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遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ。

前の記事で古文文法の話をしたせいか、古典が少し懐かしくなって、自分が昔書いた文章を読み直すと、なかなか悪くない。頭の進歩が無いのかもしれないww


おそらく作者は遊ぶ子供の中に、過去の自分の、生きることを純粋に楽しんでいた至福の時間を見出したのでしょう。確かに、様々な大人の仕事にも意義はありますが、そのほとんどは食うための仕事であって、生きる目的ではありません。おそらく大人にとっても、遊ぶことだけが、生きることの唯一の意義なのです。それが、子供を見ているとわかるのです。


年を取ると、「純粋に、子供のような気持ちで遊ぶ」ことが難しくなるように思う。



(以下、再掲載)



古典の花園2 第一章

第一章 歌と謡


 遊びをせむとや生まれけむ。戯れせむとや生まれけむ。
 遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそゆるがるれ。  (「梁塵秘抄」)

「梁塵秘抄」は後白河法皇が編纂した歌謡集で、言ってみれば当時のポップスの歌詞を集めたようなものです。和歌のように高級なものとはされていない俗謡を集めたものですが、その中には、一度聞くといつまでも忘れがたい作品がいくつかあります。この「遊びをせむとや」はその代表でしょう。取りあえず、和歌以外の俗謡を「謡」と呼ぶことにします。この「遊びをせむとや」の謡がなぜ人々の心を打つのか、という分析をするのも野暮ですが、おそらく作者は遊ぶ子供の中に、過去の自分の、生きることを純粋に楽しんでいた至福の時間を見出したのでしょう。確かに、様々な大人の仕事にも意義はありますが、そのほとんどは食うための仕事であって、生きる目的ではありません。おそらく大人にとっても、遊ぶことだけが、生きることの唯一の意義なのです。それが、子供を見ているとわかるのです。「子供は大人の親である」、という有名な言葉もありますが、子供の中には大人のすべてがあると言えるでしょう。
訳は不要かも知れませんが、一応書いておきましょう。もとの古文には句読点はありませんが、現代人には句読点が無いと読みにくいので、私が句読点を補足しました。訳では二つの「けむ」の後の読点の部分も句点に変えてあります。文法的説明を加えるなら、「けむ」は過去推量(~タノダロウ)の助動詞、末尾の「るれ」は自発(感情などが自然と湧き起こること)を表す助動詞「る」が係助詞「こそ」のために已然形になったものです。ただし、文法的説明がうるさく思うなら、今後は読み飛ばしてください。

(訳)遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。戯れをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。無心に遊んでいる子供の声を聞くと我が身までも自然と動き出してくるようだ。


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「蛍の光」の歌詞

私は夜早く寝て深夜に起きて一日を始める習慣だが、起きてしばらくしてからなぜか「蛍の光」の曲と詞が頭の中に流れて止まないので、その理由を考えると、昨日、たまたま見ていたアニメの南北戦争の場面でこの曲が流れていたような記憶がうっすらとある。何事も、原因はあるものだ。
で、「蛍の光」の日本語版の歌詞は、掛詞などが駆使されて凝った詞だよなあ、と思ってあれこれ考えたのだが、実は1番2番しか覚えていなかったことを、今ネットで調べて知った。
しかも、3番4番となると、当時の軍国思想丸出しで、歴史的資料としての価値はあるだろうが、とても今の時代に人前で歌えるような歌詞ではない。
その歌詞と解説を「ヤフー知恵袋」記事から抜粋して載せるが、歌詞解説の中で、第4連の「いたらん国」を「日本の支配が及ばない国」と訳しているのは誤訳だと思う。

