曽野綾子や西部邁のような低俗右翼を批判するなど、ある意味勇気ある発言によって右翼の中ではまともな頭脳を持っているかと思われる山崎行太郎が、石原再選について慶賀の言葉を述べている。
今の日本国民は「幼児的、情緒的」で、石原を再選させた東京都民は石原の「天罰発言」も「原発擁護論」も賛同し、支持しているそうだ。文脈的に言えば、そういう東京都民は「大人で理性的」な人々ということになるのだろう。
それならば、あえて私は幼児的であるままでいることにしよう。大人の「理性的判断」とは要するに「経済合理性」であり、それがもたらしたのが今回の原発事故の大惨事ではなかったか?
題名の「アンファニズム」はフランス語の「子供」にイズムをつけた造語である。まあ、私以外にも使う人はいるかもしれない。
(以下引用)
しかし、今回のような国家的な危機としての大事件や大災害に直面した場合、石原慎太郎のような、大衆や民衆とは隔絶した特殊な才能と資質の持ち主は不可欠だ。石原慎太郎の「天罰発言」を、素直に受け入れられないままに、逆に批判罵倒するしかない現在の日本国民の思想的レベルは、あまりにも幼児的、情緒的と言っていい。そして、今回の都知事選挙における四選である。僕は、物言わぬ都民は、石原慎太郎の「天罰発言」も「原発擁護論」も、ひそかに賛同し、支持していると考える。福島原発事故と放射能汚染という現実の前に、あるいは「のらりくらり」と無責任な発言を繰り返す東電、官僚、政治家、そして極めつけは原子力や放射能の専門科学者たちの発言、つまり御用学者たちの専門科学者らしからぬ優柔不断な言動を前にして、「反原発」的世論が盛り上がるのは当然だろうと思うが、そこから単純に、一直線に「反原発」「核廃絶論」へと突っ走るのには疑問を感じる。今、石原慎太郎が、有力な対抗馬不在とはいえ、難なく四選を果たしたということは、都民だけではなく、日本国民の多くは、必ずしもネットあたりで盛り上がっている反原発的世論に付和雷同しているわけではないということを意味していると考える。都知事が誰になろうとどうでもいい話だが、国政を預かる永田町の政治家たちが、そろいもそろって軽薄で、機能不全を起こし続けている今、「危機の政治家」、「危機の思想家」として石原慎太郎が存在することの意義は小さくない。その石原慎太郎が、四選を果たした後、こう発言している。
4選を決めた石原慎太郎氏(78)は10日夜の記者会見などで、東日本大震災の復興支援や福島第1原子力発電所の事故の対応で、民主党が掲げる「政治主導」が省庁の統制や政策決定に大幅な遅れを生んでいると指摘し、「(現政権は)無知で未熟な連中が集まって、役人を使わない。何をうぬぼれているのか」と痛烈に批判した。
政府は原発事故で電力の供給不足が生じ、計画停電や節電を呼びかけたが、石原氏は「日本の電力消費は世界的に見たら奇形だよ。パチンコと自動販売機で合わせて1千万キロワット近い量が使われている。自動販売機は便利かもしれないが自分の家で冷やせばよい」と持論を展開した。
その上で、「国全体でやらなければならないことは、国で出さなかったら国民は動かない。政府はきちっと政令を出すべきだ。オイルショックのときは出した」と、その場しのぎで対応を変える民主党政権を批判した。
「役人の言うことを聞かないで、『政治家で、政治家で』と役人を使わない。この事態になぜ一番ノウハウ持っている事務次官会議をやらないのか。役人をいかに使うかが政治家の力量。いまだに事務次官会議を開かない、こんな政府は前代未聞だ」と“石原節”で断じた。
大震災の影響で、首都圏を中心に買いだめによる物品の品薄などが問題となった際に、都内のコンビニエンスストアを視察した蓮舫節電啓発担当相にも触れ、「担当大臣が報道陣をたくさん引き連れてニコニコやってる場合じゃない」とパフォーマンス先行の対応に疑問を呈した。
政府批判は自民党政権時代の政策にもおよんだ。
石原氏は「福田バカ内閣のときに、バカ財務省が、法人事業税の分割基準を変更した。これにより大きな予算が取られたが、それをとりかえし、東京をさらにしっかりしたい」と毎年拠出してきた法人事業税約3600億円を取り戻し、全額を震災対策にあてる考えを示した。
復興支援には巨額の財源が必要な事態が想定されるが、「これだけの大災害が起きれば、当然予算の組み直しをしなかったらだめ。東京が自腹を切り、国をサポートするが東京は首都であって政府じゃない。国が復興資金の調達をどうするのかを考えないと。国債だけで、あるいは増税だけで、とてもうまくいかないと思う」と話した。
(産経新聞)
まさに、誰かが言わなければならない正論である。原発事故が起こったからといって、安直に「反原発」ではないのである。要するに、原発事故を前にして、途端に「反原発ジャーナリスト」に変身するような、上杉ナニガシごとき場末の「フリージャーナリスト」の出る幕ではないと言うことであり、その上杉ナニガシを勉強会に呼び、一夜漬けの「反原発論議」に耳を傾け、はじめて原発の実態を知ったかのように頷いている鳩山由紀夫の無知無学、思想的貧困に比べれば、石原慎太郎の原発論は、年季が入っている。今こそ、日本国民は、耳には心地よくないかもしれないが、石原慎太郎のようなプロフェッショナルの発言に耳を傾けよ、と言いたい。(続く)
今の日本国民は「幼児的、情緒的」で、石原を再選させた東京都民は石原の「天罰発言」も「原発擁護論」も賛同し、支持しているそうだ。文脈的に言えば、そういう東京都民は「大人で理性的」な人々ということになるのだろう。
それならば、あえて私は幼児的であるままでいることにしよう。大人の「理性的判断」とは要するに「経済合理性」であり、それがもたらしたのが今回の原発事故の大惨事ではなかったか?
