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風の中の鳥 1

プロローグ

 世界の大半がまだ森林に覆われ、人々がまだ神と悪魔、天国と地獄を信じていた時代。人間の世界は小さかった。
海を渡る手段として大型帆船はまだ存在せず、羅針盤も無い状態では、海を隔てた大陸と大陸との交通はほとんど無く、地続きのヨーロッパとアジアの間の交通さえも、アレクサンダーの東征以来ほとんど無かった。まだ、ヨーロッパの王族貴族が、坊主どもの口車に乗って、十字軍遠征などという狂気の侵略行為を行う以前のことである。
 森や山は静寂に包まれ、湖は水晶のように透き通り、谷川のせせらぎは清く美しかったが、自然は人間にとって後世のような賛美の対象ではなく、畏怖の対象であった。地表を覆う膨大な森林の木の根や岩石は農耕を拒絶し、人々は無限に広がる土地の中のほんの僅かな開墾地で耕作し、集落を作って生活していた。自然の災害は巨大であり、土地からの収穫は少なく、人々は絶えず飢えに直面しながら、自らのその状態を運命として大人しく受け入れて暮らしていたのであった。
 そして、自然の中でも、人間の世界でも弱肉強食の暴力がすべてを支配していた。
 人間の歴史が始まった頃、彼らの中で狡知と暴力の才能に恵まれた者たちは、徒党を組んで他の人々から物を奪い、人々を屈従させ、支配していったが、やがてこうした山賊野盗の末裔たちは、自分たちを王侯貴族と称し始めた。彼らは王侯貴族と庶民を区別し、生まれによる階級を作って、武器を持たない庶民からあらゆる物を取り上げ、税金や年貢を要求した。彼らはまた、自らの出自について様々な伝説を作り、自分たちは神に選ばれ、あるいはその優れた能力や人格のために人々の信託を受けて国を治めている階級なのだと人々に信じ込ませた。
 長い時間のうちには、嘘も歴史になる。
 こうして、世界には王侯貴族を主人公とした勇士や王者の物語が生まれた。名もない庶民たちも、自分たちとは一生縁のないそれらのロマンスに憧れ、長い冬の間、暖炉の炎の傍で古老や物知りの語る「高潔な」勇者たちの冒険談に聞き入った。
 しかし、庶民の中でも明晰な頭脳を持った者は、この世の身分制度の成り立ちについて、真実を見抜いていた。要するに、暴力によってこれらの階級は作られ、維持されているに過ぎないのだと。とは言っても、一度定まった身分制度の枠を越えてのし上がるのは、容易な事ではない。この世の理不尽さに立ち向かう気概の無い、多くの平凡な庶民は、自らの生まれた身分を運命として受け入れ、それに従うだけであった。だが、まだ法の無かったこの時代には、いや、いつの時代でも実はそうではあるが、自らを何者と定義づけるかで、自分が何者であるかは決まったのであった。
 これは、そうした時代に生まれ、天与の勇気と幸運に恵まれた一人の若者と、それを取り巻く人々の物語である。

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軍神マルス第二部 50

第五十章 時の流れの中で

「マルスと私にとって、この二年間の記憶ほど、楽しく大事なものは無いのよ。それをマルスが自分から忘れたいなんて、そんな、ひどいわ」
マチルダは泣き崩れた。
 トリスターナは青ざめていた。もう、マルスの秘密を自分だけの胸に置いてはおけない。
 トリスターナは、ロレンゾを片隅に引っ張って行き、マルスが知らずに父ジルベールを殺していた事を告げた。
 ロレンゾは大きくうなずいた。
「それじゃな。おそらく、悪魔にその点を突かれて、心を吸い取られてしまったんじゃ。最後の、アロンゾの鍵を知らせる言葉が、記憶のかすかな痕跡だったのじゃろうな。可哀想に」
ロレンゾは涙を拭った。
「国民全体の幸福の代償に、マルスは自分の最も楽しく生き生きとした二年間の記憶を失ったんじゃ。立派な国王じゃ。だが、もはや国王としての仕事はできまい。今のあれは、まったくの子供じゃからの」