この歌詞は文語で書かれており、文語の「ん」は「む」と同じで、「推量・意思・仮定・婉曲」などの意味がある。「打消し」の意味は無い(と思う)。「ん」を打消しと思ってしまうのは、打消しの「ぬ」が口語(現代語)では「ん」と音便変化したための錯覚だろう。「俺は行かぬ」を「俺は行かん」と言う類である。従って、「いたらん国」は「日本の支配が及ばない(「及ばぬ」)国」ではなく、「至らむ国」つまり、「あなたが行くであろう国」の意味で、「ん」は婉曲の「む」だと思う。
ついでに言うと、同じく第4連の「わがせ」を「男性のみなさん」としているのも誤りだろう。「背」は「愛する人(男性)」という、「特定の人」を表すのであるから、「男性のみなさん」すべてを「せ」と言うことは無いと思う。まあ、男なら誰でも愛するという博愛主義者(ビッチとも言うww)の女性の言葉と解釈したのかもしれないwww

要するに、「蛍の光」の歌詞は、卒業だけに限らず、様々な「別れ」を歌ったものであり、第4連は国の守りのために軍務に就く兵士の妻の別れの言葉だろう、と思う。万葉集の防人の妻の歌をイメージしているのではないか。




(以下引用)

【音楽・言語】『蛍の光』の歌詞の意味を教えてください。


  •  


rtgbb847さん


2009/1/519:42:23



【音楽・言語】『蛍の光』の歌詞の意味を教えてください。


スコットランド民謡の『蛍の光』の歌詞の意味を教えてください。

なんだか「夏は蛍の光で書きモノをして、冬は雪の光で書きモノをする。」というイメージが付近で根強いので、本当の意味をお願いします。


補足風の便りで聞いたのですが、『蛍の光 窓の雪』は『ろうそくの火が雪に反射して、その光を利用して書きモノをする。』だという線もあるそうです。
そのことについてはどう思われますか?


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お礼:
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ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2009/1/523:54:42



【歌詞】

1)蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れゆく

2)とまるも行くも 限りとて
互みに思う 千万の
心のはしを ひとことに
幸くとばかり 歌うなり

3)筑紫のきわみ 陸の奥
海山遠く へだつとも
その真心は へだてなく
ひとえに尽くせ 国のため

4)千島の奥も 沖縄も
八洲のうちの まもりなり
いたらん国に いさおしく
つとめよわがせ つつがなく

【歌詞の意味】

1)蛍の光や雪に反射して窓から差し込む月の光を使って
書物を読む日々を重ねていると
いつの間にか年月が過ぎ去っていき
今朝は杉でできた扉を開けてクラスメートと別れていく

2)ふるさとに残る者もふるさとから出るものも
今日限りでお別れということで
互いに思う何千、何万という
心の端々をたった一言
「無事で」とばかりに歌うのである

3)九州の果てであろうと東北の奥であろうと
海や山が遠く隔てたとしても
真心だけは場所に関係なく
ひたすらに力を尽くせお国のために

4)千島列島の奥も沖縄も
日本の支配下にある
日本の支配が届かない国には勇敢に
「仕事」をしてください男性のみなさん、どうぞご無事で

ということです。

スコットランド民謡【Auld Lang Syne】の日本語訳
は、以下をどうぞ。

Should auld acquaintance be forgot,
懐かしい友を 忘れるだろうか
And never brought to mind?
二度と 思い出さなくなるだろうか
Should auld acquaintance be forgot,
懐かしい友を 忘れるだろうか
And auld lang syne!
遠いあの日のことまでも!

Repeat:
For auld land syne, my dear,
友よ 遠いあの日のために
For auld lang syne,
遠いあの日のために
We'll tak a cup of kindness yet,
変わらぬ友情に杯をあげよう
For auld lang syne!
遠いあの日のために

And surely ye'll be your pint-stowp,
さあ、君はその盃を
And surely I'll be mine,
僕はこの盃を
We'll tak a cup of kindness yet,
変わらぬ友情に杯をあげよう
For auld lang syne!
遠いあの日のために

(Repeat)

We twa hae run about the braes,
丘のふもとを駆け
And pou'd the gowans fine,
ひなぎくを摘んだね
But we've wander'd monie a weary fit,
やがて、苦しい旅が始まった
Sin auld lang syne.
遠いあの日から

(Repeat)

We twa hae paidl'd in the burn
小川で遊んだこともある
Frae morning sun till dine,
朝から昼までずっと
But seas between us braid hae roar'd
今では、二人を広い海が隔ててしまった
Sin auld lang syne.
遠いあの日から

