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少年騎士ミゼルの遍歴 6

第六章 旅の仲間

 翌日、まだ朝早くミゼルを旅籠に訪ねてきた男がいた。
「ミゼルさんですね。昨日は御前試合で大変な活躍だったそうで。実は、知り合いから、あなたがこのヤラベアムを出て旅をするという事を聞きましてね。その旅にご一緒させてもらえないかと思いまして。……私はゲイツと言って駆け出しの商人です。いずれはこの国一の、いや世界一の大金持ちになろうと思っています。旅をすれば金儲けの手掛かりが得られるんじゃないかと思いましてね。ええ、もちろん危険は承知の上です。けっして足手まといにはなりませんから、連れていってくれませんかね」
 男は立て板に水、という調子で話した。年は三十代半ばと見えたが、顔は若々しい。おしゃべりだが、悪い男ではなさそうだ。それに、一人旅よりは、仲間がいた方が、何かと便利だろう。ミゼルは、彼の申し出を承知した。
 ミゼルの承諾を得ると、ゲイツは、自分が旅の支度は整えようと言って、出ていった。
 その夜、さらにもう一人の思いがけない客があった。ミゼルと馬上槍試合の決勝で戦った相手の、青年騎士、美男のエルロイである。
「ミゼル殿は、お父上を捜して世界中を旅すると伺った。私もご一緒させて貰えないかな。あの伝説のマリス殿が如何なる人物かお会いしてみたいのだ。それに、私自身の武者修行にもなるだろう。ミゼル殿に敗れて、私は自分の未熟さをつくづく思い知ったのだ」
 エルロイは、真面目な口調で言った。エルロイほどの武芸者が仲間にいれば、こんな心強いことはない。ミゼルは喜んで、この申し出を承知した。
 その翌日、ミゼルとゲイツ、エルロイとその従者の少年アビエルの四人はテッサリアの町を出た。
 初夏の風が快く吹き、朝が早いせいか、日差しもまだ暑くない。
 テッサリアの町はずれの街道に来た時、ミゼルは道の側の大木の陰に腰を下ろしている一人の少女を見た。
「遅かったね。のんびりしているとアジバまで行かないうちに日が暮れちゃうよ。おっと、私の名前はロザリン。あんたたちとは旅の仲間になる運命さ。なぜそれがわかるかって?それは私が魔法使いだからだよ」
 ぺらぺらとまくしたてる、そのロザリンと名乗る小麦色の肌の可愛い少女は、ミゼルがテッサリアに着いた時に道でぶつかった娘だった。観察力の鋭い人間なら、肌色こそ違うが彼女によく似た顔のもう一人の人物を思い出すはずである。
「ほほう、なかなか可愛らしい娘さんだが、あんた、男四人の中に女一人で怖くないかね」
 ゲイツが笑いながら言った。
「男なんか怖くないね。あんた、ためしに私の体に触ってごらん」
 ゲイツはにやにやしながら、ロザリンの肩に手を置こうとした。その瞬間、彼は雷に打たれたように悲鳴を上げて飛び退いた。体中に電気が走ったのである。
「私に触ったら、誰でもこうなるのさ。でも、いい男なら別だけどね」
 ロザリンは、ちらっとエルロイを見たが、エルロイは気づかない様子である。多くの女たちから熱い視線を投げかけられることに慣れすぎているのだろう。
 ゲイツとアビエルは、男ばかりのむさくるしい旅に、妙齢の美女が加わったことが嬉しそうである。もちろん、それはミゼルも同じだが、ロザリンはエルロイ以外は目に入らない様子である。道々何かとエルロイに話しかけるが、エルロイは気のない返事をするだけだ。
 その頃、王宮ではエステル姫がいなくなった事に何人かが気づいていたが、エステル姫が無断でいなくなることはこれまでも何度かあったので、すぐに帰ってくるだろうと、あまり気に止められなかった。エステル姫を子供の頃から育てたお守り役の魔法使いジルードは、エステル姫が旅に出た事を知っていたが、姫から堅く口止めされていたので、その事はしばらく誰にも言わなかった。王宮が大騒ぎになったのは、それから三日ほどたってからだった。

