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或る作家の一生

別ブログに書いたものだが、こちらにも載せておく。



下に書くのは、「ちくま文学の森」の「もうひとつの話」に出てくる、或る作家の簡単な紹介だが、その生涯があまりに悲惨すぎて、ナンセンスの域に達している。ついでに、その作家の作品の一節もその下に抜き書きしておくが、こちらもナンセンス・ユーモアに満ちている。


「ドイツのハンブルグに生まれる。実業学校を出て俳優をめざした矢先に召集を受け、東部戦線へ送られる。負傷して国内送還。この間、兵役忌避の疑いで死刑になりかかる。重禁固六週間、出獄後、再び前線へ送られ、病にかかり国内送還。退院後、またもや前線。ついでナチス誹謗のかどでベルリンの刑務所。出獄後、前線へ。戦争が終わったのち、故郷ハンブルグの病院に入院。療養のためバーゼルに転じたが、そこで死去。二十六歳だった。死の前年、短期間に書いたのが一つの戯曲と五十あまりの短編。」



二人(伯父と給仕)が初めて知合になったとき、わたしはそばについていた。その当時わたしの背は、ちょうど鼻がテーブルにのるようになったばかりだった。もっともテーブルがきれいなときでないと鼻はのせられなかった。むろんテーブルはそういつもきれいではあり得なかった。またわたしの母にしても、わたしにくらべて、たいして齢をとってはいなかった。むろんいくらかは齢は上だった。      
           (ボルヒェルト「シシフシュ」小松太郎訳)




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実写版「ハイジ」のこと

実写版「ハイジ」が公開されているが、知名度が低いようなので、宣伝協力として、半年ほど前に別ブログに書いた記事を転載する。




実写版「ハイジ」と実写版「アン」
これはかなり良さそう。アニメの「ハイジ」の影響が見られるが、そこが良い。もはや、あのアニメのイメージから離れると、「コレジャナイ」感がひどくて、見られないだろう。欧米の観客にとってもそうだと思う。(「ハイジ」のアニメはあまりになじまれているため、あちらの子供たちには欧米作品だと思われているという。)ペーターがかなり不細工な顔であるのも悪くない。なまじ美少年にすると、ペーターのあのアホさとの違和感が強くなるだろう。アルムおんじは、このイメージで完璧だろう。
ハイジも、ほぼ完璧ではないか。笑顔が可愛い。
クララは少し惜しい。もう少しだけ年齢を下げたほうが良いように思う。顔がおばさん臭い。

なお、ネットフリックスで実写版「赤毛のアン」もやっているが、ダイアナがインド系の顔の不細工な少女なので、第二回以降は見ていない。アンは原作に近いイメージであるし、マリラやリンド夫人はほぼ完璧なのだが、マシューとダイアナが良くない。それに、原作に無い話(アンがフランス人の雇われ少年に悪態をつく場面)を入れており、脚本家や監督が「自分の味」を出そうとする、失敗作にはおなじみの悪いパターンになっている。



これがスイスの本気! 21世紀版実写「アルプスの少女ハイジ」が8月公開

くしゃっとした髪型とそばかすが印象的な21世紀のハイジ。

[西尾泰三ねとらぼ]


 世界中で愛されるヨハンナ・スピリの名作児童文学「アルプスの少女ハイジ」の最新実写映画「ハイジ アルプスの物語」(原題:HEIDI)が、8月に日本で公開されることが決定しました。これがスイスの本気……。



ハイジとアルムおんじ むしろアルムおんじがハイジがかわいくてしょうがない感



 これまでに世界で約60言語に翻訳され、5000万部以上発行されている同作は、日本でも1974年に高畑勲、宮崎駿らの手でアニメーション化され人気に。21世紀版ハイジとしてスイスが情熱とプライドを掛けて製作したのが今作です。




 アルプスの山の大自然に囲まれ、ガンコだけれど優しい祖父(アルムおんじ)と楽しく暮らすハイジが、大富豪のお嬢さま・クララの話し相手として、フランクフルトの都会へ連れていかれることに。クララとの友情をはぐくむも、アルムおんじの待つアルプスの山を恋しがるストーリーとなっています。