 マルスは病気を理由に国王の座を下り、それまで宰相として政治を見ていたオズモンドが国王となった。
 トリスターナはアンドレと結婚してアルカードに行き、ピエールはヤクシーと共にパーリに向かい、パーリをボワロンから独立させる運動に手を貸して成功させた。
 ヴァルミラは、ピエールたちに協力した後、やがてグリセリードに起こった内乱に身を投じ、反乱軍の首領となってグリセリードからロドリーゴの一党を追い出して、シルヴィアナを退位させた。そして、グリセリードの女王の座に就いたが、誰とも結婚せず、一生を処女王として過ごしたのであった。
 こうしてアスカルファン、レント、グリセリードの友好関係は数百年続くことになったのであるが、その立役者であるマルスは、自分がそんな重大な役割を果たした事も知らず、故郷の山でマチルダと共に農牧業を営んで、のんびりと過ごしていた。
 いきなり十八歳になっていた事への戸惑いも、いきなりマチルダのような美しい奥さんが出来ていた事もマルスには夢のような事であったが、中でも、たまに町に出た時に、時々見も知らぬ他人が自分の顔を見て、土下座して拝むことには途方に暮れた。
 マルスには、なぜ人々が自分を「軍神マルス様」と呼ぶのか、さっぱり分からなかったからである。
 マチルダに聞いても、さあ、と笑うばかりである。
 だが、そんな奇妙な出来事はどうであれ、マチルダと四人の子供に恵まれて、平凡だが平和な暮らしをする事にマルスはまったく不満はなかった。
 マルスとの間に出来た子供にマチルダはオズモンド、ヴァルミラ、ピエール、ヤクシーとそれぞれ名づけた。
 何でそんな変な名前にするんだと聞いても、マチルダは笑って答えない。オズモンドやピエールはともかく、ヴァルミラやヤクシーなんて妙な名前ではないか。
 マルスがもう一つ疑問に思った事は、ロレンゾと名乗る爺さんが勝手に自分の家に居候している事である。
「わしはお前らの祖父みたいなもんじゃからな」
とロレンゾは言うし、マチルダもそれを快く受け入れているので、マルスもそれでいいんだろうと思っていたが、一つ気に入らない事があった。
「あの、お前のお祖父さんだがね」
「ロレンゾの事? ロレンゾがどうかして」
「子守りをしてくれるのはいいんだが、子供に妙な話をするんだ。まあ、罪の無いほら話か御伽噺だろうから、気にしなきゃあいいんだろうが、子供の頭に悪い影響を与えるんじゃないかと思ってね」
「どんな話?」
「戦の話や旅の話さ。それに出てくる主人公ときたら、一人で千人もの敵を弓矢で倒すなんて言ってるんだぜ」
「嘘みたいな話ね」
「嘘に決まってるさ。それに、僕は戦の話は嫌いだ。あんなのを聞いて育った子供がどうなるか知りたいもんだよ」
「大丈夫よ。子供だって、御伽噺と思って聞いているわ。ねえ、ヴァルミラちゃん」
「あら、私本当の話だって思ってたわ」

ピエールとオズモンドがオモチャの剣でちゃんばらをしている。
「あっ、お父さんだ。叱られるぞ」
マルスが外に出てきたのを見てオズモンドが言った。マルスは二人に笑顔で手を振って農作業に出かける。
「お父さんはなんでちゃんばらや戦の話が嫌いなのかな」 
オズモンドがロレンゾに聞いた。すっかり年老いてぼけてきたロレンゾは、「うん?」と聞き返す。そして笑って言った。
「お前のお父さんは平和主義者なのじゃよ」
「へいわしゅぎしゃって、弱虫って事?」
ピエールが聞き返す。
「誰よりも強くて優しい人間のことさ」



