「ダイヤモンドオンライン」の香山リカのコラムを転載。
こういう「SNS疲れ」は、絶対に起こると私も思っていたし、実際起こっているようだ。それは当たり前の話で、SNSというのは、ある意味、映画「トゥルーマンショー」の世界、つまり、自分の日常生活の24時間の一挙一動がカメラで写され、世界に向けて放送されているのと似たようなものだからである。(私は映画「トゥルーマンショー」は見ていないが、大筋だけどこかで読んで知っているのである。)
要するに、「常に世界とつながっていて、気が休まる暇がない」ということだ。自分自身をカメラの前に露出することが好きな人間でもトイレや風呂やベッドの中までカメラに映し出されたら、たまったもんではないだろう。
SNSの場合は、自分の意思で世界とつながっているのだし、カメラで自分が映し出され、放映されることもない。写真をアップするのも自分の意思である。
そういう意味で、すべて「自分の意思」なのだが、実はそれは「無意識に強制された『自由意思』」ではないだろうか。
つまり、選択肢は与えられているし、選ぶのは本人の意思だ。しかし、そのメリットについては過大に宣伝され、デメリットはほとんど言われない。デメリットがあるにしても「本人の内向的な性格や、装置やシステムの特性をうまく使いこなせない、能力の欠如の問題だ」となっている。ならば、選ぶものはあらかじめ相手が決めているのである。手品師がカモに「好きなカードを選んでごらん」と言うのと同じで、選ぶカードは手品師が最初から決めたものになるということだ。
現代における選択というのは、実は、それ以外に選びようがない、という「あらかじめ決定済みの『自由な』選択」が大半だ。
たとえば、民主党党首選、自民党党首選で、国民が「選びたい」候補がいるだろうか。
ならば、民主党や自民党の党首に誰がなろうと、次期選挙で勝つのは、そのどちらでもない、「第三極」であるのは決まっている。そして、マスコミが小沢や「国民の生活が第一」についてまったく報道しない以上、その第三極が、マスコミが選べ選べと喚いている「日本維新の会」になるのはもはや決まったようなものである。こういうのを「仕組まれた選択」と言うのである。
SNSの話がとんだところに飛んだが、要するに若者のSNS疲れは、そういう「自分が何かに縛られている」という無意識の悲鳴でもあるのだ。
そして、それは言うまでもなく若者だけのことではない。だから日本全体に「イライラ感」が蔓延しているのである。
(以下引用)
SNSを自在に使いこなす若者が
SNSに傷つき悩んでいる
文脈は無視され単語だけが重視される時代に
先日、ダボス会議に出席した方と話す機会がありました。この方がそこで感じた「格差」は、「南北格差」でも「民族格差」でもなく、デジタルネイティブとそうでない人との「格差」だというのです。物心ついたときからネットを使いこなし、フェイスブックなどをベースに社会活動を行なっている若きリーダーたちには、話し方に同じような特徴がある、と指摘していました。
それは、発言が言い切り口調で、ひとつのセンテンスが短いということです。アメリカ在住か中東の人か、男性か女性か、年齢はいくつかなどにはあまり関係ないのだとか。
私も若い世代の人は、言葉を「文脈」ではなく「単語」で捉える傾向が強くなったような気がします。この傾向が広がっているのだとすれば、単語だけで文意を受け取られるという前提に立って発言しなければならない時代になっていくのかもしれません。
すると、次のような表現は許されなくなります。
「○○首相を馬鹿というのは言い過ぎですが、決して賢い首相ではないと思います」
全体の文意を解釈するのではなく、「馬鹿」という単語だけがつかまえられて「○○首相を馬鹿呼ばわりした」と断定されてしまう、といったことがツイッターなどではしばしば起こります。いくら「~というのは言い過ぎですがと言っています」と否定のニュアンスを説明しても、「つまりは馬鹿ということじゃないですか」と解釈されてしまうのです。
ニュアンスや行間に潜ませた意図を汲んでもらえなければ、電報のような最低限の単語を羅列した言葉しか通用しないことになります。上の表現を相手に誤解なく伝えるためには「○○首相はごく平均的な総理である」となってしまいます。
これでは、何も言っていないのと同じことにはならないでしょうか。
若者は「SNS疲れ」に悩んでいる
現代社会は情報があふれている一方、ツイッターをはじめとするソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)というシンプルに表現しなければならないメディアに若い人が集まっています。
ツイッターなどでは字数の制限があることから、余計な言葉は極限まで削ぎ落し、目に見える形で、しかも理解しやすい表現に整理しなければなりません。この意識が過剰に働くことが、単語重視の言い切り口調に向かっている原因なのかもしれません。しかし、私には微妙なニュアンスを伝える豊かな表現方法が劣化しているようにしか思えないのです。