ハイジとクララ ハイジとクララ
ハイジとペーター 山道でもへっちゃらなヤギを連れるハイジとペーター



 同作でくしゃっとした髪型とそばかすが印象的なハイジを演じるのは、500人の候補の中から選ばれたアヌーク・シュテフェン。アルムおんじは「ヒトラー ~最期の12日間~」のブルーノ・ガンツ。その他、公開された場面写真では、クララやヤギ飼いの少年ペーターの姿もみられます。




 スイス人監督のアラン・グスポーナーは、原作の根底には“抑圧からの解放”と“自分の居場所を見つける”という普遍的なテーマがあるとしており、今作でもそれが描かれるようです。



(C)2015 Zodiac Pictures Ltd / Claussen+Putz Filmproduktion GmbH / Studiocanal Film GmbH


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俳句とはこういうものでもある

高橋春男は、もちろん知る人ぞ知る、知らない人は知らない漫画家だが、その俳人としての才能を知っている人は少ないかと思う。
石寒太が宗匠を務めた「七人の句会」の句会の内容をまとめた「冷や酒と君の科白は後で効く」の中でも高橋春男の作品は私としては一番の好みである。ただし、俳句に「深い人生の観照」を求めるような旧式の俳人やアマチュア俳人には好まれないだろう。ある意味、与謝蕪村的な「フィクション俳句」が彼の骨頂なのである。そして、彼の俳句のユーモアもまた一般人には好まれないだろう。「俳句とはもっとまじめなものだ」と毛嫌いされるかと思う。


上記の本の中から、彼の作品と、他の人の作品から私が好ましく思った作品を幾つか挙げておく。

まず、高橋春男の句。

春の風邪ひねもす寝たり寝たりかな

夕焼けに鳴る目覚ましやドラキュラ城

包帯を解いてミイラの夕涼み

突っつくと崩れる芸者冷や奴

軒下で父は揺れけり釣忍

好きですと言えずにすすすすすきかな (表記を少し変えた。「すすす薄かな」でもいい)

以上は「七人の句会」で詠まれたものではなく、この句会では少し真面目な作品を提出しているが、彼の美質はこうした「遊び心」にこそあり、それは江戸俳句にはあったが現代俳句から失われた特質である。その復興の旗手になれる才能だと私は思う。
少し真面目な作品を幾つか挙げる。


変声期煙草にむせる西日かな

清貧の人の机に柚子二つ

つくし野に狸が開く書道塾

道づれは御伽草子と春の月

旧友も少し壊れて卯月波

目覚めれば輪廻の果ての蝸牛

何度でも死ねたらいいね更衣

ひれ酒に鼻からゆるむしかめ面

紅をひく女の顔の小春かな

福寿草抱いてバス待つ人の妻


「何度でも死ねたらいいね更衣」は、蕪村の「お手討ちの夫婦なりしを衣替へ」を連想させる。衣替えという「毎年繰り返される行事」と、死という「一回きり」の出来事の対比が素晴らしい。
「目覚めれば輪廻の果ての蝸牛」は、もちろん、六道輪廻の果てに虫に生まれた絶望感を描いているわけだが、カタツムリのあの「ぐるぐる模様」が、輪廻の見事な象徴的形象になっている。

ついでに、「七人の句会」の他の人たちの作品の中から、私好みの作品を幾つか挙げておく。


福寿草五人姉妹の目が笑ふ (吉行和子)

福寿草という目出度い名前の花と「五人姉妹」が実に見事に調和し、「目が笑ふ」で穏やかな幸福感をかもしだしている。

ゲイバーのトイレの窓に春の月 (吉川潮)

「ゲイバー」と「トイレ」という、俗の極みが「春の月」との対比で詩になっているところが、まさに俳句である。












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黒白の画面で光と影を表現すること

某サイトで読める、新作漫画の第一話の1頁だが、最後のコマが素晴らしい。全体に画力の高い漫画家だと思うが、このコマにおける空の表現、陰影の表現は、カラー原稿以上に色彩と光と影を伝えている。漫画の題は「イサック!」。中世の欧州に渡って傭兵となって戦う日本の侍の話らしい。








