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劇場型恋愛について(承前)

さて、右近の下の和歌だが、


わすらるるみをばおもはずちかひてしひとのいのちのをしくもあるかな


多くの人は、句読点や分かち書き、漢字無しでこの歌を読むと次のように読むのではないだろうか。漢字交じりで書くと、こんな感じ。(って、これは駄洒落ではない。)


忘らるる身をば思はず誓ひてし。人の命の惜しくもあるかな。


この読み方で、最初の句点の位置が間違っている、と判断できる人がどれくらいいるだろうか。
というのは、現代語で「思わず」は、「思わず○○してしまった」のように副詞的に使われることが多いから、「思わず」を「誓ひてし」に掛かる修飾語だ、と判断するのは大いにありそうだ、と私は思うのである。しかも、前回書いたように、我々は和歌の上の句と下の句の切れ目をそのまま意味の切れ目(句切れ)として読みがちだから、「~誓ひてし。」と句切ってしまうのではないか。
もちろん、古文に堪能な方なら、「誓ひてし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、終止形ではないから、ここが句切れではなく、「誓ひてし」は、次の「人」という名詞(体言)を修飾するものだ、と分かるのだが、ここでは「一般人」つまり、古文の勉強など、いい加減にしかしなかった人のことを言っている。
言うまでもなく、正しい読みは、「思はず」の「ず」が終止形だから、ここが句切れで、次のようになる。

忘らるる身をば思はず。誓ひてし人の命も惜しくもあるかな。


しかし、問題はそれでは終わらない。いったい「忘らるる」の主語(主体)は誰、「人」とは誰、という問題がある。それが分からないと、この歌は意味不明である。
そこで必要なのが、「古文世界の理解」というもので、言い換えれば、王朝(平安)文学の世界の(生活習慣・生活感情)理解だ。ただし、以下に書くことは、私の個人的な理解であり、こんなことは古文の参考書にはほとんど書いていないと思う。あるいは、私が無知なだけで、古文常識かもしれないが、私は読んだことは無い。
それは、「和歌とは基本的には個人的詠嘆を歌うものではなく、何よりも、誰かに宛てたメッセージである」ということ、「それらの歌が残ったということは、そのメッセージが、たとえ個人的なものでも、それは他の人にも知られることを前提として詠まれたものだ」ということである。これが恋の歌であるならば、それは「自分たちの恋を他人に披露する」という側面があった、というのが、私の「古文常識」なのである。
特に、平安文学における(いや、大和・奈良時代も含めて)歌に詠まれた恋愛は、その恋愛を「他人に披露し、人々を面白がらせる」という側面があったというのが私の推測である。これを私は「劇場型恋愛」と呼ぶことにする。
たとえば、額田王の有名な「茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る」は、おそらく宴会の席上で、座興として詠まれたものだろう、というのは、誰だったかは忘れたが、高名な大学の先生が言っていた説だ。私もそう思う。額田王をめぐる天智天皇と天武天皇(当時はまだ天皇ではないが)の心理的闘争が無かったとは言わないが、この歌が詠まれた時点では、額田王はかなりな年齢であり、大海人皇子(後の天武天皇)が額田王に「袖を振った」のも冗談なら、額田王が即座にそれを「たしなめて」みせたのも冗談に対する当意即妙の応答だったというのがたぶん、正しい解釈なのである。
これが「劇場型恋愛」の典型的なものだが、さて、「忘らるる」の歌もまた劇場型恋愛の歌だ、と私が思う理由は、そう解釈しないと、腑に落ちないからである。
前に書いた句切れで読むと、解釈は次のようになる。



現代語訳
あなたに忘れられる我が身のことは何ほどのこともありませんが、ただ神にかけて (わたしをいつまでも愛してくださると) 誓ったあなたの命が、はたして神罰を受けはしないかと、借しく思われてなりません。