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少年騎士ミゼルの遍歴 5

第五章 晩餐会

 ミゼルは御前試合の優勝者として王の晩餐会に招かれた。
「しかし、ミゼル殿ほどの腕前の者が今まで知られていなかったとはな。まあ、その若さでは無理もないことだが」
 サムル王は、つくづく感心したように言った。
「もしかして、ミゼル殿は誰か有名な騎士のご子息か」
「父は、マリスと言います。よくは知りませんが、有名な騎士だったようです」
 周囲からどよめきの声が上がった。
「何と、あのマリスの子だと! 強いのももっともじゃ」
 人々は、互いに言い合っている。
「父は、レハベアムとの戦いで虜になって、まだ生きていると聞きました。ぼくは、父を救うためにレハベアムに行きたいのですが、手段が無いので何とか王にお力添えを頂きたいのです」
「レハベアムに行くだと? それは無謀であろう。ヤラベアムの人間がレハベアムに入れば、すぐに殺されるだろうし、入れたところで、レハベアムの王カリオスを倒さぬかぎり、父を救うことはできまい。そのカリオスは人間の力では倒せぬ魔力を持っておる。王者の剣、破邪の盾、神の鎧兜の三つの武器を身につけた者でないかぎり奴は倒せぬ。その三つの武器は、それぞれ三つの国に分かれて置かれているのじゃ。つまり、お前は世界中を回って三つの武器を手に入れるしかないのじゃよ」
「三つの国とは?」
「このヤラベアムの南、砂漠の果ての火の国アドラム。アドラムの西、海を越えた彼方の風の島ヘブロン。ヘブロンの南西、レハベアムの南にある、密林の島エタムの三つじゃ。砂漠にも、海にもさまざまな怪物や亡霊がうようよいると言う。これまで、三つの聖なる武器を求めてこのヤラベアムの外に出た騎士たちで、生きて戻ってきた者はいない。あきらめたほうがいいぞ」
「父がレハベアムに殺されずにいるのはなぜか、王は御存知ですか?」
「これは噂にすぎぬが、この前の戦いでレハベアムに行く途中、マリスたちは風の島ヘブロンに立ち寄ったそうだ。そこで、何かの力によって彼は不死の体になったという話だ。だから、彼の敵たちも、彼を殺すことはできず、牢獄につないであるだけだという」
 ミゼルの顔が明るく輝いた。やはり、父は生きていたのだ。しかも、不死の体ならば、自分が行くまで必ず生きているだろうから、何とかしてレハベアムに行き着きさえすればいいのである。
 しかし、ミゼルの有頂天の気分はここまでで、晩餐会の席から退出して、馬を預けてあった王宮の馬小屋に行くと、愛馬ゼフィルは誰かに盗まれてしまっていたのであった。馬番は、ミゼルの代理の者が受け取っていったと言うだけで、押し問答をしても、もはやどうしようもなかった