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小説の中の「現実以上の世界」

大江健三郎の「小説の経験」という本の中に書かれているエピソードだが、外交官を引退した大江の友人が、「文学再入門」をしたい、と言い、次のようなことを述べる。

「外交官としての現実の経験と知識がいくらかはかさなっている以上(夢人注:「経験と知識をいくらかは重ねている以上」、と言うのが自然だと思うが、私の勘違いだろうか。)そこに照しあわせながら、あらためて文学の基本的なそれも大切なところを押さえた眺めを、新しい心と感覚でたどってみたい」「そうすることで自分の引退後の人生に必要なものをかちとりうるような気がする


同じく、大江の知人女性も次のように言う。

「このところ日々の忙しさにまぎれて本も読めない年月が過ぎたけれど、女学生のころに読んだこの国や世界の名作をもう一度読んでから、この生を終わりたい」「障害を持っている子供の世話にかまけてなにも深いことは考えず、追いたてられるようにして生きてくるうちに、それでも不思議なことですけど、いまならトルストイのことがよくわかるのじゃないか、それだけの心と身体の経験はかさねているのじゃないか、という気がしますから」


この二人は、「生涯の最後を、かつて読んだ本を新しい眺めのもとで読んで終わりたい」という点で共通している。この二人にとって、本の中の世界は現実人生以上の、「高度な人生」であり、若いころに十分に味わえなかったそれを思い切り味わってから死んでいきたい、と思っているわけだ。「新しい心と感覚で」かつて読んだ本を再読する。私もやってみたいことであり、しかも容易にできるはずだが、それには「落ち着いた心」が必要であり、今の私にはまだ覚悟が十分ではない。

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或る少女の「詩」





母親を毒殺しようとした少女のブログより抜粋(文中の「僕」は少女自身。表記は、転記ミスがなければ原文のまま)



7月26日
暗闇の大木に揺ら揺らと紅い光を馳せて蝉が光る茶色く干乾びた其の体に命の残り火を燻らせニイと啼く木々の沈黙の中其の声は雨の様に僕の下へと降り注ぐ

8月25日
変な夢を見ました。僕が彼女を食べる夢です。僕は彼女を手、足、胴体、頭の順に食べました。細い腕は魚みたいに痙攣していて、引きちぎれても未だ動きました。

8月31日
暗い部屋で、蝋燭の炎を見る。ゆらゆら、ゆらゆら、おもしろいよ…

9月4日
生き物を殺すという事、何かにナイフを突き立てる瞬間、柔らかな肉を引き裂く感触生暖かい血の温度。漏れる吐息。すべてが僕を慰めてくれる。

9月27日
隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である。見つけられることは危険である。しかし其の逆に、自分が存在していることを確認するためには、誰かに見つけられるしかない。

10月某日
星が空から落ちる。兔たちはオーブンの中で草むらの記憶さえも硬化させる。

10月某日
人は輪になって踊る。丘の上で死体を数え、微笑みながら飲み交わす。撃ち殺された男の匂い、引き裂かれた女の匂い。

10月16日(最後の書き込み)
蒼ざめた馬の通る道に、規則は存在しない。暗闇を進む足跡は草木を枯らし、死を招く。其処に生命は宿らない。在るのは寂しい同じ形。     

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巷に雨の降るごとく

前に書いた、「ひとりの夜を短歌と遊ぼう」に出てきた歌で、専門歌人の歌だと思う(有名な歌らしい)のだが、非常に気に入ったのが、大西民子という人の次の歌である。


妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか


まるでヨーロッパ映画(と言えば、当然フランス映画だが、それも20世紀までのフランス映画だ。)を見るような、しみじみとした抒情性に溢れた歌である。
当然、別れた男女が再会し、その男のほうは今は妻を得てユトレヒトに住んでいる、ということを聞いた後、その男と別れてひとりになった女性が雨の降る窓景色を見ての述懐だが、雨がこの上ない舞台背景になっている。現代の文学や映画に欠けているのが、こうした詩情である。(もっとも、私は真面目な文学は読まないから知らないだけで、あるいは村上春樹などにはこの種の詩情があるのかもしれない。)
雨は昔から抒情的なものである。「雨の朝パリに死す」と聞いただけで、なるほど、美しい死に方だ、と思ってしまうのは私だけではないだろう。
「ユトレヒト」という地名も絶妙であり、この歌には「ユトレヒト」以外は合わないだろうな、と思う。「かそけき」印象を与える名前だ。そういう音調の印象を感じるのは日本人だけだろうが。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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