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風の中の鳥 2

第一章 脱出

 今のポーランドに近いあたりに、ローラン国という小国があった。長いローマ帝国の支配の時代には国ですらなかったが、いつの頃からか、ルドルフという男がこの国の王となり、人々を支配し始めた。彼は西ローマの傭兵だった男であるが、十人ほどの仲間と語らってこの国で山賊を始め、やがてそれが数百人の武士団になったのである。そうなると、もはや彼らの支配に反抗できる人間は、百姓の中にはいない。もっとも、王と言っても、その暮らしぶりは、小さな荘園領主程度ではあったが、百姓以外の生き方を想像することもできない哀れな連中の中で王になろうというのは、良い思いつきだったと言えよう。
 彼は国民に農耕や牧畜の収入や収穫の半分を上納することを命じた。その代わりに、自分たちが他の山賊や他国の侵略からお前達を護ってやるのだというわけだ。まるでどこかの国に居座っている占領国の軍隊みたいな言いぐさだが、それを信じている住民も多かった。国王様のお陰で安心して生活ができる。有り難いことだ、と拝む者さえ出てくる始末である。それがこの純朴な時代の人心だったのである。人々は神話や伝説を半分以上信じていたが、それと同様に宗教家や為政者の作り上げる大嘘も信じていた。
 ルドルフは、大酒のみの乱暴者だったが、仲間には頭目としての能力を認められていた。第一に喧嘩が強いこと、第二に気前が良いことがその理由だが、もう一つ、彼の凶暴で執念深い性格が恐れられていたのが、彼が頭目になれた理由であった。人々を支配するには、愛情よりも恐怖が有効である、というのは、数百年後にマキアヴェリも書いている。
 喧嘩は強いが、計算能力は無い連中のことだから、王国の経営は放漫そのものであった。徴収した膨大な年貢の穀物はろくな保管もされず王宮の穀物蔵に詰め込まれ、その大半が腐っていった。
 この頃はすでにかなりな程度、貨幣は流通していたが、よその大きな国ならいざしらず、このような田舎国では年貢は当然物納である。しかし、王国の宮廷には、その物納された年貢を金に換えることのできる商才のある人間がいなかった。そこに目を付けたのが、この国の首都アルギアの商人ケスタであった。
 彼は王に申し出て、自分がこの穀物を金に換えようと言った。王にしてみれば願ってもないことである。
 ケスタが穀物を他国に売り払って、王に巨額の金を渡した時には、王は彼の手を握って感謝感激の体であった。その実、ケスタが穀物の販売代金の半分しか王に渡さなかったことなど、王は知らなかった。いずれにせよ、どうせ穀物蔵で腐っていたはずの穀物である。
 やがてケスタはその財政能力を見込まれて、王の宰相となった。ケスタは年貢の穀物を外国に売り払い、王室と自分の懐を富ませたが、その年貢を払うために国民の大半が食うや食わずの有様であることなど歯牙にもかけなかった。このにわか貴族は、平民が年貢のために餓死したところで、自分たち貴族には関係ないことだ、と思っていたのである。成り上がりの人間の大方は、そういうものだ。成り上がりの代表、豊臣秀吉が、刀狩と検地で身分制度を固定し、自分のような成り上がりが二度と出てこられなくしたのは、いい例であろう。百姓上がりの人間だから、百姓に対して恵み深い政治をするだろうなどというのは、甘い期待というものである。自分と同じ人間が出てくる事を恐れた秀吉の為に、彼以降の百姓は、二度と百姓の身分から浮かび上がれなくなったわけである。
 このローラン国の人口はわずか三十万人ほどである。国の大半は森林と野原と荒地と湖沼で、人間が住める耕作地は点在していたため、今なら、田舎の町程度の人口が、一つの国全体に散らばっていたわけだ。国には大きな町が三つ、中位の町が八つほど、小さな村が二十ほどあり、あとは村とも言えないような集落があちこちにあった。
 そうした集落の中に、狩人の村があった。山奥の盆地にある、わずか五十軒ほどの集落だが、王室の収税人も、この集落の存在は知らなかった。だから、王室による収奪も無く、比較的平和に暮らしていたが、豊かだったわけではない。冬など、一月も山を探して一匹も獲物の無い時期もある。そうした時は、木の根や草の根を囓って生き延びるのである。
 村には、村長がいた。村長というよりは、山の長である。狩りの名人で、百歩離れた所から木の上の栗鼠を矢で射ることができる。おそらく、常人の目には、百歩先の栗鼠など、姿も見えないだろう。
 その村長には息子が二人いたが、その長男がこの話の主人公、フリードである。