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少年騎士ミゼルの遍歴 4

第四章 御前試合

 翌日、朝食の席でミゼルは宿屋の主人に話しかけられた。
「あんたも御前試合に出るのかね」
「御前試合があるんですか。いつです」
「今日だよ。正午から王宮の広場でな」
 テッサリアまで来たのはいいが、その先、どうやってレハベアムまで行けばいいのかがわからなかったミゼルは、御前試合に優勝すれば何かの手蔓が得られるのではないかと考えた。懐の寂しいミゼルにとって、賞金として一万金が出るというのも魅力だ。一万金といえば、庶民が一生裕福に暮らせるくらいの金である。旅の費用には十分だろう。
 早めに昼飯を済ませてミゼルが王宮に行った時には、王宮前には早くも腕自慢の騎士たちが集まっていた。見るからに強そうな巨漢もいれば、痩せて貧相な騎士もいる。
「あなたも弓ですか。そうでしょうな。弓なら、的が相手だからこちらが怪我をする心配はないし、うまくいけば二千金ですからな。槍の一万金には及ばないが、それでも大した金だ」
 その貧相な騎士が、ミゼルの肩の弓を見て、ミゼルに話し掛けてきた。
「いいえ、僕は騎馬の槍試合に出ます。王にお目通りできるのは騎馬槍試合の優勝者だけと聞いていますから」
「何と命知らずな。もっとも危険なのが、騎馬槍試合ですぞ。まだお若いのに」
隣で話を聞いていたもう一人の騎士が口を出した。
「騎馬試合はやめたほうがいい。優勝は多分ノルランドのエルロイか、エステル姫だ。エステル姫は城の武芸師範以上に強いというし、エルロイは、あの伝説のマリスの再来かと言われている」
「さよう、マリスの強さはけた外れでしたな。十年続けて騎馬試合と剣の両部門で優勝ですからな」
 貧相な騎士の言葉に、側にいた髭面の大男が三人をじろりと睨んで割り込んできた。
「マリスが強いだと。笑わせるな。レハベアムとの戦いでおめおめと虜になった男ではないか。所詮、道場剣法よ。実戦では役立たぬ。わしは、アドラムとの三度の戦いに生き延びてきた男だ。その間に上げた首級は数知れず。アルハバのジャンゴとはわしの事だ」
周りで、騎士たちが「アルハバのジャンゴって知っていますか」「いや、知りませんな」「しかし、いかにも強そうだ」「やはり、ただ者ではないのでしょうな」などとひそひそ声で話している。
王宮の門が開いて、美々しい格好の騎士が現れ、開場を告げた。
「これより御前武芸試合を始める。出場する者は中に入るがよい。賞金は、知ってのとおり、槍が一万金、剣が五千金、弓が二千金だ。但し、命の保証はしないぞ」
 腕自慢の騎士たちは、武者震いをしながらドヤドヤと王宮に入っていった。

 弓の試合、剣の試合が次々と行われ、弓ではカブラのランドールという無名の騎士が優勝し、剣の試合では、エステル姫が、噂通りの技量で優勝した。
 そして、御前試合の華である、騎馬槍試合になった。ここでは、弓と剣の試合には出ずに満を持していたノルランドのエルロイが圧倒的な強さを見せて勝ち上がったが、彼と決勝戦で戦うことになったのは、前評判には全く上がっていなかった男であった。すなわち、ミゼルである。ミゼルは一回戦でアルハバのジャンゴを簡単に破り、二回戦でエステル姫をも破って決勝に進出したのであった。
 王の側に戻ったエステル姫は、悔しそうな顔で、
「あのミゼルという騎士の乗っている馬が欲しい!」
と言った。
「馬のせいで負けたと言いたげだな」
 サムル王は笑って愛娘を見た。彼は、長男のローランよりも、このお転婆の娘を可愛がっていた。エステル姫は、色白の可愛らしい顔の唇を尖らせて言う。
「もちろんよ。あの馬は、天馬だわ。あんな動きのできる馬は初めて見た」
「馬よりも、乗り手の技量の差だろう」
 側にいたローランが、妹をからかう。
「まあ、静かにしろ。いよいよエルロイと、あの若者の戦いだ」
 サムル王の言葉に、二人は口を閉じた。
 ミゼルとエルロイは、およそ三十歩の距離で馬を向かい合わせて立った。白昼の光の中で、エルロイの漆黒の馬に白銀の鎧が良く似合っていて美しい。宮中の貴婦人たちは、この有名な美貌の騎士に声援を送っている。一方のミゼルの実用一点張りの無骨な鎧は、見栄えがしない。葦毛馬だが、まだ若馬で灰色の毛並みのゼフィルも、毛色はけっして美しくはない。
 合図と同時に、二人は相手を目がけて突進する。
 後世の馬上槍試合とは違って、二頭の馬がすれ違うような柵などない。遮る物の無い広い空間で、馬を自在に操り、相手を槍で突くか殴るかして、馬から叩き落とすのである。
 二人は秘術を尽くして渡り合った。ミゼルは馬上での槍の操作には不慣れだったが、最初の二試合で既にコツはつかんでいたし、愛馬ゼフィルは彼と一心同体だった。ゼフィルの動きは、馬というよりは狼か虎の動きである。普通の馬では考えられないような横へのジャンプに、エルロイは幻惑された。その一瞬の隙を逃さず、ミゼルの槍がエルロイの鎧の胴に入った。エルロイはその衝撃で馬から浮き、間髪を容れないミゼルの第二撃で叩き落とされた。
 場内はどよめいた。 
わずか十六歳の無名の少年が、名誉ある御前馬上試合の優勝者となったのであった。

