「ヤフーニュース」から転載。
こういう記事は「社会的脅迫」と言うべきだろう。記事中にもある「同調圧力」も似た意味だが、「圧力」よりは「脅迫」であり、しかもマスコミを使って社会全体を脅迫しているのである。
私などのように社会の第一線から退いた人間ならこうした脅しに屈する必要も無いが、これから社会に出ようとする若者、社会の中で現に働いている人にはこの脅しは効く。そして、フェイスブックが社会全体を縛り付けていく。
フェイスブックの持つ「個人情報を自ら公開することの危険性」については、これまでも無数の人が警鐘を鳴らしており、一過性の流行で終わると私などは思っていたが、こうした「社会的脅迫」や「同調圧力」によって、むしろ社会全体に急速に広がり、浸透しているようだ。
自分の個人情報を知られてもデメリットなど感じない、むしろ自分を社会にアピールし、社会的地位を上昇させるのに役立つ、と思っている人も多いのだろう。いや、フェイスブック使用者の大半は多分そういう人間だ。そして、「社会が要求するから仕方なしに使っている」という人間が残りである。
フェイスブックでは、フェイスブック内の知人や読者の数が一種のステイタスになっているようだが、これも気味が悪い。
「人脈」という言葉の持つニュアンスから分かるように、知人や友人の数は個人資産の一種としてとらえられているようだ。私のような人間からすればそういう「打算的付き合い」は嫌悪感が先に立つのだが。それに、フェイスブック上の知り合いが何千人いようが、架空現実上の話でしかない。
まあ、現代は『サマーウォーズ』のように、架空現実と本物の現実の相互浸食が深まっていることは確かだが、生身の人間と架空現実上の「作られた人格」とはまったく別だろう。私の人格も当然、このブログで書かれたものと同一ではない。
フェイスブック上の知り合いも、生身の知り合いも同じレベルとフェイスブック利用者は思っているのかもしれないし、あるいは逆に、現実の友人や肉親以上に、そういう架空現実上の知り合いだからこそ、自分の秘密の内面を平気で吐露できる、ということもあるだろう。それに、お互い作ったキャラだから、生身の付き合いとは違って、それぞれの「本物の」欠点は表面化しないことも多いだろう。
そして、就職などに際しては、フェイスブックに書き込まれた「架空の人格」を根拠として会社や企業がその人物を採用する、というわけだ。
いわゆる「自分のキャラを作る」という行為は、現代ではむしろ当たり前の行為なのかもしれない。いや、大昔から人間は他者に対しては(たとえ家庭内でも)常に演技をしてきたのだが、その「仮面」や「役割演技」が近代ではどんどん意識的なものになっているのだろう。昔なら、「父親らしく」「上役らしく」「リーダーらしく」という、立場や地位についての役割演技であったのが、今では「好青年らしく」「有能らしく」という売り込み用の役割演技や仮面が中心的になってきており、その状況に対して、ま正直な人間、虚偽の嫌いな人間は死ぬほど嫌悪を感じているような気がする。
以上、私はフェイスブックなどやっていないので、事実に合わないことが多いとは思うが、直観的に見て、フェイスブックは人間の個人的部分にまで社会が入り込むものであるから、一部の、もともと内向的な人間を神経症的にする可能性が高いと私は思っている。四六時中、「人とつながっている」ことが好きな人間、露出狂の人間には向いたメディアではある。
しかし、犯罪に利用される可能性が高いのに、社会がそれを強制すること自体が犯罪的であるし、フェイスブックが人民監視や人民選別に利用されているのは確実だと思う。
ついでに言うと、引用した元記事では、その真ん中にフェイスブックのCM(フェイスブックを使いましょう)が堂々と掲載されていたのである。したがって、この記事の内容はフェイスブックに一歩を置いているようなニュアンスだが、実はフェイスブック推進CM記事でもあったのだ。
(以下引用)
フェイスブック未登録者は危ない」説に反発 「意地でもやらない!」
