「新ベンチャー革命」から一部転載。
わりと有名なブログのようだから、わざわざ転載するまでもないかもしれないが、「週刊新潮の未必の故意」という角度から松下金融相の死を取り上げたのは珍しいので、転載する。
とは言っても、マスコミなんてそんなもので、他人の尻にくっついて「お前は幾つ屁をひった、幾つ屁をひった」(©漱石)と数えてはそれを雑誌や新聞に書くのが商売のようなものだ。他人の死も「おいしい材料」の一つであり、それで雑誌が売れるなら、これから誰かが殺されるのを見殺しにするのもマスコミ人種としては普通だろう。
バルザックの『幻滅』の主人公の詩人(リュシアンと言ったか)が、マスコミの求めに応じて、今死んだばかりの恋人の死体の横で必死になってコミックソングを作るという情景が、マスコミの本質を象徴している。(これも大昔に読んだ記憶で書いているので、間違っているかもしれないが、まあ、いい加減なことばかり書くのは私の個性である、と承知してもらいたい。エヘン)
しかし、ネット上での意見の9割以上は、松下金融相の死は他殺である、というものだが、そういう状況に対して別に大声をあげるわけでもない。国民全体が国家犯罪に対して不感症になっている気配があって、そっちの方が、むしろ問題だろう。
警察も検察も犯行者やその指令者とグル、あるいはその手下なんだから、どうしようもない、というあきらめである。これほどに社会の根本的システムへの不信感が蔓延した時代、ニヒリズムに覆われた時代、というのは、私が生きている限りでは初めてのような気がする。国民の大多数は知ること、言うことだけで自己完結し、体を張った改革的行動には至らぬままで終わり、という時代だ。(それはもちろん、私も含めてだ)
つまり、人々が「偽りの現実」に気づいた結果は、革命に向わずに、あきらめとニヒリズムに向っている、というように私には見える。そういう時代には、体を張って行動する人間は、それだけでも評価される。
橋下の正体にしても、その本質的邪悪さは分かっていながら、面白いからあいつにこの社会をぶっ壊させろ、という人間が、特に若い人には多いのではないだろうか。
しかし、そういう投げやりな無責任さは、ロクな結果にはならない、と予言しておこう。モラルの無い人間を社会や組織の上位に置くことは、最悪の選択なのである。
政治家は悪人でも有能ならばいい、というのは大間違いであり、それは「悪人」の定義を矮小化した言説である。悪人とは、究極のエゴイストのことであり、そういう人間の行う政治が社会全体に奉仕するものになることはありえない。
簡単なたとえで言えば、石原慎太郎の『完全な遊戯』の強姦殺人犯の青年たちが、口がうまく、頭がいいとすれば、総理大臣や東京都知事や大阪市長にしてもいいか、ということである。
ついでに言えば、この種の人間は常に人口の3%は確実にいるもので、戦場において有能な殺し屋になるのも、そういう連中だそうである。全国のいじめ事件の中心にいるのは、たいていそういう連中だろう。生まれつきモラルの欠如した連中である。青山学院中学の例の事件の指令犯の女、実行犯の男たちもその3%だろう。あれなど、精神が腐り切っている、という点では滋賀県のいじめ自殺事件よりもひどい事件である。そして、その精神は石原慎太郎が若い頃に書いた『処刑の部屋』や『完全な遊戯』の登場人物たちによく似ているのである。すなわち、人間の皮をかぶったケダモノである。
(以下引用)
われら国民は、よほど、彼らになめられているのでしょう、だから、この事件を自殺に持っていこうとする筋書きが丸見えなわけです。手口が荒っぽすぎます。彼らはお人好し日本国民なぞ簡単にだませると内心で愚弄している証拠です。
週刊新潮が、誰の指図で、松下スキャンダル記事を本人の不審死直後、タイミングよくスクープ掲載したのか、そのルーツを警視庁は辿るべきですが、おそらく、警視庁はしないでしょう、彼らを超越する勢力がこの事件に絡んでいるはずだからです。先の、戦場カメラウーマン・山本美香暗殺事件(注3)と同じです。
松下氏には失礼ですが、筆者が週刊新潮の編集者であったら、何者かが持ち込んだ松下氏の女性スキャンダル・ネタを記事にするのは躊躇するでしょう、なぜなら、松下氏を知っている国民は、同氏の地元・鹿児島県民くらいのものであり、松下氏は決して、全国的に知られた政治家ではありません。普通なら、このスクープ記事を載せても、国民はその週刊誌を買ってくれないのです。われら国民は、知らない人物の女性スキャンダルには興味ありませんから。
しかしながら、その松下氏が“いずれ自殺する”ことを週刊新潮編集者が薄々、知らされていたらどうでしょうか。筆者が編集者だったら、飛びつきます、確実にその週刊誌は売れるからです。
したがって、松下スキャンダルを大々的に取り上げた週刊新潮は“未必の故意”で、事前に、松下氏の自殺(?)を知っていたと考えるのが自然です。同週刊誌の今週号は俄然、注目され大売れするでしょう。彼らはウハウハです。
ところで、先日起きた戦場カメラウーマン・山本美香氏殺害事件に関しても、日本のマスコミは彼女が殺されるかもしれないことを事前に知っていて、彼女をシリアに派遣した疑惑が濃厚です(注4)。もしそうであれば、松下金融相不審死事件と山本美香さん殺害事件は両者、悪徳マスコミの“未必の故意”犯罪が成立するのではないかと疑われます。