上の解釈(現代語訳)の中の「借しく」はもちろん「惜しく」の誤植だが、原典を尊重してそのままにしておく。
それはともかく、この歌を純粋に個人的な歌(メッセージ)だと考えると、不自然に思わないだろうか。「あなた(ここでは『人』と言っている。つまり、『誰かさん』だ。)は私との恋の誓いを破ったのだから、神罰で死にますよ」と言っているのである。いかに、自分を振った相手だからと言って、ここまで言うだろうか。だから、私はこれを「多くの人に披露し、ウケることを狙った歌だ」と推理するのである。
現代人は恋愛というと、中島みゆきの或る歌のように「道に倒れて誰かの名を呼び続ける」ような壮絶なもの、あるいは失恋というと、『よつばと!』のよつばが言うように「あの、殺したり、死んだりするやつな」と思っているから、恋愛の和歌というものもその手の重苦しい、生きるか死ぬかのものと想像しがちだが、平安朝廷における恋愛の大半は、「遊戯的恋愛」だった、というのが私の考えだ。むしろ『蜻蛉日記』の作者のような、陰鬱な恋愛は稀な例外だったのではないか。もちろん、「死ぬの生きるの」という恋愛歌が和歌には多いのだが、それを本気で詠んだ、とは私は思わないのである。なぜなら、それらが「人々に知られ、遺されている」からだ。
そもそも、恋愛の和歌にはパターンがあり、それは「私はこんなにあなたを愛しているのに、あなたは私を愛していない」ということを手を換え品を換え言い表すことである。
だからといって、その恋愛が本気でないとは言えない。言えないが、「外野席をかなり意識した恋愛」であることは確かだ、と私は思っている。何しろ、狭い世界だから、それは当然ではないだろうか。
そもそも、「汝(なれ)の命」とか「君(公とも書く)の命」と言わないで、「人(誰かさん)の命」とぼやかしたところに、この歌が個人に宛てたメッセージではなく、自分の失恋をネタにして周囲の人々の笑いを誘う目的の歌だったという、私の「非常識」な解釈の出発点があるのである。
この歌に深い思い入れのある人には申し訳ない「実も蓋もない」解釈だが、それでこの歌の価値が下がるものではないだろう。
平安の恋愛和歌の解釈として、この『劇場型恋愛』の概念は、あるいは、なかなか画期的で有用なものではないだろうか。












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みつくくるとは

休日くらいは、のんびりとした話でも書くことにする。
最近、ネットテレビで私が見ているのは「ちはやふる」というアニメである。ちはやという芸者に振られた竜田川という相撲取りが豆腐屋になる、という話ではない。高校のカルタ部の話である。と言うより、カルタ・クイーンを目指す少女の話だ。その少女は顔はきれいだが色気の無い「残念美人」で、彼女をめぐって精神的暗闘をする二人の少年がいる、というような内容だが、まあ、恋愛になりそうで恋愛にならないモヤモヤ感がなかなか楽しい少女マンガのアニメである。いい年をした男がこんなのを見るのか、と笑われそうだが、漫画やアニメを楽しむのは年齢や性別とは無関係だ。その作品の出来が良ければ、多くの層に受け入れられる、ということである。
娘から聞いたところでは、この作品は海外でのファンが非常に多いらしい。百人一首(カルタ取り)という、日本人でも現代ではあまりやらないゲームが外国人に理解できるのか、不思議だが、このアニメの随所に出てくる「日本的な美」「日本的な詩情」が外国人を魅了するのではないか、と思う。そういう日本的な美感(風景の美、和歌の美)を実にうまく表現したアニメなのである。
さて、実はここからが本題である。
和歌はわからん、(これ、駄洒落ね)という人は案外多いのではないか?
実は私もそうだった。いや、今でもあまり分からないのだが、多分日本人の平均レベルよりは分かっていると思う。その程度の人間が言うのも何だが、和歌を理解できない、というのは一生の損である。もちろん、俳句も漢詩もすべてそうなのだが、古典文学というものは、少しでも理解できれば、それは一生の精神的財産になるのである。
で、和歌がわからん、というのにも理由があり、それは「歴史的仮名遣い」と「句読点の不使用」のためだ、ということを書いておきたいわけだ。その好例となりそうなことを、この前、仕事(単純な肉体労働で、何かを夢想しながらでもできる、という利点がある。)をしながらつらつら考えた。それが今回の駄文の動機だ。
先に、もう一つ和歌の読解のポイントを書いておけば、それは「初心者は、上の句と下の句の切れ目に捉われすぎる(囚われ過ぎる、と書くべきか)」ということである。和歌の意味の切れ目は必ずしも上の句と下の句で都合よく切れているわけではない。これは「句切れ」という、中学古典初歩の知識だが、これが理解できていない人は非常に多いと思う。それほど、我々は「5・7・5/7・7」という分け方が生理的に沁み付いているのである。これは俳句(あるいは連歌)の影響だろう。
さて、その例となる和歌だが、これについて書く内容についてはかなりな構想を頭の中で作り上げたはずなのに、肝心のその和歌が何だったのか、思い出せない。まあ、落語に出てくる、「ちはやふる」についての横丁のご隠居の講釈レベルだろうから、失われても日本の文学史にとっての大損失というほどではない。思い出したら、また書くことにする。