2012/9/ 8 10:00
ドイツの雑誌が書いた「フェイスブックをやっていない人は不審がられる」という記事が、イギリスのニュースサイトで紹介され、世界中で大きな反響を呼んでいる。
元記事によれば、アメリカやノルウェーの事件を始めとした「無差別大量殺人」の容疑者たちが、フェイスブックなどのSNSをほとんど利用していないことが、そういった見方のひとつの根拠とされている。
「同調圧力」に屈しない人材を探すべきでは
「Facebookを使うと、友達や同僚、同級生、仲間たちとつながりを深められます」
SNSはバーチャルなコミュニティとはいえ、現実社会の友人の多さなどが利用頻度に大きく関係する。心理学者は「友達がいない」ことが他の大量殺人犯にも共通しているとコメントしている。
その他にも、不適切な発言を繰り返したためにアカウントを削除されたのかもしれない、という見方もある。しかし、民間サービスのひとつに過ぎないフェイスブックが、ここまで注目されることには反発の声もある。
「そんなんで判断されてはたまったものではない」
「相互監視システムを作って楽しいのかなあ」
「そういうこと言うから、こっちは意地でもやりたくなくなるんだ」
とはいえ、利用者が増えるほど、自分は使っていないとは言いにくくなる。
「日本で例えるなら、高校生以上で携帯を持っていない奴見かけたとき、『そういう選択もありかな』と思えないのと一緒」
求人採用でも、フェイスブックに窓口を作る企業が急増しており、新卒採用をフェイスブックに限定する会社まで現れている。今の日本企業で求められているのは「同調圧力」に簡単に屈しない人材ではないか、という気もするのだが…。
人事担当者としては、協調性のあるフツーに感じのよい青年を採れれば安心なのかもしれないが、こういうご時勢にこそ「フェイスブック?使ってませんよ、意味ないですから」と堂々と答える人材を探してみてもいいのではないだろうか。
こういう記事は「社会的脅迫」と言うべきだろう。記事中にもある「同調圧力」も似た意味だが、「圧力」よりは「脅迫」であり、しかもマスコミを使って社会全体を脅迫しているのである。
私などのように社会の第一線から退いた人間ならこうした脅しに屈する必要も無いが、これから社会に出ようとする若者、社会の中で現に働いている人にはこの脅しは効く。そして、フェイスブックが社会全体を縛り付けていく。
フェイスブックの持つ「個人情報を自ら公開することの危険性」については、これまでも無数の人が警鐘を鳴らしており、一過性の流行で終わると私などは思っていたが、こうした「社会的脅迫」や「同調圧力」によって、むしろ社会全体に急速に広がり、浸透しているようだ。
自分の個人情報を知られてもデメリットなど感じない、むしろ自分を社会にアピールし、社会的地位を上昇させるのに役立つ、と思っている人も多いのだろう。いや、フェイスブック使用者の大半は多分そういう人間だ。そして、「社会が要求するから仕方なしに使っている」という人間が残りである。
フェイスブックでは、フェイスブック内の知人や読者の数が一種のステイタスになっているようだが、これも気味が悪い。
「人脈」という言葉の持つニュアンスから分かるように、知人や友人の数は個人資産の一種としてとらえられているようだ。私のような人間からすればそういう「打算的付き合い」は嫌悪感が先に立つのだが。それに、フェイスブック上の知り合いが何千人いようが、架空現実上の話でしかない。
まあ、現代は『サマーウォーズ』のように、架空現実と本物の現実の相互浸食が深まっていることは確かだが、生身の人間と架空現実上の「作られた人格」とはまったく別だろう。私の人格も当然、このブログで書かれたものと同一ではない。
フェイスブック上の知り合いも、生身の知り合いも同じレベルとフェイスブック利用者は思っているのかもしれないし、あるいは逆に、現実の友人や肉親以上に、そういう架空現実上の知り合いだからこそ、自分の秘密の内面を平気で吐露できる、ということもあるだろう。それに、お互い作ったキャラだから、生身の付き合いとは違って、それぞれの「本物の」欠点は表面化しないことも多いだろう。