「軍神マルス」 完

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軍神マルス第二部 49

第四十九章 過去への逃避

ロレンゾはマルスの手の指を見た。ダイモンの指輪はまだその薬指に嵌っていた。
ヤクシーとヴァルミラは、今、巨大な竜と戦っていた。悪魔のもう一つの姿である。だが、二人とも、竜の爪や尾に打たれ、切り裂かれてあちこち血を流している。二人の体力は、もはや限界だろう。
ロレンゾはマルスの指から指輪を抜いて、自分の指に嵌めた。
「ロレンゾ……ピラミッド……」
マルスの口から切れ切れな言葉が洩れた。
「……杖……」
はっとロレンゾは自分の持っていた杖を見た。ピラミッドでマルスの見つけた杖である。
その黄金の握りをロレンゾは強く回した。握りが取れて、杖の上の部分に空洞が現れた。その中に、一枚の羊皮紙が入っている。
 古代パーリ語で書かれたそれを、今はロレンゾも読むことができた。
「アロンゾの鍵、それは神々よりも強き者、その名はクロキアス」
ロレンゾは指輪を悪魔に向けて声高らかに呪文を唱えた。あの欠けていた一語の所にクロキアスの名を入れて。
 悪魔はぎゃあっと叫び声を上げ、姿を消した。

気が付くと、四人は日照りで水の無くなっている川の川底に気を失って倒れていた。
空から落ちてきた水滴が、四人の顔に当たり、マルスを除く三人は目を覚ました。
空は真っ暗に曇り、今雨が降りだそうとしていた。
「雨だ。悪魔の呪いは解けたぞ。アスカルファンは救われた!」
ロレンゾは飛び起きて、神に感謝の祈りを捧げた。
ヤクシーとヴァルミラも抱き合って喜んだ。
 やがて降りだした雨は、これまでの日照りを補うかのように、豪雨となってあらゆる物を洗い流した。川底にはあっという間に濁流が流れ出す。
 
 ロレンゾに担がれて宮廷に帰ったマルスは、なおも意識を取り戻さなかった。
 マチルダはマルスに取りすがって泣き崩れた。もちろん、マルスが悪魔に見せられた映像は悪魔の作った幻覚であり、マチルダが浮気などするわけはないのである。
 日照りは終わり、作物は命を甦らせた。
 秋の収穫は、例年よりは少なかったものの、秋以降に作られた野菜類は豊作で、今年の冬はなんとか越せそうであった。
 国民の心配をよそに、マルスは眠り続けた。
 眠りながら、マルスは夢を見ていた。それは、故郷の山の夢である。
 母親のマーサがマルスを呼ぶ。食事が出来た知らせである。父親のギルが猟から帰ってくる姿を見つけてマルスは駆け寄る。ギルは髭面のいかつい顔にやさしい笑みを浮かべてマルスを抱き上げる。その二人を見ているマーサも微笑んでいる。

 やがてマルスは目を覚ました。およそ半年間、マルスは眠り続けていたのである。目を覚ましたマルスは、ベッドの上の自分にもたれかかるように眠っている美しい少女を見てびっくりした。まったく知らない少女だが、なぜか無性に懐かしい顔である。
 マチルダは、自分が枕にしていた物がかすかに身動きしたので目を覚ました。
「マルス! 目を覚ましたの?」
マチルダは驚きの声を上げてマルスの首にかじりついた。
マルスの方はこの見知らぬ少女からいきなりこんな親愛の表現を受けてびっくりしてしまっていた。
「あのう、済みません。あなたはどなたなんでしょう。それに、ここはどこなんですか」
「マルス、いきなり妙な冗談を言ったら承知しないわよ。皆あんたの事を心配していたんですからね」
そう言われても、マルスはどぎまぎするばかりである。どうもこの人は僕を誰かと勘違いしているようだ。でも、僕の事をマルスって呼んでいる。
マルスの様子がどうもおかしいと思ったマチルダは、他の部屋にいたロレンゾやカルーソー、トリスターナを呼んで来た。カルーソーがマルスに問い掛けた。
「マルス、君は自分の事をどう思っている。君は幾つになったんだ」
マルスは、この人たちは自分をからかっているのかと思ったが、本気で心配しているらしく思えたので、こっちも正直に言った。
「幾つって……十六になったばかりです」
周りのみんなは、互いに顔を見合わせた。記憶が退行してしまっている。
「では、君の父親と母親はどうしている」
「母は僕が八歳の時に亡くなりました。父親は、この前死んだばかりです。僕は山で猟師をしているんです。ここは町中ですか? こんな広い家はカザフでは見たことがない。ここは何というところです?」
 ロレンゾは、自分に見覚えは無いか、と聞いたが、マルスは首を横に振った。
 カルーソーは人々を隣の部屋に連れて行って説明した。
「十六歳のある時点からの記憶をすっかり失っとる。きっと、何か、耐え難いものが、この二年間の記憶の中にあるんじゃろう」
「そんなはずはないわ!」とマチルダは叫んだ。