(追記)

歌だけは、今ネットで探し出したので、先に掲載しておく。和歌に不案内な方にこそチャレンジしていただきたいのだが、ぜひ、自分でこの歌の解釈をしてみてほしい。歌はひらがな書き(これが本来のものだろう。平安時代の貴族女性は漢字の知識はあまり無かったというから。ただし、厳密には、本来は濁点も用いていなかったはずである。)と、漢字交じりの二つを、少し離して転記しておく。




038 右近
原文

わすらるるみをばおもはずちかひてしひとのいのちのをしくもあるかな



忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
 




*句切れではないが、意味上の切れ目のヒントとして分かち書きにしたのが下のもの。ここまでくれば、解釈にかなり近づけるだろう。




忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな











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ヘレン・メリルの「夜来香」

「神州の泉」を読んでいたら、最後にこういう一節があったので、「我が同士ここにあり」と思ってしまった。
と言うのは、私がこの世で一番好きな歌は「夜来香」で、それに次ぐのが「蘇州夜曲」だからだ。念のために言うが、私はこれらの歌が流行った時代の人間ではない。私が子供のころには、これらの歌はすでにナツメロだったのである。だが、「夜来香」という歌は、誰が歌っても素晴らしい、世界最高の歌だと私は信じている。「蘇州夜曲」は、好きな歌だが、そういう世界性は無いと思う。まあ、好きな歌に優劣をつけること自体が野暮である。
「夜来香」の世界性を示すのが、ジャズシンガー、ヘレン・メリルの歌ったそれだろう。英語の歌詞で歌っているので、曲に乗らないところが少しあるが、その詞もなかなかいいので、それを手元のCD解説から書き写しておく。



YEA LEI SHANG

The southern wind is on my cheek
The flowers sway and leave me week
Weak with the fragrance of you and love
Oh Yea Lei Shang
Lovely flower of the night
A nightengale on silent wings
A mournful song to me she sings
She knows the story of you and love
Oh Yea Lei Shang
Lovely blossom of the night

Yea Lei Shang
My heart sings for you
Yea Lei Shang
May my dreams come true
How I kiss your lovely face
Hold you here in my embrace
 
(以下略。そのうち追加するかもしれない。)





(以下「神州の泉」より引用)



こんな辺境のブロガー、神州の泉が期待してもどうにもならないが、いつか千明せらさんのカバーで「蘇州夜曲」を聴いてみたい。(^^)





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正気の歌

昨日の教育勅語に続いて、「正気の歌」とくると、夢人は右翼になったか、と言われそうだが、教育勅語も正気の歌もべつに右翼専用というものではない。
文天祥の「正気の歌」は「せいきのうた」と読むが、私はこれを「しょうきのうた」と読んで、今の、正気(しょうき)を失ってキチガイだらけの世の中に贈るつもりである。

皇路當淸夷 含和吐明庭(皇路清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く)

私は学者ではないし、手元に資料も無いから適当に書くが、「皇路清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く」の「夷」とは異民族のことで、「清夷」とは、「夷」を清める、すなわち「征夷」と同義だと思う。(漢文では「同音の語を同義に転用する」ことがよく行われる。「夷」の捕虜となっていた文天祥が、この詩の検閲に配慮して「征」の字を「清」に変えたのだろう。また原詩と書き下しでは「庭」が「廷」になっているが、そちらは誤植だろう。まあ、どちらも「てい」の音だから漢文的にはさしつかえない。)
その他の部分については訳詩を見ればいい。見事な訳だと思う。原詩は読みにくいのだから、訳詩だけ読めば十分であり、気に入った部分だけ原詩を読む、というのがいいだろう。
今の日本は、国民全員が異民族の政治的経済的精神的捕虜になったようなものであるから、文天祥が夷の捕虜になっても「正気」を失わず、名を青史にとどめた故事を知るのもいいのではないか、ということである。



 

(以下引用)