題名の「アンファニズム」はフランス語の「子供」にイズムをつけた造語である。まあ、私以外にも使う人はいるかもしれない。
(以下引用)
しかし、今回のような国家的な危機としての大事件や大災害に直面した場合、石原慎太郎のような、大衆や民衆とは隔絶した特殊な才能と資質の持ち主は不可欠だ。石原慎太郎の「天罰発言」を、素直に受け入れられないままに、逆に批判罵倒するしかない現在の日本国民の思想的レベルは、あまりにも幼児的、情緒的と言っていい。そして、今回の都知事選挙における四選である。僕は、物言わぬ都民は、石原慎太郎の「天罰発言」も「原発擁護論」も、ひそかに賛同し、支持していると考える。福島原発事故と放射能汚染という現実の前に、あるいは「のらりくらり」と無責任な発言を繰り返す東電、官僚、政治家、そして極めつけは原子力や放射能の専門科学者たちの発言、つまり御用学者たちの専門科学者らしからぬ優柔不断な言動を前にして、「反原発」的世論が盛り上がるのは当然だろうと思うが、そこから単純に、一直線に「反原発」「核廃絶論」へと突っ走るのには疑問を感じる。今、石原慎太郎が、有力な対抗馬不在とはいえ、難なく四選を果たしたということは、都民だけではなく、日本国民の多くは、必ずしもネットあたりで盛り上がっている反原発的世論に付和雷同しているわけではないということを意味していると考える。都知事が誰になろうとどうでもいい話だが、国政を預かる永田町の政治家たちが、そろいもそろって軽薄で、機能不全を起こし続けている今、「危機の政治家」、「危機の思想家」として石原慎太郎が存在することの意義は小さくない。その石原慎太郎が、四選を果たした後、こう発言している。
4選を決めた石原慎太郎氏(78)は10日夜の記者会見などで、東日本大震災の復興支援や福島第1原子力発電所の事故の対応で、民主党が掲げる「政治主導」が省庁の統制や政策決定に大幅な遅れを生んでいると指摘し、「(現政権は)無知で未熟な連中が集まって、役人を使わない。何をうぬぼれているのか」と痛烈に批判した。
政府は原発事故で電力の供給不足が生じ、計画停電や節電を呼びかけたが、石原氏は「日本の電力消費は世界的に見たら奇形だよ。パチンコと自動販売機で合わせて1千万キロワット近い量が使われている。自動販売機は便利かもしれないが自分の家で冷やせばよい」と持論を展開した。
その上で、「国全体でやらなければならないことは、国で出さなかったら国民は動かない。政府はきちっと政令を出すべきだ。オイルショックのときは出した」と、その場しのぎで対応を変える民主党政権を批判した。
「役人の言うことを聞かないで、『政治家で、政治家で』と役人を使わない。この事態になぜ一番ノウハウ持っている事務次官会議をやらないのか。役人をいかに使うかが政治家の力量。いまだに事務次官会議を開かない、こんな政府は前代未聞だ」と“石原節”で断じた。
大震災の影響で、首都圏を中心に買いだめによる物品の品薄などが問題となった際に、都内のコンビニエンスストアを視察した蓮舫節電啓発担当相にも触れ、「担当大臣が報道陣をたくさん引き連れてニコニコやってる場合じゃない」とパフォーマンス先行の対応に疑問を呈した。
政府批判は自民党政権時代の政策にもおよんだ。
石原氏は「福田バカ内閣のときに、バカ財務省が、法人事業税の分割基準を変更した。これにより大きな予算が取られたが、それをとりかえし、東京をさらにしっかりしたい」と毎年拠出してきた法人事業税約3600億円を取り戻し、全額を震災対策にあてる考えを示した。
復興支援には巨額の財源が必要な事態が想定されるが、「これだけの大災害が起きれば、当然予算の組み直しをしなかったらだめ。東京が自腹を切り、国をサポートするが東京は首都であって政府じゃない。国が復興資金の調達をどうするのかを考えないと。国債だけで、あるいは増税だけで、とてもうまくいかないと思う」と話した。
(産経新聞)
まさに、誰かが言わなければならない正論である。原発事故が起こったからといって、安直に「反原発」ではないのである。要するに、原発事故を前にして、途端に「反原発ジャーナリスト」に変身するような、上杉ナニガシごとき場末の「フリージャーナリスト」の出る幕ではないと言うことであり、その上杉ナニガシを勉強会に呼び、一夜漬けの「反原発論議」に耳を傾け、はじめて原発の実態を知ったかのように頷いている鳩山由紀夫の無知無学、思想的貧困に比べれば、石原慎太郎の原発論は、年季が入っている。今こそ、日本国民は、耳には心地よくないかもしれないが、石原慎太郎のようなプロフェッショナルの発言に耳を傾けよ、と言いたい。(続く)
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