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軍神マルス第二部 48

第四十八章 悪魔の囁き

意を決してマルスは壁の先に進んで行った。マルスの体は壁の中に消えた。その後からヴァルミラたちも続こうとしたが、壁に阻まれて、先に進めなくなった。
「マルス!」
ヴァルミラの声は洞窟の内部に空しく響いた。

マルスは一人になった事にしばらく気付かなかった。気が付くと、洞窟から普通の部屋に出ていたのが奇妙である。
「よく来たな。マルス、その指輪をこちらに渡して貰おう」
いつからそこにいたのか、一人の男の姿がそこにあった。褐色の肌に漆黒の口髭、痩せて背の高いその男は、かつて牢獄のヴァルミラの前に現れた男であり、また、シャルル国王をそそのかしてマルスと戦わせた男、マーラーである。
「お前が悪魔か」
マルスは言った。
「そう言ってもよい。この世での名はオマーと言い、またマーラーとも言ったが、もはやこの男の体は俺が乗っ取った」
「指輪は渡さぬ。俺はお前を倒しにここに来たのだ」
悪魔はおかしげにくつくつ笑った。
「馬鹿なことを。人間に悪魔が倒せると思うのか。まあ、聞くがよい、マルス。お前にいいものを見せてやろう。賢くなるぞ」
マルスの前に鏡が現れた。
「その鏡の中を見てみるがいい。何が映っている」
思わず、マルスは鏡を見た。
そこに映っているのはマチルダだった。
「お前の愛する女房だな。その女房が今ごろ何をしていると思う」
鏡はマチルダの部屋を映し出した。マチルダは、鏡台に向かって髪を梳かしている。身につけているのは薄物の夜着だけである。マチルダは後ろを振り返って微笑んだ。そこには一人の美しい若者がいた。マルスの小姓の一人である。若者はマチルダに近づいて、後ろから肩を抱いた。マチルダはうっとりと目を閉じて、若者の口づけを受けた。
「嘘だ! これはまやかしだ」
マルスは目を閉じて叫んだ。
「これは見たくないか。ならば、これはどうだ」
鏡には、ヴァルミラが映っている。見る間に、彼女は服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ裸体となった。そして、求めるようにマルスに向かって手を伸ばした。
「どうだ、これなら見たいだろう。これがお前の本当の心だ。なぜ、心のままに従わぬ。せっかく王位まで手に入れながら、なぜ自分の心を偽って生きるのだ。やりたいようにやれ。気に入らぬ者は殺せ。美女はすべて手に入れるがよい。ほら、この女はどうだ」
