こえてくるよ あの唄が
  働く土方の あの唄が
  貧しい土方の あの唄が

2 子供の頃に小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に暮れながら
  泣いて帰った道すがら
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

3 姉さんかぶりで 泥にまみれて
  日にやけながら 汗を流して
  男に混じって ツナを引き
  天に向かって 声をあげて
  力の限り 唄ってた
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

4 なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってはきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も忘れ果て
  帰って行ったよ 学校へ
  勉強するよと言いながら
  勉強するよと言いながら


5 あれから何年経ったことだろう
  高校も出たし大学も出た
  今じゃ機械の世の中で
  おまけに僕はエンジニア
  苦労苦労で死んでった
  母ちゃん見てくれ この姿
  母ちゃん見てくれ この姿

6 何度か僕もぐれかけたけど
  やくざな道は踏まずに済んだ
  どんなきれいな唄よりも
  どんなきれいな声よりも
  僕を励ましなぐさめた
  母ちゃんの唄こそ 世界一
  母ちゃんの唄こそ 世界一


  今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  (父ちゃんのためなら エンヤコラ
  子どものためなら エンヤコラ)


丸山明宏、現美輪明宏の「ヨイトマケの唄」である。この中に出てくる「土方」という言葉が放送禁止用語であるために、この唄をマスメディアの中で聞くことはできない。これほど倫理観にあふれた高潔な歌が放送禁止歌であるということに釈然としない気持ちになるのは私だけではないだろう。
丸山(美輪)明宏はオカルトチックなところは敬遠したくなるが、作詞家としての才能、歌手としての才能は大変なもので、彼が訳したシャンソン「アコーディオン弾き」の歌詞は大傑作である。一度、聞いてみると良い。

現在の日本では、マスメデイアの中でシャンソン、カンツォーネなどを聞く機会がほとんど無い。ずいぶんいびつな音楽状況だと思う。これによる若者たちの「機会損失」はずいぶん大きいだろう。本当に良いものを知らず、ただ日本国内とアメリカで生産される文化の中だけで生きているのである。いわば、文化的鎖国の状態ではないか?

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黙って俺について来い

 だまって俺について来い (作詞 青島幸男)

ぜにのないやつぁ
俺んとこへ来い
俺もないけど 心配すんな
みろよ 青い空 白い雲
そのうちなんとかなるだろう

(台詞)わかっとるね わかっとる わかっとる
わかったら だまって俺について来い



* 2番目 3番目は、1番目の「ぜに(銭)」を「彼女」「仕事」に変えて唄う。つまり、「彼女のない奴ぁ俺んとこへ来い」「仕事のない奴ぁ俺んとこへ来い」となるわけだ。



植木等の「だまって俺について来い」の歌詞である。植木等の「無責任男」シリーズ、あるいは「日本一の○○男」シリーズは、日本の高度経済成長時代を象徴する明るさに満ちた映画であり、その挿入歌も青空のように明るい。まさしく

「見ろよ青い空 白い雲」

であり、植木等のあの明るい歌を聞くと誰もが、「そうだ、そのうち何とかなるだろう」と思ったものである。人々がそのような気持ちでいられれば、現在のような毎年の自殺者4万人ということにはならないはずだが……。
そこで、私は言いたい。
「植木等カムバ~ック!」

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ドン・ガバチョの唄

やるぞレッツゴー 見ておれガバチョ
あーやりゃ こーなって あーなって こーなるでチョ
何がなんでもやり抜くですチョ
頭のちょっといいドンガバチョ ハイ
ドンドンガバチョ ドンガバチョ ハイ
今日が駄目なら明日にしましょ
明日が駄目ならあさってにしましょ
あさってが駄目ならしあさってにしましょ
どこまでいっても あすがある ハイ
チョチョイのチョイのドンガバチョ ハイ
ドンドンガバチョ ドンガバチョ ハイ


*昨日に続いて、井上ひさし追悼の記事で、これも「ひょっこりひょうたん島」の挿入歌、「ドン・ガバチョの唄」である。
ドン・ガバチョはひょうたん島の初代大統領という偉い人だが、他になりたい人もいなかったので、自ら名乗り出て大統領に就任したという奇特な人物である。口八丁手八丁の才人で、日本が大統領公選制をとったなら、ぜひ大統領になってほしい人物だ。ほらふきの詐欺師ではないかという噂もあるが、政治家にはそのような批判はつきものだから、無視してよいだろう。
「今日が駄目なら明日にしましょ。明日が駄目ならあさってにしましょ。あさってが駄目ならしあさってにしましょ。どこまでいってもあすがある」というフレーズの素晴らしいこと! まさしく、全国民を導くリーダーは、このようにまったく根拠のない夢と希望を信じていなければならない。私の敬愛する植木等の歌もそうだったが、かつての日本は何と、明日を信じていただろうか。それが、今では小学生でさえも日本の未来など信じていない世の中である。
「ドン・ガバチョ、カムバ~ック!」