正気の歌

提供: Wikisource
移動: 案内検索 ば   
正気の歌(せいきのうた)
原文書き下し文
天地有正氣 雜然賦流形天地に正気有り 雑然として流形を賦く
下則爲河嶽 上則爲日星下りては則ち河嶽と為り 上りては則ち日星と為る
於人曰浩然 沛乎塞蒼冥人に於ては浩然と曰い 沛乎として蒼冥に塞つ
皇路當淸夷 含和吐明庭皇路清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く
時窮節乃見 一一垂丹靑時窮すれば節乃ち見れ 一一丹青に垂る
在齋太史簡 在晉董狐筆斉に在りては太史の簡 晋に在りては董狐の筆
在秦張良椎 在漢蘇武節秦に在りては張良の椎 漢に在りては蘇武の節
爲嚴將軍頭 爲嵆侍中血厳将軍の頭と為り 嵆侍中の血と為る
爲張睢陽齒 爲顏常山舌張睢陽の歯と為り 顔常山の舌と為る
或爲遼東帽 淸操厲冰雪或いは遼東の帽と為り 清操氷雪よりも厲し
或爲出師表 鬼神泣壯烈或いは出師の表と為り 鬼神も壮烈に泣く
或爲渡江楫 慷慨呑胡羯或いは江を渡る楫と為り 慷慨胡羯を呑む
或爲撃賊笏 逆豎頭破裂或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎の頭破れ裂く
是氣所旁簿 凛列萬古存是の気の旁簿する所 凛列として万古に存す
當其貫日月 生死安足論其の日月を貫くに当っては 生死安んぞ論ずるに足らん
地維頼以立 天柱頼以尊地維は頼って以って立ち 天柱は頼って以って尊し
三綱實係命 道義爲之根三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る
嗟予遘陽九 隷也實不力嗟 予 陽九に遘い 隷や実に力めず
楚囚纓其冠 傳車送窮北楚囚 其の冠を纓し 伝車窮北に送らる
鼎鑊甘如飴 求之不可得鼎鑊 甘きこと飴の如きも 之を求めて得可からず
陰房闃鬼火 春院閟天黑陰房 鬼火闃として 春院 天の黒さに閟ざさる
牛驥同一皂 鷄棲鳳凰食牛驥 一皂を同じうし 鶏棲に鳳凰食らう
一朝蒙霧露 分作溝中瘠一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん
如此再寒暑 百沴自辟易此如くして寒暑を再びす 百沴自ら辟易す
嗟哉沮洳場 爲我安樂國嗟しい哉沮洳の場の 我が安楽国と為る
豈有他繆巧 陰陽不能賊豈に他の繆巧有らんや 陰陽も賊なう不能ず
顧此耿耿在 仰視浮雲白顧れば此の耿耿として在り 仰いで浮雲の白きを視る
悠悠我心悲 蒼天曷有極悠悠として我が心悲しむ 蒼天曷んぞ極まり有らん
哲人日已遠 典刑在夙昔哲人 日に已に遠く 典刑 夙昔に在り
風簷展書讀 古道照顏色風簷 書を展べて読めば 古道 顔色を照らす
 
通釈

この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。
それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。
人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。
政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、
時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。
例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。
秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。
断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。
食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。
ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、
ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。
またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、
更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。
この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。
それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。
地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。
君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。
ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、
かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。
釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、
日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。
牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。
ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。
そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。
ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。
何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。
何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。
茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。
賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。
風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。

  • 2句をもって1行とした。





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魔子への歌

大杉栄の「日本脱出記」は、洒脱な名文で、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」を思わせる風情がある。ぜひ、文庫本化して、多くの人に読ませたい文章である。もっとも、すでに文庫本化されているかもしれないが。
その中では、パリの牢屋の中でのノンシャランな物思いを書いた「牢屋の歌」の部分が面白いが、長くなるので、同じく牢屋の中で、自分の6歳の娘、魔子(この命名も凄いね。緑魔子という女優もいたが)に宛てて書いた詩だけ引用する。(「スパスパ」の後半は繰り返し記号、つまり踊り字だが、ワードには該当する踊り字が無いので、表記を変えた。)
なお、パリの牢屋ではこの詩の通り、料理の差し入れが許され、酒、タバコも自由であったようだ。日本の牢屋とは大違いのようである。