 フリードは、今年十七歳になる少年、いや、この時代ではもはや立派な青年である。背が高く、逞しい骨格をしていて、怪我をした大人一人を担いで半日以上山歩きができるくらい力が強く、持久力があった。山の民の常として、口数は少なく、穏和な性格だったが、決断が早く、思いこんだら梃子でも動かない頑固なところもある。顔だちは整っているが、滅多に笑わないため、愛嬌はあまりない。もともと田舎の人間、特に山の人間はあまり笑わないものだ。笑いは、文明の技術であり、自然に近い存在は笑わない。敵に対する軽蔑を表すために、誇張した笑いを笑うというのは、未開の人種でもあるが、日常的に笑うことなどはないのであり、田舎者は概して愛嬌には欠けるものである。
 この集落に、ある日、王の収税人がやってきたことから、フリードの運命は大きく変わった。
 二人の兵士を連れた王の収税人は、ムルドというこの狩人の村に対して、女たちが作る野菜の収穫、男たちの狩りの獲物の半分を王に差し出すように命令した。
 村長のアギルはそれを穏やかに拒絶した。今でさえ生存に十分とは言えない収穫や獲物の半分も取られては、村人が生きていけるはずはないからだ。それに、獲物である動物の死体を、どのようにして納めるのか。
「獲物の皮をなめして、それを納めるのだ。肉は干し肉にすればよいではないか」
 収税人の言葉に、アギルは首を横に振った。
「獲物は、我々が食っていくのにも足りないくらいだ。我々に飢えて死ねというのか」
「王の命令に背くというのか。ならば、兵士たちを差し向けて、お前たちを皆殺しにするぞ」
「それが王のすることか。王とはいったい何者なのだ。我々から獲物を取り上げる権利をなぜその男が持っているというのだ」
 もちろん、この当時の人間が、権利などという抽象的な言葉を持っていたわけではないが、これは小説である。作者が、昔にふさわしい表現を思いつかない場合もあるのだから、これから先、会話の中に現代的な言葉がうっかり出てきても気にしないでいただきたい。
 王の収税人は、背後に控えていた二人の兵士に合図をした。
「王の命令を聞かぬ者を、村長にしておくわけにはいかん。この者を捕らえよ」
 二人の兵士は、剣を抜いて前に進み出た。
 それを見て、アギルの後ろにいたフリードが前に飛び出した。
「やめろ、父に手を出すな!」
「邪魔をするなら、お前も殺す」
「やってみろ!」
 フリードは、素早い動きで兵士の剣をかわし、その腕を小脇に挟むと、逆に取ってへし折った。
 兵士は悲鳴を上げて腰を抜かした。
 もう一人の兵士が斬りかかる前に、フリードは、腕を折った兵士から取り上げた剣を構えていた。剣を使うのは初めてだが、山刀で熊や猪と戦ったことは何度もある。
 兵士の動きは、野生の獣の動きに比べれば、のろい。
 斬りかかる剣を余裕をもってかわし、フリードは剣を横に薙ぎ払った。
 兵士の首は宙に飛んで、収税人の足元に落ちた。
 収税人は悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、その前に屈強な村人達が立ちふさがる。
「フリード、短慮だぞ。王の兵士は千人以上もいるという話だ。彼らを差し向けられては、我々はひとたまりもあるまい。ここはわしが何とかするから、お前はすぐここから逃げるのだ。いいか、この国の外に出て、身が安全だと分かるまでは絶対に帰ってくるなよ」
 アギルは厳しい顔でフリードに言った。
「しかし、父上の身が危ないのでは」
「心配するな。わしは、お前の三倍も生きている。ここをどう処置すればいいかぐらい分かっている。さあ、わしを抱きしめてくれ。もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれん」
 フリードは、涙を流しながら父を抱きしめた。
「お前の弟のヴァジルは、あと半月は猟から帰ってこない。別れを告げている暇はあるまい。あいつにはわしからよく言っておこう。では、行くがよい」
 フリードは、父の言葉に頷いて、家に戻り、母に事情を告げて旅支度を整えるとすぐに村を出た。
 背中には、山歩きに用いる皮袋を背負い、腰に山刀を下げて、肩に弓矢を掛け、手には肩ぐらいまでの長さの樫の木の杖を持っている。これが放浪の旅に出た時のフリードの姿だった。
(お母さんはきっと、僕がほんのわずかの間だけ身を隠すのだと思っているだろうな。しかし、もしかしたら、お母さんの顔を見るのも、これが最後かもしれない。お母さん、御免なさい)
 フリードは、村を振り返りながら、心の中で母に謝った。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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