(Repeat)

And there's a hand, my trusty fere!
誠実な友よ この手をとって
And gie's a hand o' thine!
そして 君の手を私に
And we'll tak' a right gude-willie waught,
心ゆくまで 友情の杯を重ねよう
For auld lang syne.
遠いあの日のために

(Repeat)

《追記》
○蛍の光 窓の雪
これは、灯油も買えなかった苦学生が蛍を捕まえてその光を利用したり、
窓から差し込む雪の照り返しを利用したりして夜も勉強をし、
その人は立派な役人になったという中国の有名な故事を元にした歌詞です。
『蛍雪の功(けいせつのこう)』という言葉としても残っています。
ろうそくを指す言葉が見当たらないので、
蛍の光と雪の照り返しが妥当だと思います。



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自然の中で迷子になった人間

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
私は、「ギャラリー酔いどれ」に、見慣れたタッチだが初見の絵が出ていると、誰の作品か、名前を見る前に推理する、ということをよくやるのだが、この絵の風景の不穏な感じが、「酔いどれ」ブログにしばしば出てくるアーロン・ウィーセンフェルドとか何とかいう画家の感じだなあ、と思っていたら、大間違いで、有名画家のシスレーであった。まあ、シスレーの絵を熟視したことは無いので、こんな画風だったか、と初めて知った。

なぜ、この風景画が不安感を与えるのか、と言えば、風景の中に描かれた人間の姿が、「異物感」があるせいではないだろうか。何のために、この人物がそこにいるのか、という感じだ。自然を楽しむとか、自然と一体化している、という感じではない。ただ、そこに放り出されているだけ、偶然そこにいるだけ、という感じ。さらに言えば、その途方に暮れたようなポーズのせいか、迷子になったような感じ。もちろん、風景画の中の点描人物は本来、偶然的にそこにいるだけではあるのだが、シスレーのこの絵では人物が単独である(よく見るとその人物の後方に二人いるようだが、人間に見えない。)から、その「異物性」が目につくのではないか。
木の枝が四方八方に気ままに手を伸ばしているのも、「人間は自然の中心ではない」と主張しているかのようだし、空の雲の流れも同様だ。
つまり、人間存在の本来的な孤独、というものが、この絵には感じられるような気がする。



 画は Alfred Sisley アルフレッド・シスレー

 1839~1899 / イギリス(フランスで活動) / 印象派     作


  「春の小さな草地―ビィ」です。



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わざと意味不明にするのもひとつの創作コンセプト

甲斐谷氏の理論だと「ねじ式」などのつげ義春の作品など、どうなるのかね。あれの「意味」を論理的に説明してみろ、と言いたい。そもそも「ねじ式」という題名と漫画内容との関係は何だよ。吉田戦車のギャグ漫画も、意味を考えて笑うというものではないだろう。
意味とは、個人の心の中で作られるものであり、対象物が意味を持っているわけではない。ある対象を見て、それにどのような意味づけをするかは個々人の内面の問題だ。前にも書いたが、私の友人は満開の桜を見ても「白いだけ」としか思わないそうである。世間の多くの人は「素敵、美しい」と思うのだろうが、どちらの感じ方も間違いというわけではない。物事の感じ方が千差万別だからこそ豊穣な創作物がこの世にはあるのである。創作物の意味など、会社のお偉方やスポンサーに説明する時にこじつければいい。
ただし、甲斐谷氏が構成を重視する意図は分かる。構成意識が無いというのが、多くの素人創作家の欠点だろうから。
要するに、「構成が適切だから、大きな効果がある」と言うべきであって、「意味不明だが面白い」というのもまた構成が適切だからだろう。意味不明だから構成が悪いとは限らないわけだ。