その一方で、若い世代には異なる傾向も顕著になりつつあります。
デジタルネイティブの先頭集団を走る現在の大学生は、ツイッターやフェイスブックやブログなどを自在に使いこなしています。
ところが、彼らの内面は非常に複雑で揺れているようです。外に向けた表現とは裏腹で、はっきりと白黒つけられないような状態にいるように見えるのです。
最近、日経ビジネスで「SNS疲れ」という特集が組まれていました。内容としては企業がツイッターなどSNSを使いこなせないという切り口ですが、雑誌の記事とは違った意味合いで、大学生に「SNS疲れ」が現れています。
ここ数年、大学生に「若者の生きづらさの原因を述べよ」というテーマでレポートを書かせています。レポートを読むと、2人に1人はこう書いています。
「ツイッターやSNSにいちいち反応してしまう自分が苦しい」
これが現代の学生の「SNS疲れ」です。使いこなせないのではなく、身近になりすぎて逃れられなくなってしまったのです。
他者とのつながりを求める一方で対応に苦慮する
「苦しかったら、一度やめてみたら?」
学生にそう水を向けても、やめてしまったら自分の知らないところで勝手に悪い噂を流されてしまうのではないかという恐怖があるといいます。彼らは、見ても苦しく、見なくても苦しい自分に悩んでいるのです。
若い世代は、SNSを介して人とつながることに意味と喜びを見出しています。
しかし、その裏返しとして、自分がどこまでも監視されているような感覚に陥っているのかもしれません。
メールを誰かに送った場合、返事がないときは相手が忘れているか、何らかの意図があるのだろうと、ある程度の想像を働かせることができます。ところが、ツイッターでつぶやいて誰も反応してくれなかった場合、それをどう受け止めればいいのかわからないというのです。
必ずしも反応を返さなくていい「ゆるさ」がツイッターの特徴です。だから反応がないのか、あるいは意図的に無視されているのかがわからない。若者たちは、反応が返ってこない原因について妄想を膨らませ、考え込んでしまうのです。
現代の若い世代の姿を見ていると、単純明快で絞り込まれた発言をする一方で、こころの中まで合理的に割り切れていないように見えます。
もちろん、悩みが多いというのはどの時代も若者の傾向ではあります。しかし、それだけでは結論づけられないほど、彼らはソーシャルメディアとの向き合い方で葛藤しています。
ソーシャルメディアを自在に使いこなし、一見すると軽やかに他者とつながっているように見えますが、若者の実情は必ずしもそうとは言い切れないのかもしれません。
他人と自分の生活を比較して劣等感に苛まれる若者たち
大学生が書いたレポートには、ツイッターを見ていると劣等感が増幅されるという悩みも登場します。
ある学生は、ツイッターで誰かが書いているものを見て、その人の1日が組み立てられるといいます。朝早くから起き出し、大学に行って勉強し、授業が終わるとアルバイトに精を出し、夜は仲間と飲みに行って楽しく過ごす。それに比べて自分は朝も起きられなかった、大学にも行かなかった、アルバイトもせず、友だちとも遊ばなかった。今日も1日ダラダラ過ごしてしまったことに、ひどく落ち込んでしまうというのです。
そんな学生にはこう尋ねてみます。
「あなたは、ツイッターにすべて本当のことを書いているの?」
学生は、都合の悪いことは書いていないと答えます。ほかの人も同じではないでしょうか。他人の目を惹きそうなことを選んで書き、なかには事実を脚色して書いている人もいるかもしれません。滅多にないアクティブに行動した日のことだけを書いている可能性だってあるのです。
私たち大人は、そういう書き込みに対して「またぁ、カッコつけちゃって」と色眼鏡で見ることができます。しかし若者は、自分の場合は真実を書いていないのに、他人の記述は真実と思い込んで自分と比較して悩んでいるのです。
若者には、他者と自分を比較して他者と同じレベルになりたいという同化願望と、他者より少しでも良い状況でありたいという個性化願望があります。
そのせめぎ合いのなかで、「人と比較するなんてつまらない」「人は関係ない。俺は俺でいいんだ」と考えようとするほど、余計に人のことが気になってしまうという悪循環にはまりこんでいるのかもしれません。
状況も条件も立場も違うのですから、他人との生活ぶりを比較してもあまり意味はありません。アクティブに行動することがよくて、一日家でダラダラするのが悪いと、言い切れるものではありません。
ソーシャルメディアによって他者と四六時中つながっていることで、自分の生活を良く見せることを24時間意識しなければならない苦しみがあるような気がします。