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「ひょっこりひょうたん島」の主題歌

「ひょっこりひょうたん島」 (ある人の耳コピである)

波を ちゃぷちゃぷ 
ちゃぷちゃぷ かきわけて( ちゃぷちゃぷちゃぷ)
雲を すいすい 
すいすい 追い抜いて( すいすいすい)
ひょうたん島はどこへゆく
僕らを乗せてどこへゆく うううう うううう
丸い地球の 水平線に 何かがきーっと待っている う
苦しいこともあるだろさ 
かなしいこともあるだろさ
だけど僕らはくじけない
泣くのはいやだ笑っちゃお
すすめー
ひょっこりひょうたん島 
ひょっこりひょうたん島 
ひょっこりひょうたん島


*もう少し枯堂夏子の詞を続けるつもりだったが、それをコピーするつもりだったサイトがコピー不可能だったので、別の歌詞にする。つい先日物故した作家、井上ひさしによる「ひょっこりひょうたん島」の歌詞である。
小説家、劇作家としての井上ひさしよりも、作詞家としての井上ひさしのほうが良かったのではないかというのが、私の気持ちである。おそらく、彼自身は、スラスラと書ける歌詞よりも、作るのに難渋する小説や戯曲の方が価値があると思っていたと思うが、作品の価値は長さや作成の困難さとは無関係である。詩や歌詞というものは、どんなに短くても、素晴らしい価値があることがある。
この「ひょっこりひょうたん島」の歌詞もその一つで、「泣くのはいやだ笑っちゃおう」などというフレーズは天才にしか思いつけないのではないか。「泣くのはいやだ」まではいいが、それがいきなり「笑っちゃおう」に続く、この落差の凄さ。まるで、『2001年宇宙の旅』で、ネアンデルタール人が空中に放り投げた骨が次の瞬間に宇宙を行く宇宙船になり、人類数万年の時間が一瞬に凝縮された、あの奇跡の映像みたいではないか。
まあ、もちろん、私は少々おおげさに言ってはいるが、それでもこの「泣くのはいやだ笑っちゃおう」に励まされた子供は全国で無数にいたはずである。だから、『思ひ出ぽろぽろ』などでもこの歌が効果的に使われたのである。

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枯堂夏子の歌詞 1

BOYS BE FREE!

歌:小桜エツ子
(作詞:枯堂夏子/作曲・編曲:長岡成貢)

魔法使いがあなたを 女の子に変身させても
わたし 平気よ
いままでどおり きっとあなたが 好きでいられる
おそろいの リボンつけて
おしゃれを しましょ
いまよりも もっとなかよくなれる
そんな気も するわ

◇大好きよ 強くなくても 大好きよ ガンバらなくても  

守って欲しい わけじゃないわ  
あなたと ただふたり 
いっしょに いるだけでいい

大きな 敵と戦っているような
鋭い目は イヤ
甘い夢 見てトロンとしてる 
そんな瞳が とても 好きだわ
しなきゃいけないことなどこの世に ないわ
優しさが なければ
自由になる資格はないのよ

 ◆大好きよ 偉くなくても 大好きよ 負けてばかりでも  

勇気も 力も いらないわ 
あなたと いつまでも 
なかよくしていたいだけ


(解説)「神秘の世界エル・ハザード」のエンディング・テーマの一つ。(エンディングアニメの洒落ていたのも、エルハの魅力の一つだった)小桜エツ子がアレーレの声で歌っていた。パトラ(本当はファトラだが、私の耳にはパトラと聞こえたので、私のノベライズではパトラになっている。)王女の女装をする羽目になって悩む真(これも本当は誠である。)への応援歌であり、枯堂夏子の少年たちへの応援歌である。「大好きよ 偉くなくても 大好きよ 負けてばかりでも」というフレーズを、子供の頃に聞いていたら、生きるのが、どんなに楽になっただろうと思う。
「男らしくなければならない」「勝たなければならない」「偉くならなければならない」という思いに雁字搦めに縛られて苦しんでいた、子供の頃の自分が、今は可哀想に思われる。女性の側からも、そんな男や男の子が痛々しく見えていたのだろう。
「少年たちよ、自由になりなさい!」というこの呼びかけは、様々な固定観念のために人生を窮屈にしているあらゆる人間への呼びかけでもある。枯堂夏子は作詞の天才であるだけではなく、素晴らしい思想家(有名な思想家とか哲学者よりも、本当に人間の役に立つ、真の思想家だ。)でもあるのだ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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