そして、就職などに際しては、フェイスブックに書き込まれた「架空の人格」を根拠として会社や企業がその人物を採用する、というわけだ。
いわゆる「自分のキャラを作る」という行為は、現代ではむしろ当たり前の行為なのかもしれない。いや、大昔から人間は他者に対しては(たとえ家庭内でも)常に演技をしてきたのだが、その「仮面」や「役割演技」が近代ではどんどん意識的なものになっているのだろう。昔なら、「父親らしく」「上役らしく」「リーダーらしく」という、立場や地位についての役割演技であったのが、今では「好青年らしく」「有能らしく」という売り込み用の役割演技や仮面が中心的になってきており、その状況に対して、ま正直な人間、虚偽の嫌いな人間は死ぬほど嫌悪を感じているような気がする。
以上、私はフェイスブックなどやっていないので、事実に合わないことが多いとは思うが、直観的に見て、フェイスブックは人間の個人的部分にまで社会が入り込むものであるから、一部の、もともと内向的な人間を神経症的にする可能性が高いと私は思っている。四六時中、「人とつながっている」ことが好きな人間、露出狂の人間には向いたメディアではある。
しかし、犯罪に利用される可能性が高いのに、社会がそれを強制すること自体が犯罪的であるし、フェイスブックが人民監視や人民選別に利用されているのは確実だと思う。
ついでに言うと、引用した元記事では、その真ん中にフェイスブックのCM(フェイスブックを使いましょう)が堂々と掲載されていたのである。したがって、この記事の内容はフェイスブックに一歩を置いているようなニュアンスだが、実はフェイスブック推進CM記事でもあったのだ。
(以下引用)
フェイスブック未登録者は危ない」説に反発 「意地でもやらない!」
2012/9/ 8 10:00
ドイツの雑誌が書いた「フェイスブックをやっていない人は不審がられる」という記事が、イギリスのニュースサイトで紹介され、世界中で大きな反響を呼んでいる。
元記事によれば、アメリカやノルウェーの事件を始めとした「無差別大量殺人」の容疑者たちが、フェイスブックなどのSNSをほとんど利用していないことが、そういった見方のひとつの根拠とされている。
「同調圧力」に屈しない人材を探すべきでは
「Facebookを使うと、友達や同僚、同級生、仲間たちとつながりを深められます」
SNSはバーチャルなコミュニティとはいえ、現実社会の友人の多さなどが利用頻度に大きく関係する。心理学者は「友達がいない」ことが他の大量殺人犯にも共通しているとコメントしている。
その他にも、不適切な発言を繰り返したためにアカウントを削除されたのかもしれない、という見方もある。しかし、民間サービスのひとつに過ぎないフェイスブックが、ここまで注目されることには反発の声もある。
「そんなんで判断されてはたまったものではない」
「相互監視システムを作って楽しいのかなあ」
「そういうこと言うから、こっちは意地でもやりたくなくなるんだ」
とはいえ、利用者が増えるほど、自分は使っていないとは言いにくくなる。
「日本で例えるなら、高校生以上で携帯を持っていない奴見かけたとき、『そういう選択もありかな』と思えないのと一緒」
求人採用でも、フェイスブックに窓口を作る企業が急増しており、新卒採用をフェイスブックに限定する会社まで現れている。今の日本企業で求められているのは「同調圧力」に簡単に屈しない人材ではないか、という気もするのだが…。
人事担当者としては、協調性のあるフツーに感じのよい青年を採れれば安心なのかもしれないが、こういうご時勢にこそ「フェイスブック?使ってませんよ、意味ないですから」と堂々と答える人材を探してみてもいいのではないだろうか。
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