酔生夢人という名前にふさわしく、たまには夢の話でも書こう。といっても「私には夢がある」というあの夢ではない。私は「実現目標」という言葉は好きだが「夢」という言葉は嫌いだ。そういう夢はたいてい夢のままで終わるものだからだ。
しかし、本物の夢は映画やテレビを見るのと同じであり、それ以上に奇妙な切実感があるから面白い。
で、下記の記事は私が別にやっているブログに今朝掲載したものだが、(私は4つほどブログをやっている。そのうち「徽宗皇帝の娯楽的語学ブログ」は現在休止中だ。)なかなか書くのに手間がかかったので勿体ないからここでも使わせてもらう。実際に今朝見た夢の話である。
他人の見た夢の話など馬鹿馬鹿しくて聞いていられないものだが、今朝がた見た夢が面白かったんで備忘のために書いておく。
それはクリント・イーストウッドの遺作となるべき映画の夢である。つまりその映画そのものを夢で見たのだ。というより、これはもちろん私が夢の中でその映画を創造したということだ。
私はべつにイーストウッドのファンではないが、彼が現在の最高の映画監督の一人であり、映画そのものを代表する人間であると思っている。そして、彼は映画というジャンルの最後を看取る人間だろうと思っている。
CGによって映画は死んだのである。映画の持つ、「作り物であることが分かっていながらの、いや、作り物だからこそのワクワク感」がCGには見事に無い。それは映画そのものの死である。
で、イーストウッドには最後の映画でCGを使い、映画というジャンルがこれでお終いであることを語ってほしいわけだ。
さて、この映画のポイントは最後の10分間にある。映画のエピローグ部分だ。本編はありきたりのB級西部劇でいい。その内容は、イーストウッドが西部の保安官、あるいは賞金稼ぎの西部男で、それとコンビを組む若者がいる。で、イーストウッドは本編の中で死ぬかどこかに去っていって本編は終るのだが、実はここからが本当のテーマだ。
エンディングクレジットが流れた後、画面には、今は老人となったかつてのイーストウッドの仲間の若者の部屋が映る。その老人はおそらく自分のヒーローであった西部男(イーストウッド)の伝記でも書こうとしていたようで、机や棚にはタイプされた紙が堆積して埃をかぶっている。
ある日、老人は過去の記録を書き遺すことをあきらめ、自分の小屋に火を点けて旅に出る。
そして老人はある田舎町に来る。
そこで老人はイーストウッドによく似た若者が仲間と談笑しながら通り過ぎるのを見て驚く。もちろん、ただの田舎の青年で、鉄工所かガレージにでも勤める平凡な若者にすぎない。
老人は首を振って町のかなたに目をやる。
小さな丘の向こうに赤い小山のようなものが見える。
すぐにそれは巨大な、枯れたアカマツのような巨木であることが分かる。しかし、高さは500メートルほどもある巨木なのである。(もっと馬鹿馬鹿しく大きくてもいい)
その巨木はゆっくりと倒れていく。と同時に、その巨木の枯れた枝が赤い雲のようになって空に飛散し、赤い吹雪となって流れていく。次の瞬間にその赤い吹雪は無数の騎馬の西部男の姿になる。(ここから軽快な音楽が流れるが、一連の単調な音の繰り返しであり、高揚感とドライブ感はあるが、実は「葬送曲」なのである)次にその赤い雲は無数の騎馬のインディアンの姿になり、空の彼方に駈けていく。
こうしていわば「GHOST RIDERS IN THE SKY」の姿を残像に残し、映画は終わる。
そしてそれと共に映画というジャンル、西部劇というジャンルも終わるのである。
しかし、本物の夢は映画やテレビを見るのと同じであり、それ以上に奇妙な切実感があるから面白い。
で、下記の記事は私が別にやっているブログに今朝掲載したものだが、(私は4つほどブログをやっている。そのうち「徽宗皇帝の娯楽的語学ブログ」は現在休止中だ。)なかなか書くのに手間がかかったので勿体ないからここでも使わせてもらう。実際に今朝見た夢の話である。
他人の見た夢の話など馬鹿馬鹿しくて聞いていられないものだが、今朝がた見た夢が面白かったんで備忘のために書いておく。
それはクリント・イーストウッドの遺作となるべき映画の夢である。つまりその映画そのものを夢で見たのだ。というより、これはもちろん私が夢の中でその映画を創造したということだ。
私はべつにイーストウッドのファンではないが、彼が現在の最高の映画監督の一人であり、映画そのものを代表する人間であると思っている。そして、彼は映画というジャンルの最後を看取る人間だろうと思っている。
CGによって映画は死んだのである。映画の持つ、「作り物であることが分かっていながらの、いや、作り物だからこそのワクワク感」がCGには見事に無い。それは映画そのものの死である。
で、イーストウッドには最後の映画でCGを使い、映画というジャンルがこれでお終いであることを語ってほしいわけだ。
さて、この映画のポイントは最後の10分間にある。映画のエピローグ部分だ。本編はありきたりのB級西部劇でいい。その内容は、イーストウッドが西部の保安官、あるいは賞金稼ぎの西部男で、それとコンビを組む若者がいる。で、イーストウッドは本編の中で死ぬかどこかに去っていって本編は終るのだが、実はここからが本当のテーマだ。
エンディングクレジットが流れた後、画面には、今は老人となったかつてのイーストウッドの仲間の若者の部屋が映る。その老人はおそらく自分のヒーローであった西部男(イーストウッド)の伝記でも書こうとしていたようで、机や棚にはタイプされた紙が堆積して埃をかぶっている。
ある日、老人は過去の記録を書き遺すことをあきらめ、自分の小屋に火を点けて旅に出る。
そして老人はある田舎町に来る。
そこで老人はイーストウッドによく似た若者が仲間と談笑しながら通り過ぎるのを見て驚く。もちろん、ただの田舎の青年で、鉄工所かガレージにでも勤める平凡な若者にすぎない。
老人は首を振って町のかなたに目をやる。
小さな丘の向こうに赤い小山のようなものが見える。
すぐにそれは巨大な、枯れたアカマツのような巨木であることが分かる。しかし、高さは500メートルほどもある巨木なのである。(もっと馬鹿馬鹿しく大きくてもいい)
その巨木はゆっくりと倒れていく。と同時に、その巨木の枯れた枝が赤い雲のようになって空に飛散し、赤い吹雪となって流れていく。次の瞬間にその赤い吹雪は無数の騎馬の西部男の姿になる。(ここから軽快な音楽が流れるが、一連の単調な音の繰り返しであり、高揚感とドライブ感はあるが、実は「葬送曲」なのである)次にその赤い雲は無数の騎馬のインディアンの姿になり、空の彼方に駈けていく。
こうしていわば「GHOST RIDERS IN THE SKY」の姿を残像に残し、映画は終わる。
そしてそれと共に映画というジャンル、西部劇というジャンルも終わるのである。
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