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「源氏物語」の弁証法的構造について

久しぶりに、世相と無関係な風流事について書く。
この前、市民図書館から借りてきた大野晋の『源氏物語』が面白かったので、備忘も兼ねて、一言書いておく。
私は以前、予備校で国語専門の講師などをしていたが、「源氏物語」は未読である。あんな膨大な作品、よほど心の余裕が無ければ読めるものではない。しかし、断片的な原文を通してでも、その素晴らしさは感じられ、隠居でもしたらじっくりと読みたいな、とは思っていた。で、私はもともと大野晋のファンでもあったので、この『源氏物語』を図書館で見つけて借り出したわけである。
これが、なかなかの名著で、私の大好きな「考える楽しさ」を満喫させるものであった。但し、白状するが、その中の語学的考察部分はほとんど飛ばし読みした。そういうものは国語教師時代に飽きるほどお付き合いしている。
で、一言でこの作品のポイントを言えば、「源氏物語は弁証法的作品である」ということになるだろうか。いや、そう気どった言葉を使わなくても、「二項対立的構造を持った作品だ」でもいい。こっちの方が難しいか。
源氏物語には異なる物語系列が入っている、と言うのは、「宇治十帖」とその前の部分(ここでは「本篇」と呼ぼう)との違いを見れば誰でも分かることだが、実は、宇治十帖の前の部分(本篇)自体に全く異なる物語系列があり、それがうまく組み合わされているためにこれまでは、あまりその事が気づかれていなかったと言うのである。学会ではこの説はけっこう前からあり、「紫の上系統」と「玉蔓系統」とか言われていたようだ。(いちいち元の本を参照しないので、誤記していたら御免。)で、大野晋はそれをさらに分けて、「宇治」以前を三つに分け、a系統b系統c系統とし、「宇治」を d系統として4部分の物語系統がある、とした。
ここからが面白いのだが、その4部分が二項対立的なのである。
簡単に私流にアレンジして書くと、まずaは「致富伝説」つまり「成功譚」であり、物語の王道である。光源氏という世に稀なスーパーヒーローがこの世の最高の栄華を得るまでの話だ。もちろん、その間に浮き沈みもあるが、それは成功に至るステップにすぎない。物語の薬味のようなものだ。
b系統は、その反対に「失敗譚」である。a系統では深く追求しなかった「成功の陰に存在する失敗」を物語として追及した、より文学的な話だ。これは作者が藤原道長という権力者の傍でさまざまな実体験を積むことで得た社会的知識や人間性の知識に基づいている。書かれた時期自体が、a 系統とb系統では異なり、それが後から見事に嵌め込まれたのだろう、ということである。もちろん、紫式部の天才があってできた奇蹟的作業である。
このa系統とb系統が弁証法の「正」と「反」の関係であることは誰でも分かる。
ではc系統とは何か。それは「本篇」最後の部分、光源氏の老年を描いた部分である。aもbも、青春期という点では同一だ。それに対立する老年の物語がc系統である。これまた「正」と「反」である。だが、「上昇」に対する「下降」を描いた物語的深化はあるが、真の意味での「合」ではない。いわば、仮の「合」だ。
ただ人間の一生を描くだけなら、いくら長く書いても、誕生から死までを描いても、それは読む人には「面白かった」で終わりだ。物語がただ正と反の連続では止揚は無い。それが通常の「物語」の限界である。だが、作者紫式部はもっと深いものを追究したかった。それは「人生に救いはあるのか」という問題だ。様々な幸福や不幸が積み重なって、死が来たら、それで人生が終わり、ではあまりに虚しい。特に、恵まれない人生を送った人間にとっての救いは何なのか。要するに、ここで作者は物語から文学へ、あるいは文学から哲学へと歩みを進めたのだ。それが、あの暗い「宇治十帖」の存在理由である。
作者は最初から、この「宇治十帖」は暗く、救いのない話だ、と断っているらしい。だが、それは表面上のストーリーであって、この「宇治十帖」において「源氏物語」はただの物語から哲学へと飛翔している。つまり、「合」がここにある。
「本篇」が「光源氏」という「光の世界」であるのに対し、「宇治十帖」は「無明の世界」である。ここに出てくる薫や匂宮は源氏の陰画やカリカチュアであり、本当の主人公は、大君、中の君、浮舟である。つまり、光源氏(男)が次々と手折って捨ててきたり面倒を見たりしてきた女たち、男を主人公とすれば、ただの脇役にすぎなかった女たちにとって生きる意味は何なのか、というのがここでの真の問題なのである。したがって、ここで初めて物語全体に真の結末、つまり弁証法的な「合」が与えられたわけだ。
描かれた人生を結論すれば、それは「無明」つまり「闇の世界」である。しかし、現生を無明と見ることは、それは当時のエートスから言えば仏(信仰)による救いしか解決は無い、という話になる。したがって、仏による救済の「暗示」が、物語全体での「合」ということになるだろうか。
「無明の世界」が人生への結論だ、というのはかなり救いのない思想であり、作者自身が本気でそう思ったかどうかは分からないし、それ以前に、この要約は私がかなり恣意的にまとめたものだから、大野晋の『源氏物語』とは掛け離れた内容になっている。(笑)
だが、「源氏物語」がそういうシンメトリカルな数学的構造を持った作品であることは確かだろう。
紫式部が漢学の深い教養を持っていたことはよく知られている。そして、漢文の特徴は「対句」である。対句は単なる表現法ではなく、物事を対比することで考察を進める思考法でもある。これは中国的弁証法だ。ならば、その思考法に慣れた紫式部の「源氏物語」が弁証法的構造を持っていることに不思議はない。
さらに付け加えれば、この「岩波現代文庫」の『源氏物語』には丸谷才一が解説を付けているが、これが小説の実作者の観点から、(全体的には絶賛しながら)大野晋の思考の欠陥を指摘している、という、本文の「正」に対する「反」の働きをしていて、これをも含めてこの本全体が弁証法的構造になっていて実に面白い。そして、最後の「合」は、もちろん読者の心に生じる思考である。(うまく、オチがついたかな。)


(追記)
大野晋はこの著作の中で「弁証法」という言葉は一度も使っていない。これは私が同作品のヒントで考えた「発展的考察」なので、私の言葉で同作品を読んで、騙された、と言わないように。だからこそ「最後の『合』は読者の心にある」と書いたのである。そんな『合』の無い読書など、つまらないではないか。
ついでに紫式部の「源氏物語」の構造を数式化しておく。a、b、c、dは本文中に書いた物語系列である。

① a:b
② (a+b):c
③ (a+b+c):d

という三つの弁証法的構造が積み重なって、一つの統一的作品を作る、という奇跡的な構成である。言うまでもないが、②は①に対して「合」となり、③は②に対しては「合」となるわけである。さらに、③に対する「合」を読者が考えることになるだろう。


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