わりと有名なブログのようだから、わざわざ転載するまでもないかもしれないが、「週刊新潮の未必の故意」という角度から松下金融相の死を取り上げたのは珍しいので、転載する。
とは言っても、マスコミなんてそんなもので、他人の尻にくっついて「お前は幾つ屁をひった、幾つ屁をひった」(©漱石)と数えてはそれを雑誌や新聞に書くのが商売のようなものだ。他人の死も「おいしい材料」の一つであり、それで雑誌が売れるなら、これから誰かが殺されるのを見殺しにするのもマスコミ人種としては普通だろう。
バルザックの『幻滅』の主人公の詩人(リュシアンと言ったか)が、マスコミの求めに応じて、今死んだばかりの恋人の死体の横で必死になってコミックソングを作るという情景が、マスコミの本質を象徴している。(これも大昔に読んだ記憶で書いているので、間違っているかもしれないが、まあ、いい加減なことばかり書くのは私の個性である、と承知してもらいたい。エヘン)
しかし、ネット上での意見の9割以上は、松下金融相の死は他殺である、というものだが、そういう状況に対して別に大声をあげるわけでもない。国民全体が国家犯罪に対して不感症になっている気配があって、そっちの方が、むしろ問題だろう。
警察も検察も犯行者やその指令者とグル、あるいはその手下なんだから、どうしようもない、というあきらめである。これほどに社会の根本的システムへの不信感が蔓延した時代、ニヒリズムに覆われた時代、というのは、私が生きている限りでは初めてのような気がする。国民の大多数は知ること、言うことだけで自己完結し、体を張った改革的行動には至らぬままで終わり、という時代だ。(それはもちろん、私も含めてだ)
つまり、人々が「偽りの現実」に気づいた結果は、革命に向わずに、あきらめとニヒリズムに向っている、というように私には見える。そういう時代には、体を張って行動する人間は、それだけでも評価される。
橋下の正体にしても、その本質的邪悪さは分かっていながら、面白いからあいつにこの社会をぶっ壊させろ、という人間が、特に若い人には多いのではないだろうか。
しかし、そういう投げやりな無責任さは、ロクな結果にはならない、と予言しておこう。モラルの無い人間を社会や組織の上位に置くことは、最悪の選択なのである。
政治家は悪人でも有能ならばいい、というのは大間違いであり、それは「悪人」の定義を矮小化した言説である。悪人とは、究極のエゴイストのことであり、そういう人間の行う政治が社会全体に奉仕するものになることはありえない。
簡単なたとえで言えば、石原慎太郎の『完全な遊戯』の強姦殺人犯の青年たちが、口がうまく、頭がいいとすれば、総理大臣や東京都知事や大阪市長にしてもいいか、ということである。
ついでに言えば、この種の人間は常に人口の3%は確実にいるもので、戦場において有能な殺し屋になるのも、そういう連中だそうである。全国のいじめ事件の中心にいるのは、たいていそういう連中だろう。生まれつきモラルの欠如した連中である。青山学院中学の例の事件の指令犯の女、実行犯の男たちもその3%だろう。あれなど、精神が腐り切っている、という点では滋賀県のいじめ自殺事件よりもひどい事件である。そして、その精神は石原慎太郎が若い頃に書いた『処刑の部屋』や『完全な遊戯』の登場人物たちによく似ているのである。すなわち、人間の皮をかぶったケダモノである。
(以下引用)
われら国民は、よほど、彼らになめられているのでしょう、だから、この事件を自殺に持っていこうとする筋書きが丸見えなわけです。手口が荒っぽすぎます。彼らはお人好し日本国民なぞ簡単にだませると内心で愚弄している証拠です。
週刊新潮が、誰の指図で、松下スキャンダル記事を本人の不審死直後、タイミングよくスクープ掲載したのか、そのルーツを警視庁は辿るべきですが、おそらく、警視庁はしないでしょう、彼らを超越する勢力がこの事件に絡んでいるはずだからです。先の、戦場カメラウーマン・山本美香暗殺事件(注3)と同じです。
松下氏には失礼ですが、筆者が週刊新潮の編集者であったら、何者かが持ち込んだ松下氏の女性スキャンダル・ネタを記事にするのは躊躇するでしょう、なぜなら、松下氏を知っている国民は、同氏の地元・鹿児島県民くらいのものであり、松下氏は決して、全国的に知られた政治家ではありません。普通なら、このスクープ記事を載せても、国民はその週刊誌を買ってくれないのです。われら国民は、知らない人物の女性スキャンダルには興味ありませんから。
しかしながら、その松下氏が“いずれ自殺する”ことを週刊新潮編集者が薄々、知らされていたらどうでしょうか。筆者が編集者だったら、飛びつきます、確実にその週刊誌は売れるからです。
したがって、松下スキャンダルを大々的に取り上げた週刊新潮は“未必の故意”で、事前に、松下氏の自殺(?)を知っていたと考えるのが自然です。同週刊誌の今週号は俄然、注目され大売れするでしょう。彼らはウハウハです。
ところで、先日起きた戦場カメラウーマン・山本美香氏殺害事件に関しても、日本のマスコミは彼女が殺されるかもしれないことを事前に知っていて、彼女をシリアに派遣した疑惑が濃厚です(注4)。もしそうであれば、松下金融相不審死事件と山本美香さん殺害事件は両者、悪徳マスコミの“未必の故意”犯罪が成立するのではないかと疑われます。
PR