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少年騎士ミゼルの遍歴 3

第三章 テッサリア

 翌日、ミゼルはシゼルに別れを告げて旅立った。
 シゼルは、無邪気なミゼルが一人で旅ができるか、まだ危ぶんでいたが、ミゼルの意志は固かった。シゼルは、ミゼルに、家に秘蔵してあった騎士の鎧兜と剣と槍と盾を与え、ミゼルはそれらを他の荷物とともに馬の背中にくくりつけた。
 愛馬ゼフィルにまたがったミゼルの顔は、まだ少年の顔だったが、その目には、目標を持つ者に特有の力強い輝きがあった。
「気をつけていくんだぞ。旅の間、わしの事は気にするな。さらばじゃ」
 家の前で手を振るシゼルに片手を上げて応え、ゼフィルを歩ませていくと、やがて懐かしい我が家は楡の木の生えた丘の向こうに見えなくなった。
 
ミゼルがテッサリアに着いたのは、それから二週間後だった。テッサリアはヤラベアムの首都で、人口はおよそ一万人。当時としては巨大な町だ。町の中心には王宮があり、その東西に離宮と神殿がある。王宮の正面は大広場になっていて市場がある。民家はその市場の裏側全体に密集している。
 ミゼルは物売りの声などで姦しいテッサリアの賑わいに圧倒されながら愛馬ゼフィルを歩ませた。
 そのゼフィルに目をつけて、じっと眺めているのは、口髭を生やした愛嬌のある浅黒い頑丈な顔に大きな口をし、しなやかでバネの利いた体つきの青年である。彼は民家の壁にもたれて口髭をひねりながら独り言を言った。
「いい馬だなあ。こりゃあ、売ったら五千金は下らねえな」
 その側にいる、十五歳くらいで険のある顔の美少年が、青年の脇腹を指でつつく。
「しっ。壁に耳ありですよ、ピオ」
「なあに、この町に、俺を捕まえられるような気の利いた人間はいやしねえよ。おい、ジャコモ、お前、あの田舎者のガキの後をつけて、どこの宿に泊まるか調べておけ。俺は他の仕事をしてからペネローペの店で飲んでるからな」
 どうやら泥棒らしいこの二人の、そんな会話も知らずに、周りをきょろきょろ眺めていたミゼルは、馬を人にぶつけてしまった。
「いてえな。どこ見て歩いてんだよ、このトーヘンボク」
「あっ、済みません」
 ミゼルは慌てて謝った。相手は十七、八歳の少女である。小麦色の肌をした、なかなかの美少女だ。しかし、口は悪い。
「おや、あんた、もしかして東から来たのかい」
「ええ、そうですね。テッサリアからは東になります」
「そうかい。あんたとはまた会うことになりそうだ」
 少女は、先ほどミゼルにぶつかる前に目で追っていた美しい青年騎士の姿を探して人混みの中に消えた。つまり、この少女がミゼルの馬にぶつかったのは、本当は少女がよそ見をしていたからなのであるが、ミゼルはそれには気づかなかった。
 ミゼルは市場の外れに安そうな木賃宿を探して、そこに泊まることにした。ミゼルの後を追っていたジャコモは、それを確認して、酒場に向かった。
 ジャコモを迎えたピオは、すでに酩酊している様子である。
「おう、ジャコモ、おめえ知ってるか。明日の武芸大会にエステル姫も出るそうだ。こりゃあ、俺も出ていいとこ見せなきゃあな。うまくいきゃあ、姫の婿にでもなれんともかぎらん」
「そんなお伽噺みたいな話は、あり得ませんよ。で、あの田舎者の馬はどうするんです」
「馬なんぞ後回しだ。優勝すりゃあ槍で一万金、弓でも二千金だぞ。さあ、お前も飲め。前祝いだ」

