「阿修羅」記事から転載。筆者は河合薫という人らしい。テレビなどにも出ている人のようだが、なかなか考え方がまともだ。つまり、人間らしさがある。
私は競争というものが大嫌いなのだが、それは必ずしも「負けるのがいや」というだけではない。「勝つのもいや」なのである。
私が勝てば、誰かが負ける。その負けた人間の不快な心中を考えると、勝っても嬉しくないのである。いや、勝った経験はほとんど無いけど。
こういう人間が競争社会でまともに生きられるわけはない。受験生を指導している間も、「自分が教えている生徒が合格すれば、その分誰かが落ちるんだよなあ」と考えているから、教えていてもあまり充実感は無かった。つまり、ダメ教師だったのだろう。
もちろん、この世界が本来は弱肉強食の生存競争の社会であることはよく分かっている。しかし、人類の進歩と発展は、人間同士が殺しあったり蹴落としあったりしなくても互助的に生きられるくらいには精神的文化的に向上したのではないだろうか。
仮にそうなっていなくても、そうなれるだけの潜在力はあるのではないか?
ならば、人間同士を競争させ、お互いを蹴落としあわせて、そのエネルギーや成果で発展していく、という在り方は、必ずしも絶対的な成長の条件ではないだろうし、そもそも、「成長信仰」は地球の資源量から言って、過去のものになりつつあるのではないだろうか。
ということで、私は競争が嫌いなのだが、スポーツ観戦は嫌いではない。試験は嫌いだが勉強は嫌いではない。今でも趣味で英語の原書にチャレンジなどしている。テレビなど見るより、昔翻訳で読んだ本を英語で読んだりするほうがよほど面白いのである。
私は今、2×2×3×?歳だが、これまでの人生で知り得た有益なもの、面白いものを、これからはじっくりと味わえるのが老年だと思っている。なにしろ、競争社会の中では、趣味的なものをじっくり味わう心の余裕も無かったのだから。
(以下引用)
問題は、「集団の名声=自分の価値」「集団の名声=人の価値」となってしまうこと。自分の属する集団の評価が高いだけでしかないのに、あたかもそれが自分の価値だと勘違いした途端に、ややこしいことになる。
競争に勝った人は、価値ある人。
競争に負けた人は、価値なき人。
競争に参加しなかった人も、価値なき人。
こうした具合に、競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別されるようになってくる。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われてしまうのだ。
おまけに人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取ることがある。
「今あるものを失うかもしれない」と恐怖を感じた時には、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわない。それはまさしく、人間の心の奥に潜む、闇の感情が理性を超えて噴出した瞬間である。
ところが、勝ち組の枠内にいる人たちは、自分たちが自分たちの名声を守るために、下を蹴落としていることに気がつかない。それがまた、競争を激化させる。
競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、一度でも“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていってしまうのである。
おカネというものがこの世に生まれるまでは、人の生活は公平な分配が基本だった。狩りで捕らえた鹿は、みんなできちんと均一に分配する。人よりも多く取ったり、隠し持ったりした人は、誹謗中傷の的となった。
ところが、おカネが生まれ、自分の好きなものをゲットする自由を得たことで、公平な分配社会は終焉を迎える。だが、その時の人間には、自分だけが手に入れることへのうしろめたさがあったそうだ。「自分だけがいい思いをしてしまって、申し訳ない」と。
そして今。そのうしろめたさを、果たしてどれほどの人たちが抱いているだろうか。持つべきものと持たざるべきものの差が、あたかも人間の格差のように扱われてしまう世の中に、どれだけの人たちが心底から疑問を感じているだろうか。
私は競争というものが大嫌いなのだが、それは必ずしも「負けるのがいや」というだけではない。「勝つのもいや」なのである。
私が勝てば、誰かが負ける。その負けた人間の不快な心中を考えると、勝っても嬉しくないのである。いや、勝った経験はほとんど無いけど。
こういう人間が競争社会でまともに生きられるわけはない。受験生を指導している間も、「自分が教えている生徒が合格すれば、その分誰かが落ちるんだよなあ」と考えているから、教えていてもあまり充実感は無かった。つまり、ダメ教師だったのだろう。
もちろん、この世界が本来は弱肉強食の生存競争の社会であることはよく分かっている。しかし、人類の進歩と発展は、人間同士が殺しあったり蹴落としあったりしなくても互助的に生きられるくらいには精神的文化的に向上したのではないだろうか。
仮にそうなっていなくても、そうなれるだけの潜在力はあるのではないか?
ならば、人間同士を競争させ、お互いを蹴落としあわせて、そのエネルギーや成果で発展していく、という在り方は、必ずしも絶対的な成長の条件ではないだろうし、そもそも、「成長信仰」は地球の資源量から言って、過去のものになりつつあるのではないだろうか。
ということで、私は競争が嫌いなのだが、スポーツ観戦は嫌いではない。試験は嫌いだが勉強は嫌いではない。今でも趣味で英語の原書にチャレンジなどしている。テレビなど見るより、昔翻訳で読んだ本を英語で読んだりするほうがよほど面白いのである。
私は今、2×2×3×?歳だが、これまでの人生で知り得た有益なもの、面白いものを、これからはじっくりと味わえるのが老年だと思っている。なにしろ、競争社会の中では、趣味的なものをじっくり味わう心の余裕も無かったのだから。
(以下引用)
問題は、「集団の名声=自分の価値」「集団の名声=人の価値」となってしまうこと。自分の属する集団の評価が高いだけでしかないのに、あたかもそれが自分の価値だと勘違いした途端に、ややこしいことになる。
競争に勝った人は、価値ある人。
競争に負けた人は、価値なき人。
競争に参加しなかった人も、価値なき人。
こうした具合に、競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別されるようになってくる。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われてしまうのだ。
おまけに人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取ることがある。
「今あるものを失うかもしれない」と恐怖を感じた時には、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわない。それはまさしく、人間の心の奥に潜む、闇の感情が理性を超えて噴出した瞬間である。
ところが、勝ち組の枠内にいる人たちは、自分たちが自分たちの名声を守るために、下を蹴落としていることに気がつかない。それがまた、競争を激化させる。
競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、一度でも“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていってしまうのである。
おカネというものがこの世に生まれるまでは、人の生活は公平な分配が基本だった。狩りで捕らえた鹿は、みんなできちんと均一に分配する。人よりも多く取ったり、隠し持ったりした人は、誹謗中傷の的となった。
ところが、おカネが生まれ、自分の好きなものをゲットする自由を得たことで、公平な分配社会は終焉を迎える。だが、その時の人間には、自分だけが手に入れることへのうしろめたさがあったそうだ。「自分だけがいい思いをしてしまって、申し訳ない」と。
そして今。そのうしろめたさを、果たしてどれほどの人たちが抱いているだろうか。持つべきものと持たざるべきものの差が、あたかも人間の格差のように扱われてしまう世の中に、どれだけの人たちが心底から疑問を感じているだろうか。
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