鏡には美しく微笑むトリスターナが映っていた。
「止せ! これがお前の偽りだと言うのは俺には分かっている。さっきのマチルダもお前が勝手に作った虚像だ」
「ほう、そうかな。ならば、これはどうだ」
鏡にはシャルル国王の恨めしげな顔が映っている。
「お前はこれまで無数の人間を殺してきた男だ。今さら善人面をすることはない。そう言えば、マルス、お前はずっと父親を探していたのではないか。父親が生きていれば会わせてやりたいところだが、残念ながら、お前の父親は、この前殺されてしまった。それも、お前のよく知っている男にだ。ほら、こいつだ、見てみるがいい」
思わず鏡を覗き込んだマルスは、しかしそこに自分の顔を見出しただけだった。
マルスは笑い出した。
「おかしいか、マルス。なるほど、鏡に自分の顔が映るのは当たり前、何の不思議もない。だが、そこが不思議なところさ。お前は自分の手で自分の父を殺したんだ。マルス、前のグリセリードとの戦いでお前が殺した、栗色の髪の武将、あれがお前の父のジルベールだ」
マルスは、悪魔の言葉が真実である事を直感した。マルスの心は空白になった。
 …………
「マルス、マルス!」
壁は消え、中に走りこんだヴァルミラは、床に倒れているマルスを見つけて揺さぶった。
マルスは目を開いて、白痴的な笑顔を見せた。ロレンゾが呟いた。
「いかん、精神をやられとる」
ヤクシーが、闇の中に何者かの姿を見つけて、剣を抜いて斬りかかった。
「ヤクシー、お前は我々の仲間ではないか。なんで人間どもの間にいるのだ。お前は生まれるところを間違えたのだ。今からでも遅くはないぞ、さあ我々の仲間になろう。ここにはお前の父親も母親もいるぞ」
笑うような、誘うような声がヤクシーに呼びかけた。
「ヴァルミラ、お前はマルスが好きなのだろう。マルスをお前の物にさせてやろう。マチルダになど遠慮することはない。思いのままに生きてこそ人間ではないか」
声はヴァルミラにも呼びかける。そして、続けてロレンゾにも言う。
「ロレンゾ、お前のためにマルスは死んでしまうことになるぞ。こんな無益で勝てる見込みの無い戦いは止めて、地上に戻るがよい。俗な人間どもの事など気に病むことはない。エレミエル教などというまやかしが滅びて、皆、本来の人間の姿に戻るだけのことだ」