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少年騎士ミゼルの遍歴 2

第二章 父マリスの行方

ミゼルが家に着いた時、窓から明かりが漏れていた。いつもなら、日が沈む時が、ミゼルと祖父シゼルの寝る時である。ミゼルの帰りが遅いのを心配して、シゼルが蝋燭をつけて待っているのだろう。
ミゼルがかついでいた狼を床に下ろすと、シゼルはそれを興味深げに見守った。
「狼か。……ほう、四匹も倒したのか。怪我は無かったか」
「いいえ」
「羊は」
「大丈夫です」
 二人はほとんど口をきくこともなく、黙々とパンとチーズだけの食事をした。用が無ければ話などしないのは、いつものことだ。この地方の男たちはたいてい無口である。しかし、今日のシゼルの沈黙は、いつもと少し違うようにミゼルには思われた。
 食事の後、シゼルは決心したようにミゼルに声を掛けた。
「ミゼル、お前に話したいことがある。マリス、つまりお前の父親のことだ」
 シゼルの話したことは、ミゼルには意外なことだった。ミゼルの父のマリスは生きているばかりでなく、その居場所も分かっているというのである。
「本当なら、わしがすぐにでも探しに行かねばならなかった。しかし、お前の母が病気になり、幼いお前を残して亡くなったため、わしがお前を育てねばならなかったのだ」
 シゼルは言葉を切り、長い歳月を思い返すように目を閉じた。
「今日、お前が一人で四匹の狼を倒したことで、わしは幼いと思っていたお前がいつの間にか十分に成長していたことに気がついたのだ。お前が大きくなったら、わしはマリスを探して旅に出ようと思っていた。しかし、わしは年老いた。お前は若くて体も強い。マリスを探す旅には、お前の方が向いているかもしれん。どうだ、行ってみるか」
「行きます。で、父上はどこにいるのですか」
「レハベアムだ。十一年前の戦いの時に捕らえられたまま、レハベアムの牢獄にいるということだ。なぜ、殺されもせず十一年も牢獄にいるのかはわからん。もちろん、レハベアムの牢獄からマリスを救い出すのは不可能に近いが、マリスを一生牢獄に入れておくことは、わしには耐えられんのだ。ミゼル、どうかマリスを救いに行ってくれないか」
 シゼルの訴えるような目から涙がこぼれた。
「大丈夫です。ぼくが父上をきっと救い出します」
ミゼルは明るい声で断言した。父が生きていたという事実に興奮し、彼は胸に希望の火が燃えるのを感じていた。



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少年騎士ミゼルの遍歴 1

第一章 草原

初夏の、夕暮れに近い空が大きく広がっている。時折吹いてくる風が、ミゼルのまだ少年らしい顔を撫でていく。羊飼いのミゼルは、枝を大きく広げた楡の木陰に腰を下ろし、羊たちをぼんやりと眺めていた。ミゼルは十六歳。祖父と二人暮らしで生きてきて、世間をほとんど知らない。父は、彼が五歳の時、レハベアムとの戦いに出て行方不明になり、その後すぐに母も病気で亡くなった。だから、両親の記憶はもはやほとんど無いが、幼い頃自分を優しく抱きしめてくれた腕や胸の感触は、今でも心のどこかに残っている気がする。暖かな夕陽を受け、黄色に輝く空の雲が、ミゼルをそんな感傷に誘っていた。
一頭の羊が急に頭を高く上げた。ミゼルは跳ね起きた。ミゼルが羊たちを呼び集める鋭い口笛の音が響くのと同時に、草原の彼方に小さな土埃が上がり、それが見る見るうちに四匹の疾走する狼の姿になってきた。
ミゼルは弓を構えて、狼を迎え撃つ態勢をとった。狼の速さとミゼルが矢をつがえて射る速さを考えると、弓で倒せるのは二匹か三匹までだろう。二匹の狼と、杖で戦うのは、至難の業である。
狼との間が百歩の距離になった。ミゼルが確実に射ることのできる距離だ。ミゼルは最初の矢を放った。矢は一条の光となって、彼方の狼に向かって飛び、見事に命中した。先頭の狼が転倒する。この時には、残りの狼との距離は、もはや六十歩である。二番目の矢も、次の狼を射倒した。続く二匹は、早くもミゼルの目前に迫っている。しかし、ミゼルは慌てず、三本目の矢を弓につがえて、至近距離から三匹目の狼を射殺した。と同時に、ミゼルは素早い動作で弓を捨て、地面に置いてあった杖を拾って、ミゼルに襲いかかった最後の狼に、下から杖を跳ね上げて打撃を与えた。杖は狼の喉首に当たったが、それほどのダメージではない。地上に降り立った狼は、一瞬の動作で地面を蹴って再びミゼルに噛みつこうとした。その鼻面に、ミゼルの杖が振り下ろされる。杖の頭部は、瘤状になっており、棍棒のような威力がある。
鼻面を殴られた狼は、悲鳴を上げて飛び下がったが、今度は逆にミゼルが狼に向かって進んだ。二度、三度と振り下ろされる杖の打撃で、狼は地面に倒れ、口から血を吹いて体を痙攣させていたが、やがて息絶えた。
ミゼルは額の汗を腕で拭って、狼たちの死体を眺めた。目の前に二匹、少し離れた所に一匹、そして遠くにもう一匹。
羊たちは興奮してしきりに鳴いていたが、その興奮も次第におさまっていった。
吹いてくる風が、戦いの火照りを冷やし、鎮めていく。
ミゼルは、やがて虚脱状態から気を取り戻した。
黄昏が近づいている。急がないと、死臭を嗅ぎつけて、他の狼や山犬がやってくるだろう。
ミゼルは一番遠くの狼の死体に向かって歩き出した。