魔子よ、魔子
パパは今
世界に名高い
パリの牢やラ・サンテに。

だが、魔子よ、心配するな
西洋料理の御馳走たべて
チョコレトなめて
葉巻スパスパ ソファの上に。

そして此の
牢やのお陰で
喜べ、魔子よ
パパは直ぐ帰る。

おみやげどっさり、うんとこしょ
お菓子におべべにキスにキス
踊って待てよ
待てよ、魔子、魔子。









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聖書「雅歌」より





・視よ 冬すでに過ぎ 雨もやみてはや去りぬ もろもろの花は地にあらはれ 鳥のさへづる時すでに至り 山鳩の声われらの地に聞こゆ






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春風馬堤曲

「小さな資料室」から転載。
ようやく春になったこの頃の気候にふさわしいか、と思っての転載である。コピーの際に注の部分が見づらくなってしまったが、高校で古文を学んだ人なら原文で十分に理解できるだろう。
これは、俳句と散文と漢詩などをコラージュした詩(漱石の「猫」では、明治時代に流行した「新体詩」の先駆けのようなもの、としている。)であり、江戸時代にこのような作品を作った蕪村の独創性に驚かされる。最後の一句は蕪村の知人であった太祇のものであるが、他人の句で自分の「詩」の最後を飾るという、現代の詩人ではまず考えられない離れ業だ。(もっとも、西脇順三郎がキーツの詩の一節を自分の詩に引用した例はある。「『覆された宝石』のような朝」というフレーズがそうだという。)
長柄川に沿う、馬堤の上を春風に吹かれながら故郷に帰る若い娘の浮き浮きとした気分、故郷で自分を待つ母親の姿を見た喜びが、時間と風景の流れの中でさりげないドラマとなっていく。しかし、よく読むと、最後のクライマックスに至る布石が見事に敷かれているのである。「親鳥と雛」「たんぽぽの『乳』」そして、最後に待ち受ける


嬌首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
 待春又春



その夜は、この薮入りの娘は老いた母と枕を並べて寝て、幼い頃に帰っただろう。





(以下引用)



資料335 与謝蕪村「春風馬堤曲」





 


        春風馬堤曲   
                
謝  蕪  邨





 


    余一日問耆老於故園。渡澱水
    過馬堤。偶逢女歸省郷者。先
    後行數里。相顧語。容姿嬋娟。
    癡情可憐。因製歌曲十八首。
    代女述意。題曰春風馬堤曲。


   
春 風 馬 堤 曲  十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤
ヨリ摘芳草  荊與蕀塞路
 荊蕀何妬情    裂裙且傷股
○溪流石點々   踏石撮香芹
 多謝水上石   敎儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
 無恙を賀し且儂が春衣を美ム
○店中有二客   能解江南語
 酒錢擲三緡   迎我讓榻去
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
○呼雛籬外鷄   籬外草滿地
 雛飛欲越籬   籬高墮三四
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得す去年此路よりす
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋邊財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
○郷を辭し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
○故郷春深し行々て又行々
 楊柳長堤道漸くくだれり
○嬌首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
 待春又春
○君不見古人太祇が句
  藪入の寢るやひとりの親の側



 


 


 




(書き下し文・読み仮名付き本文)

   春 風 馬 堤 曲 

  余、一日
(いちじつ)、耆老(きらう)を故園に問ふ。
  澱水
(でんすい)を渡り馬堤(ばてい)を過ぐ。偶(たま
   たま)
(ぢよ)の郷(きやう)に歸省する者に逢ふ。
  先後して行
(ゆ)くこと數里、相(あひ)顧みて語る。
  容姿嬋娟
(せんけん)として、癡情(ちじやう)(あはれ)
   
むべし。因(よ)りて歌曲十八首を製し、女(ぢよ)
  に代はりて意を述ぶ。題して春風馬堤曲と曰
(い)
   
ふ。
  


   春 風 馬 堤 曲  十八首

○やぶ入
(いり)や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
○春風や堤長うして家遠し
○堤より下りて芳草を摘めば 荊
(けい)と蕀(きよく)と路を塞(ふさ)
 荊蕀何ぞ妬情
(とじやう)なる 裙(くん)を裂き且(か)つ股(こ)を傷つく
○溪流石點々 石を踏んで香芹
(こうきん)を撮(と)
 多謝す水上の石 儂
(われ)をして裙(くん)を沾(ぬ)らさざらしむ
○一軒の茶見世の柳老
(おい)にけり
○茶店の老婆子
(らうばす)(われ)を見て慇懃に
 無恙
(ぶやう)を賀し且(かつ)(わ)が春衣を美(ほ)
○店中二客有り 能
(よく)解す江南の語
 酒錢三緡
(さんびん)(なげう)ち 我を迎へ榻(たふ)を讓つて去る
○古驛三兩家
(さんりやうけ)猫兒(びやうじ)妻を呼ぶ妻來(きた)らず
○雛
(ひな)を呼ぶ籬外(りぐわい)の鷄(とり) 籬外草(くさ)地に滿つ
 雛飛びて籬
(かき)を越えんと欲す 籬高うして墮(おつること)三四
○春艸
(しゅんさう)(みち)三叉(さんさ)中に捷徑(せふけい)あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲
(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得
(きとく)す去年此路(このみち)よりす
○憐
(あはれ)みとる蒲公(たんぽぽ)莖短(みじかう)して乳を浥(あませり)
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍
(くわいはう)別に春あり
○春あり成長して浪花
(なには)にあり
 梅は白し浪花橋邊
(なにはきやうへん)財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
(なにはぶり)
○郷
(きやう)を辭し弟(てい)に負(そむ)く身(み)三春(さんしゆん)
 本
(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々
(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)
 楊柳
(やうりう)長堤道(みち)漸くくだれり
○嬌首
(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
 戸に倚
(よ)る白髮(はくはつ)の人弟(おとうと)を抱(いだ)き我を
 待
(まつ)春又春
○君不見
(みずや)古人太祇(たいぎ)が句
  藪入の寢
(ぬ)るやひとりの親の側(そば)