こういう「SNS疲れ」は、絶対に起こると私も思っていたし、実際起こっているようだ。それは当たり前の話で、SNSというのは、ある意味、映画「トゥルーマンショー」の世界、つまり、自分の日常生活の24時間の一挙一動がカメラで写され、世界に向けて放送されているのと似たようなものだからである。(私は映画「トゥルーマンショー」は見ていないが、大筋だけどこかで読んで知っているのである。)
要するに、「常に世界とつながっていて、気が休まる暇がない」ということだ。自分自身をカメラの前に露出することが好きな人間でもトイレや風呂やベッドの中までカメラに映し出されたら、たまったもんではないだろう。
SNSの場合は、自分の意思で世界とつながっているのだし、カメラで自分が映し出され、放映されることもない。写真をアップするのも自分の意思である。
そういう意味で、すべて「自分の意思」なのだが、実はそれは「無意識に強制された『自由意思』」ではないだろうか。
つまり、選択肢は与えられているし、選ぶのは本人の意思だ。しかし、そのメリットについては過大に宣伝され、デメリットはほとんど言われない。デメリットがあるにしても「本人の内向的な性格や、装置やシステムの特性をうまく使いこなせない、能力の欠如の問題だ」となっている。ならば、選ぶものはあらかじめ相手が決めているのである。手品師がカモに「好きなカードを選んでごらん」と言うのと同じで、選ぶカードは手品師が最初から決めたものになるということだ。
現代における選択というのは、実は、それ以外に選びようがない、という「あらかじめ決定済みの『自由な』選択」が大半だ。
たとえば、民主党党首選、自民党党首選で、国民が「選びたい」候補がいるだろうか。
ならば、民主党や自民党の党首に誰がなろうと、次期選挙で勝つのは、そのどちらでもない、「第三極」であるのは決まっている。そして、マスコミが小沢や「国民の生活が第一」についてまったく報道しない以上、その第三極が、マスコミが選べ選べと喚いている「日本維新の会」になるのはもはや決まったようなものである。こういうのを「仕組まれた選択」と言うのである。
SNSの話がとんだところに飛んだが、要するに若者のSNS疲れは、そういう「自分が何かに縛られている」という無意識の悲鳴でもあるのだ。
そして、それは言うまでもなく若者だけのことではない。だから日本全体に「イライラ感」が蔓延しているのである。
(以下引用)
SNSを自在に使いこなす若者が
SNSに傷つき悩んでいる
文脈は無視され単語だけが重視される時代に
先日、ダボス会議に出席した方と話す機会がありました。この方がそこで感じた「格差」は、「南北格差」でも「民族格差」でもなく、デジタルネイティブとそうでない人との「格差」だというのです。物心ついたときからネットを使いこなし、フェイスブックなどをベースに社会活動を行なっている若きリーダーたちには、話し方に同じような特徴がある、と指摘していました。
それは、発言が言い切り口調で、ひとつのセンテンスが短いということです。アメリカ在住か中東の人か、男性か女性か、年齢はいくつかなどにはあまり関係ないのだとか。
私も若い世代の人は、言葉を「文脈」ではなく「単語」で捉える傾向が強くなったような気がします。この傾向が広がっているのだとすれば、単語だけで文意を受け取られるという前提に立って発言しなければならない時代になっていくのかもしれません。
すると、次のような表現は許されなくなります。
「○○首相を馬鹿というのは言い過ぎですが、決して賢い首相ではないと思います」
全体の文意を解釈するのではなく、「馬鹿」という単語だけがつかまえられて「○○首相を馬鹿呼ばわりした」と断定されてしまう、といったことがツイッターなどではしばしば起こります。いくら「~というのは言い過ぎですがと言っています」と否定のニュアンスを説明しても、「つまりは馬鹿ということじゃないですか」と解釈されてしまうのです。
ニュアンスや行間に潜ませた意図を汲んでもらえなければ、電報のような最低限の単語を羅列した言葉しか通用しないことになります。上の表現を相手に誤解なく伝えるためには「○○首相はごく平均的な総理である」となってしまいます。
これでは、何も言っていないのと同じことにはならないでしょうか。
若者は「SNS疲れ」に悩んでいる
現代社会は情報があふれている一方、ツイッターをはじめとするソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)というシンプルに表現しなければならないメディアに若い人が集まっています。
ツイッターなどでは字数の制限があることから、余計な言葉は極限まで削ぎ落し、目に見える形で、しかも理解しやすい表現に整理しなければなりません。この意識が過剰に働くことが、単語重視の言い切り口調に向かっている原因なのかもしれません。しかし、私には微妙なニュアンスを伝える豊かな表現方法が劣化しているようにしか思えないのです。