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軍神マルス第二部 47

第四十七章 誘惑の洞窟

「こうしていてもしょうがないわ。ここまで来て逃げるわけにもいかないんだから、進みましょう」
ヴァルミラが言った。他の三人もうなずく。
やがて、洞窟は広がってきた。獣の匂いがあたりにたちこめている。
「久し振りだね、マルス、あたしに会いに来てくれたのかい」
女の笑い声が響き、洞窟の奥から一人の女が現れた。ペルシャ風のその美女は、魔女アプサラスである。
「こんな獣臭いところで会うなんてつや消しだけど、あんたたちも死んで私たちの仲間になったら、この匂いも気に入るよ」
アプサラスは再び笑い声をたてる。ロレンゾが三人の前に進み出た。
「アプサラスめ、懲りもせずまた現れおったか」
「おっと、呪文は無しだよ。お前達、あいつらをやっつけておしまい!」
洞窟のどこから現れたのか、三匹の魔物がマルスたちの前に飛び出した。羽の生えた猿のような魔物で、それぞれ、体は人間ほどだが、動きが素早い。
マルスたちはロレンゾを囲んで三匹の魔物の攻撃を防ぎ、ロレンゾが思念を凝らす事ができるようにした。
ロレンゾは、光輝の書にあった、魔物を倒す呪文を唱えた。
ロレンゾが魔物に精神を集中して呪文を唱えると、魔物たちは消え去った。
「ちっ」
アプサラスは身を翻して洞窟の奥に逃げた。
四人はその後を追ったが、洞窟の通路はそこから二つに分かれていて、アプサラスの姿を見失った。
「どうしよう。二つとも行ってみるかい」
「二人ずつ、二手に分かれて行こう。その方が早い」
マルスの提案に、他の三人はほとんど考えることなくうなずいた。
 ロレンゾとヤクシー、マルスとヴァルミラが組みになって進む事になった。
 薄暗い洞窟の中を、ヴァルミラと共に進んでいると、マルスは不思議に胸苦しくなった。
 後ろから聞こえるヴァルミラの息遣いが、マルスに官能的な気分を与えるのである。それは、ヴァルミラも同じであるようだ。二人はそれに必死で耐えていたが、やがて、
「マルス……」
ヴァルミラがかすれ声で言った。
「マルス……なんだかおかしい。これは妖魔の罠だ」
マルスは耐え切れず、ヴァルミラの手を握った。二人は闇の中で互いの情欲を感じ、互いに獣となって求め合いたいと願うばかりであった。
 同じ頃、ロレンゾとヤクシーも、マルスとヴァルミラと同じような状態になっていた。
「なぜ、こんな老木のような自分が、このような情欲に捉えられるのじゃ」
ロレンゾはヤクシーの体を今にも抱こうとしながら痺れる頭の中でそう考えた。ヤクシーは相手が老人であることも構わず、もはや情欲で我を忘れている。
「しまった! これはアプサラスの仕業じゃ」
 ロレンゾは痺れる頭を懸命に集中させ、腕の中のヤクシーから体を突き放した。辺りは先ほどまでの獣の匂いから、濃厚な花の香りに変わっている。しかし、その香りの中には、明らかに人を情欲に誘う成分がある。
 ロレンゾは理性を取り戻す呪文を唱えた。ヤクシーもはっと我に返り、なぜ自分がこんな老人にあれほどの情欲を覚えていたのか分からず、きょとんとしている。
「マルス、ヴァルミラを抱いてはいかん! 交わりの絶頂でお前たちの自我は崩壊し、魔物に体を乗っ取られるぞ」
ロレンゾとヤクシーは、マルスとヴァルミラの所に駆けつけた。二人がマルスたちを発見した時、二人は洞窟の地面に横たわり、濃密な口づけをしているところだった。
ロレンゾの呪文で二人は理性を取り戻し、互いに赤くなってそっぽを向いた。
「マルス、何てことをするのよ! マチルダに言いつけるわよ」
ヴァルミラは照れ隠しにマルスに言葉を投げつけた。
「自分だって……」
マルスも反論しようとしたが、言葉にならない。
「さっきマルスが二手に分かれようと言った時には、すでにアプサラスの術にはまりかけていたのじゃな」
四人は少しぎくしゃくした気持ちのままで先に進んだ。
通路はやがて行き止まりになった。その行き止まりの所は奇妙な黒い壁になっており、ドアも何も無い。
「怪しい壁じゃな」
「もしかしたら、この壁は通り抜けられるのじゃないかしら」
ヤクシーが珍しく発言した。マルスが前に進み出た。
「よし、僕が行ってみよう」

