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なぜ「著作権」そのものを否定しないのか

デザインコースの学生に絵画でのオリジナリティを求めてはいけないだろう。(笑)
あるいは、教授陣にも「芸術とはパクリである」という思想が確固としてあるのか。それならそれで、そう世間に対して主張すればいい。私もそれなら応援してもいい。つまり、「著作権」を法律から削除しろ、という運動まで高めたらどうか。
近代以前の芸術家が誰も「著作権」を主張しなかったからこそ、それに学ぶことができて、今のすべての芸術が存在しているのである。
もちろん、著作権の全否定は創作意欲を失わせるだろうから、著作権の期限を短縮し、またその子孫への贈与や会社による引継ぎは認めないようにすればいいのである。あらゆるパクリをやってきたディズニープロが、自らの著作権は強硬に主張する、というような「強権的著作権」は、世界から排除すべきである。
なお、特許も著作権とほぼ同様に扱い、特許期限は短縮すべきだろう。そうでなければ科学も社会も進歩しない。つまり、「所有権」(著作権や特許は知的所有権である。)というものの大半は既得権益保護であり、それがあまりに強すぎるための弊害が存在することが、資本主義の欠陥の一つだ、ということだ。ところが今の欧米世界は逆に、知的所有権を強化する方向に動いている。つまり、知的所有権の独占による、一種の世界支配を目指しているのである。
私は、この一連の「佐野騒動」が著作権強化の動きにつながることを危惧している。ネットの「騒ぎ手」たちはそれを理解しながら騒いでいるのだろうか。

しかし、担当教授の

この問いに答えるために、完成までに様々な表現で同一テーマを描き比べる習作を重ねきた。

という評は面白い。「完成までに様々な表現で同一テーマを描き比べる習作を重ね(て)きた」結果が、「やはりいわさきちひろをパクろう」、という結論だったわけですか。



(以下引用)

【多摩美パクリ大学】佐野研二郎の後輩・金田沙織さんが多摩美伝統のパクリ芸で『いわさきちひろ』をパクリ見事に優秀賞をゲットして炎上…担当教員もパクリのレベルを絶賛

0 :ハムスター2ちゃんねる 2015年09月04日 08:42 ID:hamusoku
TOP > 卒業制作優秀作品集2015 > 情報デザイン学科情報デザインコース > 金田 沙織

http://www.tamabi.ac.jp/pro/g_works/2015/id/s14/


パクリ
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パクラレ
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パクリ
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パクラレ
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パクリ
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パクラレ

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担当教員によるコメント
宗教や若者のトレンド、あるいはサブカルチャー等に関するリサーチを経て、ファンタジックな表現を通じ、気になる人びとの世界を肯定的に描き出している。同じテーマを扱っていても、共感して肯定的に描く事と批判的に描くこととでは、鑑賞者に伝わるメッセージは全く違うものになる。どう描けばどう伝わるのか?この問いに答えるために、完成までに様々な表現で同一テーマを描き比べる習作を重ねきた。日常では、少数派に対して好奇の目を向けつつも批判的に取り上げる事が多い。

しかし、それでは相互の理解に達しないのは明らかだ。描くことで、自分と違う気になる人に着目し、深く考え、相手に寄り添い共感する。他者への関心が薄れ、かかわり合いが少なくなったこの社会に向けた批判として優れた作品である。
准教授・矢野 英樹





1 :名無しのハムスター2015年09月04日 08:44 ID:DUXjkeOV0
ちゃんと伝統を受け継いだんだね!






2 :ハムスター名無し2015年09月04日 08:44 ID:U2i.IZik0
まさに朱に交われば赤くなるやで






4 :名無しのハムスター2015年09月04日 08:44 ID:B4joozLh0
モロですやん(困惑)



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学校に行くのが死ぬほど嫌(いや)という生徒たち

「ライブドアニュース」の記事の一節である。
鎌倉市図書館のツィートが転載できなかったが、学校に、死ぬほど行きたくない子は図書館においで、というような内容である。これはいい呼びかけである。
実際、学校で習える程度のことは自学自習できるし、図書館には学校などよりはるかに膨大な「本物の知識」が詰まっている。図書館を「私の高校」とすればいいのである。
ところで、いじめとか、「学校が死ぬほど嫌(いや)」という問題について考えてみたいと思うのだが、今日は、その前提として、仮説だけ少し。