その一方で、若い世代には異なる傾向も顕著になりつつあります。
デジタルネイティブの先頭集団を走る現在の大学生は、ツイッターやフェイスブックやブログなどを自在に使いこなしています。
ところが、彼らの内面は非常に複雑で揺れているようです。外に向けた表現とは裏腹で、はっきりと白黒つけられないような状態にいるように見えるのです。
最近、日経ビジネスで「SNS疲れ」という特集が組まれていました。内容としては企業がツイッターなどSNSを使いこなせないという切り口ですが、雑誌の記事とは違った意味合いで、大学生に「SNS疲れ」が現れています。
ここ数年、大学生に「若者の生きづらさの原因を述べよ」というテーマでレポートを書かせています。レポートを読むと、2人に1人はこう書いています。
「ツイッターやSNSにいちいち反応してしまう自分が苦しい」
これが現代の学生の「SNS疲れ」です。使いこなせないのではなく、身近になりすぎて逃れられなくなってしまったのです。
他者とのつながりを求める一方で対応に苦慮する
「苦しかったら、一度やめてみたら?」
学生にそう水を向けても、やめてしまったら自分の知らないところで勝手に悪い噂を流されてしまうのではないかという恐怖があるといいます。彼らは、見ても苦しく、見なくても苦しい自分に悩んでいるのです。
若い世代は、SNSを介して人とつながることに意味と喜びを見出しています。
しかし、その裏返しとして、自分がどこまでも監視されているような感覚に陥っているのかもしれません。
メールを誰かに送った場合、返事がないときは相手が忘れているか、何らかの意図があるのだろうと、ある程度の想像を働かせることができます。ところが、ツイッターでつぶやいて誰も反応してくれなかった場合、それをどう受け止めればいいのかわからないというのです。
必ずしも反応を返さなくていい「ゆるさ」がツイッターの特徴です。だから反応がないのか、あるいは意図的に無視されているのかがわからない。若者たちは、反応が返ってこない原因について妄想を膨らませ、考え込んでしまうのです。
現代の若い世代の姿を見ていると、単純明快で絞り込まれた発言をする一方で、こころの中まで合理的に割り切れていないように見えます。
もちろん、悩みが多いというのはどの時代も若者の傾向ではあります。しかし、それだけでは結論づけられないほど、彼らはソーシャルメディアとの向き合い方で葛藤しています。
ソーシャルメディアを自在に使いこなし、一見すると軽やかに他者とつながっているように見えますが、若者の実情は必ずしもそうとは言い切れないのかもしれません。
他人と自分の生活を比較して劣等感に苛まれる若者たち
大学生が書いたレポートには、ツイッターを見ていると劣等感が増幅されるという悩みも登場します。
ある学生は、ツイッターで誰かが書いているものを見て、その人の1日が組み立てられるといいます。朝早くから起き出し、大学に行って勉強し、授業が終わるとアルバイトに精を出し、夜は仲間と飲みに行って楽しく過ごす。それに比べて自分は朝も起きられなかった、大学にも行かなかった、アルバイトもせず、友だちとも遊ばなかった。今日も1日ダラダラ過ごしてしまったことに、ひどく落ち込んでしまうというのです。
そんな学生にはこう尋ねてみます。
「あなたは、ツイッターにすべて本当のことを書いているの?」
学生は、都合の悪いことは書いていないと答えます。ほかの人も同じではないでしょうか。他人の目を惹きそうなことを選んで書き、なかには事実を脚色して書いている人もいるかもしれません。滅多にないアクティブに行動した日のことだけを書いている可能性だってあるのです。
私たち大人は、そういう書き込みに対して「またぁ、カッコつけちゃって」と色眼鏡で見ることができます。しかし若者は、自分の場合は真実を書いていないのに、他人の記述は真実と思い込んで自分と比較して悩んでいるのです。
若者には、他者と自分を比較して他者と同じレベルになりたいという同化願望と、他者より少しでも良い状況でありたいという個性化願望があります。
そのせめぎ合いのなかで、「人と比較するなんてつまらない」「人は関係ない。俺は俺でいいんだ」と考えようとするほど、余計に人のことが気になってしまうという悪循環にはまりこんでいるのかもしれません。
状況も条件も立場も違うのですから、他人との生活ぶりを比較してもあまり意味はありません。アクティブに行動することがよくて、一日家でダラダラするのが悪いと、言い切れるものではありません。
ソーシャルメディアによって他者と四六時中つながっていることで、自分の生活を良く見せることを24時間意識しなければならない苦しみがあるような気がします。
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