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天国の鍵71

その七十一 話は終わるが、問題は終わらない

「そうよ。だからうちの子供の名前はそれにあやかってオズモンドなの」
マチルダの言葉に、ハンスとアリーナは顔を見合わせました。いったいどうして、国を救った英雄と、国王の妹が、こんな片田舎で、だれからも知られず暮らしているのでしょうか。ロレンゾのさっきの話だけではまだまだよくわかりません。
「いずれその話は、『軍神マルス』という本になるから、それまで待ちなさい。お説教の多い『魔法使いハンス』とはちがって、血湧き肉踊る冒険の本じゃよ」
 ロレンゾはみょうな事を言ってます。なにかの宣伝でしょうか。
「それで、ハンス、この旅はお前の役に立ったかな」
ザラストがハンスに言いました。
「はい、とても勉強になりました。でも、正直言って、善と悪の意味についてはまだよくわかりません」
「それでいい。大事なのは、自分が正しいと思う事を行い、まちがったらすぐに改めて、二度と同じあやまちをしないことだ。そして、先人たちの言葉から多くを学ぶことだ。そうすれば、魔法など使わなくても、人間は自分を幸福にできるのだ。お前は、これからはふつうの人間として生きるがいい」
 ハンスはちょっと考えてしまいました。だって、苦労して身に付けた魔法を捨てるなんてもったいないですからね。
「魔法の力を捨てろとは言っていない。なるべく使うな、ということだ。魔法使いよりも賢者になるがよい。しかし、頭脳を過信して、自然をわすれてはならんぞ。昔、ファウストという博士がいて、あらゆるものを知り尽くして、それでも少しも幸福にはなれなかったと嘆いたことがある。真の賢者は、知識ではなく、知恵を求めるものだ。お前はすでに賢者の見習いにはなった。いまさら、自らの欲望だけのために魔力を求める愚かな魔法使いになってはならん」
「ザラストにしてはいい説教だ。わしも、魔法などほとんど忘れてしまった」
とロレンゾが口をはさみました。だから自分は真の賢者だ、と言いたいのでしょうか。

 さて、これで魔法使いハンスの話はおしまいです。アリーナはマルスの家で好きな動物たちと遊んだり、子供の子守りをしたりしながら楽しく暮らしています。ハンスもマルスの家で農作業の手伝いをしていますが、そのうちまたソクラトンやブッダルタのところに行って、七つの噴水のある賢者の庭をさがそうと思っています。
 もうすぐグリセリードの戦争も終わるでしょう。ピエールやヤクシーやヴァルミラが無事でいればいいのですが、たとえ戦争が終わっても、人間が自分たちのちっぽけな欲望でこの世を動かそうとするかぎり、地上の天国が現れるのは、まだまだ先のことになりそうです。でも、それを作るのは、もしかしたらあなたかもしれません。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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