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軍神マルス第二部 46

第四十六章 妖魔の宮殿

「では、お前たちにグラムサイトを与えよう」
ロレンゾは物々しげに言った。
「グラムサイトとは?」
マルスが聞いた。
「妖魔を見る力じゃよ。同時に、お前らは魔物の世界の住人となる」
ロレンゾは一人一人の目を覗き込みながら、呪文を唱えた。
「どうじゃな」
「世界が灰色になりました。色がすっかり無くなったみたいです」
 四人は外に出た。
まだ昼間だというのに、あたりは薄暗く、世界はすっかり色を失っている。そして、注意して見ると、木陰や家の陰に様々な幽体がいた。多分、死んだ人間や動物の霊だろう。
 また、時々ちょろっと動く姿は、小人のように見えるが、その顔はぞっとするほど醜い物がいる。幽霊とは違って、透き通った影ではなく、はっきりとした実体を持っているように見える。
「グールじゃよ。食人鬼じゃ。低級な魔物じゃ」
「ううっ。毎日こんな連中と一緒に暮らすのは御免だわね」
ヴァルミラが言った。
一同は、ある川べりに来た。もっとも、日照りで水はすっかり涸れているが。
「あったな。あそこに魔物の宮殿がある」
なるほど、乾いた川の上に宮殿のようなものが浮かび、岸から橋がかかっている。
「ずいぶん簡単に見つかるんだな」
「入り口はあちらこちらにあるが、どれも同じ場所に続いておるのじゃ。この橋がこの世から魔界へ渡る橋じゃよ。さて、覚悟はいいかな。気をしっかり持てよ」
橋を渡りながら、ロレンゾが最後の訓戒を与えた。
「悪とは、結局は善の欠損に過ぎん。しかし、自分の中に弱い物があると、相手はそれを拡大して、こちらを潰しにかかる。わしがヤクシーとヴァルミラの二人を連れてきたのも、この二人の精神の強さのせいだ。この中で、霊能力という点で魔物に一番弱いのは、もしかしたら、マルス、お前かもしれん。気をつけるんだぞ。まあ、戦うときは、形こそ異形だが、力が強く、生命力の強い巨大な動物を相手にするつもりで戦えばよい」
橋を渡ると、宮殿の門があり、その先は中庭だった。
門の側にいた牛面人身の怪物が、四人を見て、その前に立ちふさがった。
「お前らの親分に用がある。ここを通して貰うぞ」
マルスはガーディアンを抜いて、斬りかかった。
怪物は腕を切り落とされたが、もう一方の手に持った大剣でマルスを横殴りに斬ろうとした。マルスは飛び退ってそれをかわす。
 ヴァルミラとヤクシーが両側から怪物に斬りつけ、怪物は地響きを立てて倒れた。
「今のはドモヴォイじゃな。これから、もっと強い奴がどんどん出てくるじゃろう」
ロレンゾが言った。
 宮殿の中庭は、ペルシャ風の雰囲気である。しかし、よく見ると、噴水の水は血であり、池の周りの装飾は人の頭蓋骨を並べたものである。おそらく足元の砂も、元は人骨だったものだろう。
 池の周りには、向こうの世界でも見たグールたちがあちこちにたむろしているが、特にマルスたちに興味も示さない。死体以外は興味が無いのだろう。
 宮殿は粗雑な石造りであり、ほとんど醜いと言っていい奇妙な形態のものである。
 一階の大広間に入ると、そこはまるで洞窟の内部であった。
天井からは奇妙な熱帯性のつる草が垂れ下がり、蛇やトカゲがあちらこちらで蠢いている。そして、そこここに白骨化した人間の死体が転がり、草木がそれにまとわりついている。
大広間の中央には、地下への入り口があった。
「いよいよ地獄行き、という感じね」
ヴァルミラが言った。
 四人は地下への坂道を下りて行った。周りは光苔のようなものでぼんやりと明るい。
長く続く洞窟は、鍾乳洞にも似ている。実際、天井からは時々水が滴り落ちてくる。
やがて、遠くから、獣の唸り声のような音が響いてきた。
四人は顔を見合わせ、しばらく進むのをためらった。