  1. この理論が正しいとすると楳図先生やジョージ秋山先生の作品のほとんどは駄作になるな!
  2. 2件のリツイート
  3.  
  1. 意味とかよりも「なんかよく分かんなかったけどスゲーよ!ありがとな!」的な感動を大事にしたい。
  2. 3件のリツイート 6 いいね
  3.  
  1. うるせーよタコ!
  2. 1件のリツイート 1 いいね
  3.  
  1. もしあなたが自分の漫画を人に読んでもらって「よく意味が分かんなかった」という感想をもらったら、あなたの構成力はほぼ0点です。「まずは意味を理解してもらう」は構成において最低限守らなければいけないハードルです。「わかんない」は「面白くない」より深刻にダメです。


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「帰郷」

「外国を歩いている間にもよく考えたことだった。日本の女ぐらい不幸に強い女はない。弱いようでいて強いのだ。日本の男が強がっていて実は一様に意気地なかったのとは逆なのだね。不思議に思われるくらいさ。今、往来で見かけるピカピカした新しい女たちのことは俺は知らぬ。おっ母さんのような古い女の時代には、男の方から頼り得た。弱いと見えていて頼り得た。世界のどこへ出しても一番立派だったのじゃないかな」(大佛次郎「帰郷」より)




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アニメは現代日本の文化の極点

ある映画紹介サイトのレビューコーナーから転載。なお、作品満足度では圧倒的1位である。
この作品のレビューだけで300件近くあるので、他のレビューにはまだほとんど目を通していない。このレビューは、この作品の紹介として、非常に適切だと思う。最近の邦画の一般的な欠点についての指摘は、まさに私と同じ認識で、邦画不振とアニメのヒット作連発の原因はそのあたりにもあると思う。ただし、一番の原因は、映画会社のお偉方が阿呆であること、細かく言えば企画の無能(ジャニタレやAKBなど雑魚俳優優先の企画)、脚本の貧困(脚本にカネをかけないこと)にあると私は思っている。


(以下引用)

この世界の片隅に

劇場公開日 2016年11月12日
全297件中、4件目を表示
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昭和日本女性を蘇らせる奇跡

この映画はある昭和女性の人生の一部をそのまま切り取り現代に再現することに成功した稀有な作品です。

映画・アニメとして優れているだけでなく文化的な価値、日本人として記録すべき情報を残すことが出来た日本人の文化的な財産であると思います。

・人生をそのまま再生出来たことの凄まじさ

邦画では特に顕著ですが、役者の過剰な芝居やテンプレート化した演出により本来表現した人物像が偽物のように見えてそこに「人生」を感じることは出来ません。しかしこの映画はとにかく徹底的に細部に情報と人々の感情を丁寧に積み上げた結果、創作物を超えて「昭和の女性の人生の一部」を切り取って再現することに成功しています。例えば着衣や料理一つとっても通常では有り得ないレベルの細部や作り方が描かれており、人物や風景の作画描き込みも半端ではありません。また、のんさんの演技に代表される役者さんたちの「普通に昭和に生きていた人々」としての演技が素晴らしく、邦画特有の過剰な演技や演出が抑えられています。その結果本来映画が描くべき、物語の登場人物の「人生」を実体験として感じられます。そういった意味で本作はアニメ映画だけでなくテンプレート化した邦画全てをおきざりにして「本来あるべき戦争映画・時代映画」のフラグシップ的な作品となったと思います。「作品に魂がやどる」とはまさにこのように綿密な努力による徹底的な作り込みにより達成される境地なのだと実感しました。

・のんさんの演技の素晴らしさ

正直私は事務所のゴタゴタが始まってからの能年さんの印象はあまり良くはありませんでしたが、そういったことは一切抜きにしてのんさんの女優・声優としての演技は素晴らしいものがあります。先程も述べましたが日本人の俳優はおしなべて過剰な演技やテンプレート化した演技が多く、金太郎飴のような演技が多く見られます。しかしのんさんは最初から主人公の「すず」そのものとなって登場しました。一言目から「昭和に居たすずという可愛らしい女性が喋っている」ことのハマり方が尋常ではないのです。これはキャスティングもそうですがのんさん自身が他の俳優、声優さんでは真似出来ないような「本当にその人物になり切る」能力がずば抜けているのだと思います。過剰な演技ではなく自然体として感じられる「すず」そのものがいきなり完成されているのです。私は声優さんも好きなので正直、俳優さんが声優をやることに肯定的では無いですがのんさんのずば抜けた「その人そのものになる」演技を見ると声優、俳優というい垣根を超えて演者としての圧倒的なのんさんの演技力を感じてしまうのです。

