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軍神マルス第二部 49

第四十九章 過去への逃避

ロレンゾはマルスの手の指を見た。ダイモンの指輪はまだその薬指に嵌っていた。
ヤクシーとヴァルミラは、今、巨大な竜と戦っていた。悪魔のもう一つの姿である。だが、二人とも、竜の爪や尾に打たれ、切り裂かれてあちこち血を流している。二人の体力は、もはや限界だろう。
ロレンゾはマルスの指から指輪を抜いて、自分の指に嵌めた。
「ロレンゾ……ピラミッド……」
マルスの口から切れ切れな言葉が洩れた。
「……杖……」
はっとロレンゾは自分の持っていた杖を見た。ピラミッドでマルスの見つけた杖である。
その黄金の握りをロレンゾは強く回した。握りが取れて、杖の上の部分に空洞が現れた。その中に、一枚の羊皮紙が入っている。
 古代パーリ語で書かれたそれを、今はロレンゾも読むことができた。
「アロンゾの鍵、それは神々よりも強き者、その名はクロキアス」
ロレンゾは指輪を悪魔に向けて声高らかに呪文を唱えた。あの欠けていた一語の所にクロキアスの名を入れて。
 悪魔はぎゃあっと叫び声を上げ、姿を消した。

気が付くと、四人は日照りで水の無くなっている川の川底に気を失って倒れていた。
空から落ちてきた水滴が、四人の顔に当たり、マルスを除く三人は目を覚ました。
空は真っ暗に曇り、今雨が降りだそうとしていた。
「雨だ。悪魔の呪いは解けたぞ。アスカルファンは救われた!」
ロレンゾは飛び起きて、神に感謝の祈りを捧げた。
ヤクシーとヴァルミラも抱き合って喜んだ。
 やがて降りだした雨は、これまでの日照りを補うかのように、豪雨となってあらゆる物を洗い流した。川底にはあっという間に濁流が流れ出す。
 
 ロレンゾに担がれて宮廷に帰ったマルスは、なおも意識を取り戻さなかった。
 マチルダはマルスに取りすがって泣き崩れた。もちろん、マルスが悪魔に見せられた映像は悪魔の作った幻覚であり、マチルダが浮気などするわけはないのである。
 日照りは終わり、作物は命を甦らせた。
 秋の収穫は、例年よりは少なかったものの、秋以降に作られた野菜類は豊作で、今年の冬はなんとか越せそうであった。
 国民の心配をよそに、マルスは眠り続けた。
 眠りながら、マルスは夢を見ていた。それは、故郷の山の夢である。
 母親のマーサがマルスを呼ぶ。食事が出来た知らせである。父親のギルが猟から帰ってくる姿を見つけてマルスは駆け寄る。ギルは髭面のいかつい顔にやさしい笑みを浮かべてマルスを抱き上げる。その二人を見ているマーサも微笑んでいる。

 やがてマルスは目を覚ました。およそ半年間、マルスは眠り続けていたのである。目を覚ましたマルスは、ベッドの上の自分にもたれかかるように眠っている美しい少女を見てびっくりした。まったく知らない少女だが、なぜか無性に懐かしい顔である。
 マチルダは、自分が枕にしていた物がかすかに身動きしたので目を覚ました。
「マルス! 目を覚ましたの?」
マチルダは驚きの声を上げてマルスの首にかじりついた。
マルスの方はこの見知らぬ少女からいきなりこんな親愛の表現を受けてびっくりしてしまっていた。
「あのう、済みません。あなたはどなたなんでしょう。それに、ここはどこなんですか」
「マルス、いきなり妙な冗談を言ったら承知しないわよ。皆あんたの事を心配していたんですからね」
そう言われても、マルスはどぎまぎするばかりである。どうもこの人は僕を誰かと勘違いしているようだ。でも、僕の事をマルスって呼んでいる。
マルスの様子がどうもおかしいと思ったマチルダは、他の部屋にいたロレンゾやカルーソー、トリスターナを呼んで来た。カルーソーがマルスに問い掛けた。
「マルス、君は自分の事をどう思っている。君は幾つになったんだ」
マルスは、この人たちは自分をからかっているのかと思ったが、本気で心配しているらしく思えたので、こっちも正直に言った。
「幾つって……十六になったばかりです」
周りのみんなは、互いに顔を見合わせた。記憶が退行してしまっている。
「では、君の父親と母親はどうしている」
「母は僕が八歳の時に亡くなりました。父親は、この前死んだばかりです。僕は山で猟師をしているんです。ここは町中ですか? こんな広い家はカザフでは見たことがない。ここは何というところです?」
 ロレンゾは、自分に見覚えは無いか、と聞いたが、マルスは首を横に振った。
 カルーソーは人々を隣の部屋に連れて行って説明した。
「十六歳のある時点からの記憶をすっかり失っとる。きっと、何か、耐え難いものが、この二年間の記憶の中にあるんじゃろう」
「そんなはずはないわ!」とマチルダは叫んだ。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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