1)いじめをする子というのは、本人自身、周囲の状況から過大なストレスを感じており、その発散の手段がいじめである、ということ。
2)いじめ問題の最大のポイントは、「逃げ場」が無いと子供には感じられていることではないか、ということ。(上記の図書館は、その逃げ場として有効だろう。ただ、周囲の大人がそれを理解し、賛同してくれる必要がある。これは社会的運動に発展する可能性もあるのではないか。)
3)友人関係とは、子供社会における「日常の政治」でもあり、政治的交渉や立ち回りの苦手な子がいじめ被害者になる、ということ。つまり、弱者だから、ではなく、強者であっても、集団化したいじめに対抗するのは困難だ、ということ。いじめ被害者への「強くなれ」という言葉は、概括的すぎる嫌いがあり、また、個人的努力を過信しすぎた言葉ではないか。もっと、集団システムとしての抑止政策が必要。つまり、「学校そのもの」を根本から変えることが、いじめ問題解決だけでなく、子供の幸福のために必要ではないか。

この3)に関して、少し前に書いた「夢の高校」を現実的に考察してみたい、と考えている。

つまり、「夢の高校」は学校から逃げる必要性を無くすという根本的解決策、「アジール(避難場所)としての市民図書館」は、現段階での緊急避難的な解決策、ということである。


(以下引用)


番組では鎌倉市図書館のTwitterアカウントがイジメに悩んでいる子どもたちに向けたツイートを紹介し、新学期が始まるにあたってのイジメや自殺問題について取り上げた。

その中で内閣府の調査として、1972年~2013年までの18歳以下の自殺者が、年間でもっとも多い日付が9月1日であることを紹介した。



VTR後に松本人志は、自身がイジメを受けていたわけでも、友達がいなかったわけでもないとしたうえで「8月の終わりからブルーになる」と、学生時代を振り返りながら一定の理解を示していた。

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夢の高校




8月27日(木)


 


今朝の半覚醒時の夢。


 


俺はどうやらどこかの高校の新入生らしい。その高校はFラン高校らしく校舎は雑然とした感じだ。というより、古い大学のような感じで、荒廃はしていないし、汚れてもいないが、「未整理で合理化されていない」と言う感じ。(これは後での分析。)俺はどこか別の高校を中退するか卒業して、そこに入り直したらしい。しかも、無試験入学のようだ。名目は推薦入学のような感じ。今日は入学式のようだが、その入学式に父兄の姿が多いが、教師は見当たらない。俺は入学式など興味が無いのでぱっくれて自分の教室を探すが見当たらない。級友の一人(青木と言ったと思う)も同様に入学式(だと思うが、それ以前に生徒の顔合わせ(クラス決めか)は済んでいて、生徒の一部とは顔見知りになっていたようだ。)をぱっくれてどこか学校の外に行くとか言う。何か言ったが、俺には聞こえなかったので、そいつは放っておいて自分の教室を探す。(俺は、夢の中で迷子になることが多い。何か心理的な問題を持っているのかもしれない。)この高校の教室配置は分かりにくい。何年何組という表示が見当たらないのだ。俺は一年二組だったと思う。あるいは三組か。とにかく、三つ並びの教室の真ん中だったかと思うので(このあたりはよく覚えていないので適当に書いている。)そうした配置の教室を探していると、女生徒たちが手芸か何かをしている教室に入った。彼女たちがどうも、少し見覚えのある顔なので、そこでぼうっと立っていると、女生徒の一人(デブでメガネだが、人の良さそうな顔の生徒だ。)が、「○○くん、教室を探してるの? ここだよ」と言う。俺はほっとした。「青木くんからメールがあって、沖国大(なぜか、ここで実在の大学名が出てきた。)で待っているって」そう言われても、俺は沖国大がどこにあるか知らないので(現実ではよく知っている。以前住んでいた場所に近いのだ。)「俺、沖国大がどこにあるかも知らねえよ」と言って憮然としていると、その女生徒が言う。「ねえ、○○くん、この学校にはピアノで推薦入学したんだって?」俺は困ってしまった。ピアノで推薦入学というのは、母親が勝手にでっちあげた名目なのだ。この学校は、何か名目さえあれば、誰でも入れるのではないかと思う。そういう学校のようだ。しかも、その名目は嘘でもかまわないらしい。そういうことだとカス生徒が集まりそうだが、ここにいる女生徒たちは、あまり美人こそいないものの、みんな真面目な感じだ。「あれは名目だよ。俺、猫踏んじゃったも弾けねえよ」女生徒の目が輝いた。「なら、私が教えようか。応援させて。それが私のためにもなるの」聞くと、この高校では、他の生徒の応援(勉強や実技など)をすることで単位がもらえるようになっているらしい。要するに、生徒同士のボランティア活動を奨励しているということのようだ。


 