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軍神マルス第二部 45

第四十五章 魔界への旅

 マルスが即位した年の夏、アスカルファンはかつて無い猛暑と水不足に悩まされた。そして、これはマルス新国王に徳が無いせいだという流言が飛んでいた。
 マルスは全国の土地の領主を廃して、代官を任命し、租税は収穫の僅か四分の一と定めていたが、それにさえ恨みの声が上がっていた。
「いくら四分の一だって、元の収穫が無いんじゃあ仕方がねえよ」
そういう庶民の声は宮廷にも届いていたが、マルスには為す術がなかった。
マルスはロレンゾに雨乞いを頼んだが、ロレンゾは首を振って言った。
「もうずっと前から何度もやってみたが、駄目じゃった。この異変は、魔物の仕業じゃよ。賢者の書を解読しない限り、魔物の力を抑える事はできん」
 賢者の書の解読はほとんど終わっていたが、ただ、すべての呪文の鍵になる一語が分からなかった。マルスもロレンゾも、呪文の他の部分はもはや暗記していたが、その一語が分からないことにはどうしようもない。
 アンドレはアルカードからグリセリードの残党を追い出すために、兵士たちを率いてアルカードに行っていた。
「アスカルファンの危機はもはや終わったと思ったが、こんな苦難が待っていたとは……」
ぐったりと疲れて顔を両手に埋めるマルスをマチルダが慰める。
「戦ならどんな苦難も乗り越えてきたマルスも、お天気だけはお手上げね。それじゃあ、今度は魔物退治に行く?」
 マチルダは冗談のつもりだったが、マルスははっと顔を上げた。
「そうだ、何も魔物の出現を待っている事は無い。こっちから出かけて行こう」
「出かけるって、どこに行くのよ。魔物のいる所、知ってるの?」
「探すさ。国王業より、僕には戦が似合ってる」
マルスは宰相のオズモンドに国王の代行を頼んだ後で、ロレンゾの所に行った。
「ロレンゾ、こちらから魔物の所に行きましょう。何もダイモンの指輪に頼ることはない。魔物を全部倒してしまえばいいことだ」
「簡単に言うな。人間を相手の戦とは話が違うぞ。魔物に心を食い破られて、二度とまともな心に戻れなくなってもいいのか」
「アスカルファンをこのまま滅亡させるよりはいいでしょう。それが国王としての義務です」
「見上げた心がけじゃ。すべてを犠牲にする覚悟はあるのか」
「自分の命だけは犠牲にする覚悟はあります」
「それが、すべてという事じゃよ。一人の人間が死ぬ事は、一つの世界が消滅するという事だ」
ロレンゾは目をつぶって考え込んだ。
「確かに、魔界に入れば、そこでは我々も魔物と同じ存在になる。普通の魔物なら、戦って倒す事も可能じゃろう。だが、強大な魔物は、こちらの心を支配する事が出来る。そうした魔物と戦って勝つ事が出来るとは思えんな」
「でも、やるしかないんです」
「よし、行こう。今度はわしとお前だけじゃ。この世に帰れなくなった時のために、思い残す事がないようにしておけよ」
「マチルダ以外には思い残す事はありません」
「あした正午、出発しよう。今夜はよく休んでおけ」
 翌日、マルスはマチルダに魔界に行く事を告げた。
「そんなのいやよ! マルスが帰ってこられなくなったら私はどうするの」
マチルダは涙を浮かべて抗議した。
「なんでマルスがそんな危険な事をやらなけりゃあいけないのよ。そんなのお坊さんの仕事でしょう」
「魔界でも僕は戦うのさ。戦いは僕の仕事みたいなもんだ」
マチルダはなおも恨み事を述べたが、マルスの決心は変わらず、とうとう諦めた。
「で、誰と行くの?」
女と一緒なら許さないわよ、と思いながらマチルダは聞いた。
「僕とロレンゾだけさ」
とマルスは答えた。もちろん、正直に言ったのだが、結果的にこれはマチルダに嘘をついたことになった。
 ロレンゾの所にマルスが行くと、そこにはヤクシーとヴァルミラがいたのである。
「ロレンゾ、これは?」
「うむ、気が変わった。わしら二人だけでは少し心許ないので、この二人にも行ってもらう」
「なぜ、この二人なのです」
「ヤクシーには、魔物に対する不思議な力があるし、ヴァルミラは超人的な武勇の持ち主じゃ」
「ピエールは?」
「五人ではまずいのじゃ。魔法の都合上な。四という数が大事なんじゃ」
ロレンゾの説明を聞いても一向に腑に落ちなかったが、とにかくこの四人で出発する事になった。
「また君に助けて貰う事になったな、ヴァルミラ」
マルスはヴァルミラに言った。
「どうせ私はここでは余計者なんだから、地獄巡りもいい暇潰しよ。マルスも私も殺した人間の数から言えば、地獄のいいお客さんじゃない?」
ヴァルミラは笑って言った。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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