 


 


 


 


 


 


 


 


 




    (注) 1. 上記の与謝蕪村「春風馬堤曲」の本文は、講談社版『蕪村全集 第四巻』(1994
          年8月25日第1刷発行)によりました。ただし、本文の振り仮名は省き、漢字は新字
          体を旧漢字に改めました。
         2.  本文の平仮名の「こ」を縦に潰した形の繰り返し符号は、「々」に置き換えてあり
          ます(點々、三々五々、行々)。また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符
          号は、普通の平仮名に置き換えてあります(むかしむかし)。
         3. 「荊蕀何妬情」については、全集の頭注に、「「妬情」はやきもち。寺村家本に蕪村
          自筆で「無情」(つれない)と朱で訂正する(頴原ノート)」とあります。従って、「荊蕀
          何無情」としてある本文もあります。
           全集の本文には、「妬」の右に「(無)」としてあります。 
         4. 「春風馬堤曲」の読み方は、「しゅんぷうばていきょく」「しゅんぷうばていのきょく」
          の両方の読みがあります。手元の書物では、
           「しゅんぷうばていきょく」と読んでいるもの
             揖斐 高 校注・訳『蕪村集 一茶集』
(日本の文学 古典編、ほるぷ出版、1986年) 
             尾形仂・校注『蕪村俳句集』
(岩波文庫、1989年) 
             尾形仂 山下一海・校注『蕪村全集 第四巻』
(講談社、1994年)
           「しゅんぷうばていのきょく」と読んでいるもの
             清水孝之・校注『与謝蕪村集』
(新潮日本古典集成、1979年)
         5. 与謝蕪村(よさ・ぶそん)=江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のち
              に改姓。別号、宰鳥・夜半亭・謝寅・春星など。幼時から絵画に長じ、文人画
              で大成するかたわら、早野巴人
(はじん)に俳諧を学び、正風(しょうふう)の中興を
              唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。著「新花つみ」「た
              まも集」など。(1716-1783)            
 (『広辞苑』第6版による。)
         6. 春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)=俳詩。与謝蕪村作。「夜半楽」(1777年
              (安永6)刊)所収。藪入りで帰郷する少女に仮託して、毛馬堤(現、大阪市)の
              春景色を叙した、抒情性豊かな郷愁の詩。      
(『広辞苑』第6版による。)
            
春風馬堤曲(夜半楽)=蕪村が安永6年の春興帖として出した俳諧撰集「夜半楽」
              (半紙本1冊)に、正月の夜半亭歌仙1巻、春興雑題43首、澱河歌などととも
              に収められている。小冊子でありながらこの書が知られているのは、実は「馬
              堤曲」と「澱河歌」のあるがためである。「馬堤曲」の制作は同年正月と推定さ
              れ、帰郷の藪入娘に仮託して、蕪村みずからがその郷愁をうたったものであ
              る。俳句と漢詩とが見事にとけあい、和詩として最高の地位を占めるものとい
              っても過言ではない。          
(日本古典文学大系の「出典解題」による。)

         7. 資料334に、与謝蕪村「北寿老仙をいたむ」があります。




(追記)前説に書いた、「覆された宝石のような朝」は、これ全体ではなく、「覆された宝石」の部分が引用だったと思う。つまり、「『覆された宝石』のような朝」という詩句だったと記憶している。紛らわしい文章を書いて済まない。手元に何の本も無く、記憶だけで書くことが多いので、こういうドジをよくやる。



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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