・コトリンゴさんの音楽の素晴らしさ

私は以前からコトリンゴさんの楽曲を聴いたことがあり好きでしたが、ここまでの劇伴と相性が良いことは知りませんでした。元々超絶技巧のピアノを弾きながら余裕な感じで歌う圧倒的才能というイメージでしたが、今回は超絶技巧というよりはあくまで劇伴に徹しており、素直に聴いていて涙が出るような素晴らしい楽曲が随所に登場します。また録音状態も非常によくユーロスペースの音響も良かったのかピアノ鍵盤の響く音が非常に心地よかったのが印象的でした。

・オープニングで既に泣ける

この映画はとにかくどこを切り取っても「すず」という女性の人生を丸ごと持ってきていて素晴らしいのですが、やはり一番印象に残るのはオープニングです。まずのんさんの恐ろしいまでの自然体の「すず」としての発声の素晴らしさ心地よさ、可愛らしさに打ちのめされ、圧倒的な描き込みの作画に打ちのめされたころにコトリンゴさんのオープニング曲が流れ始め、正直この時点で映画館ではすすり泣きが聴こえてくるほど圧倒的な「情緒」が表現されています。このオープニングだけでも1800円払って満足というレベルです。

以上、べた褒めしましたが最初にも述べた通りこの映画は日本人の文化的な財産であると思います。このように昭和に生きる日本女性を描ききった作家のこうのさん及びアニメスタッフ、キャスト、コトリンゴさんには尊敬しかありません。本当に素晴らしい。

loveone
さん / 2016年12月3日 / PCから投稿
  • 評価: 5.0 50
  • 印象:  泣ける 興奮 幸せ
  • 鑑賞方法:映画館

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What will I do?

Huluで「華麗なるギャッツビー」(昔の訳どおり「偉大なるギャッツビー」と訳するべきだろう。)の映画を途中まで見たのだが、その主題曲として使われた、たぶん古いジャズかポップスの曲だと思われる曲が実に良かったので、それらしいと思われるものをネットで拾ってみた。
たぶん「What will I do」という曲だと思う。作曲はアービング・バーリンらしいから、いい曲なのも当然だ。フランク・シナトラなどが歌っているようだが、アービング・バーリンならば、もっと古くからのスタンダードナンバーだろう。
ちょっと訳してみる。



Gone is the romance that was so divine. 過ぎ去ったロマンス、それは神聖なもの
’tis broken and cannot be mended.   壊れたロマンスは、元には戻らない 
You must go your way,        あなたはあなたの道を行く 
And I must go mine.          そして僕は僕の道を
But now that our love dreams have ended... だが、恋の夢は今はもう終わり

What’ll I do              どうしたらいいのだろう
When you are far away        あなたは遠くにいて
And I am blue             僕はブルーな気持ち
What’ll I do?              どうしたらいいのだろう

What’ll I do?             どうしたらいいのだろう
When I am wond’ring who      あなたが今
Is kissing you            ほかの誰かにキスしているのなら
What’ll I do?             僕はどうしたらいいのだろう

What’ll I do with just a photograph  どうしたらいいのだろう
To tell my troubles to?        写真だけが僕の悩みを訴えるすべてだなんて

When I’m alone          僕はたった一人で
With only dreams of you      あなたを夢見ているだけなんて
That won’t come true        そんなのは嘘であってほしい
What’ll I do?            僕はどうしたらいいのだろう

<instrumental-one verse>

What’ll I do with just a photograph  どうしたらいいのだろう
To tell my troubles to?        写真だけが僕の悩みを訴えるすべてだなんて

When I’m alone          僕はたった一人で
With only dreams of you      あなたを夢見ているだけなんて
That won’t come true       そんなことがあるはずない
What’ll I do?           僕はどうしたらいいのだろう



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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