夢はだいたいそこまでだったが、起きた後で考えると、この「夢の中の高校」は、あるいは現代の「できない生徒たち」にとっての「夢の高校」かもしれない、という気がした。まず、教師がいない。いるかもしれないが、ほとんど影のような存在であり、高校は「生徒中心」である。まあ、父兄が熱烈に支援している雰囲気は入学式(だったと思う)で感じられたが。そして、生徒たちはお互いに助けあうことで学習や技能を習得していくようになっている。誰が上とか下とかいう雰囲気も無いようだ。ただ、同じ場所で助け合って生きている「仲間」という感じである。(言っておくが、私自身は、こういう「仲間」コミュニティからはむしろ孤立しがちな人間である。)


この高校は上に系列大学があるようで、この高校を卒業したらそこに行けるようだ。どうせFラン大学だろうが、夢の中で見た女生徒たち(繰り返し言うが、美人はほとんどいない。)のような生徒が系列大学に行くならば、そう悪い大学にはならないだろう。「青木」はそこに行きたくないらしいが、私ができない生徒なら、あのデブでメガネの女生徒にピアノを習って、ピアノで大学まで推薦で進むのも悪くはない。私は現実にもピアノはまったくできないが、何か楽器を一つマスターするのは、人生を豊かにする一つの大きな方法だと思う。(最近、「のだめカンタービレ」のアニメをHULUで見たばかりなので、ピアノの話が夢に出てきたのかもしれない。)


追記しておくと、この「夢の高校」では、授業は一斉授業ではなく、大学的な講座制というか、ほとんどが選択制のようだ。つまり、同じ時間に複数の授業があるので、生徒はそれを選んで出席する。だから、アジトとしての「一年二組」の教室にいつでも生徒がいるわけではない、ということのようだ。たとえば、男子が自動車運転を習っている間に女生徒が手芸をやっている、とか。あの教室で女生徒たち数人が手芸をやっていたのはそういう事情のようだ。これも悪くないシステムだと思う。講座ごとにメンバーが違うから、顔見知りが増える。それに、教室という閉鎖空間で、同じメンバーが固定されることから来る「人間関係の異常な濃縮」が無くなるのではないか。つまり、人間関係の濃縮から来るいじめなども起こりにくくなるのではないだろうか。その証拠に、大学では運動部やサークル活動などの「閉鎖空間」以外ではいじめはほとんど起こらないはずだ。それは、いやなメンバーなら、すぐに「別の場所」に移れるからだろう。


 


さらに追記。これを小説化するなら、題は「応援させて」か「夢の高校」あるいは「俺たちはカスじゃねえ」。主人公は、そういう高校を作ろうとする校長、あるいは理事長。脇役は生徒たち。悪役は他校の学歴至上主義のエリート生徒。


 


 




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新作落語の案





8月26日(水)


新作落語「つくづく」というのを半覚醒状態で考えた。起きて後も少し考えた。詳細はだいぶ覚えているから、これだけのメモで書けると思う。かなり面白い。(夢人注:メモの一部は省略。)



無用なエネルギーの気が凝ったものが「つくづく」


 


 


最後は「つくづくいやンなっちゃった。あっ。つくづくの意味わかっちゃった」



「つくづくとは何か」についての熊さんと大家さんの会話で話は進む。下のメモはその一部。






カフカってえと、あれでしょう、ほら、海辺にいるやつ。なんだ、イワシやサンマじゃまいし。海辺のイワシですか?イワシは海にいるんで、海辺にはいませんよ。変なところで理屈っぽい奴だ。カフカというと、ほら、不条理って奴だ。不条理って何です? 条理が立たないということだ。条理って何です? まあ、物事の筋道とか道理というものだな。私はまた、可もなく不可もないのがカフカかと思ってました。そのカフカってのは作家でな。太陽が眩しいから人を殺した、って小説を書いた人だ。(観客に向かって。あ、みなさん、もちろん、これは大家さんの間違いで、そういう小説を書いたのはカミユって人です。カフカとカミユ、何だか似た名前ですね。カで始まる3文字名前の作家は変な小説を書くことに決められてんですかね。)へえ、そうなんですか。どっかで聞いたことがあるな。まあ、そんなのはよくある話じゃないんですかね。私も、寝床が気持ちいいから、仕事さぼっちゃった、なんてよくありますよ。それとこれとはまったく別だ。お前のさぼりは、ある意味条理が立っている。だが、太陽が眩しいから人を殺したって話は滅多に聞かないだろう。そうですかね、最近は面白半分で人を殺す人間がたくさんいますがね。まあ、それだけカフカって人は時代の先取りをしていたってことだ。そのカフカには面白い小説がほかにもあってな。たとえば、寝床で寝ているうちに虫になってしまったという話とか。へえ、どんな虫なんです。それはわからん。芋虫かゴキブリか何かだろう。あまり人に好かれない虫のようだ。へえ、カブトムシなら子供の人気者だからよかったのに。お前はカブトムシになりたいのか。まあ、寝床で寝ているのは好きだから、ずっと寝ていられるなら、何も人間でいる必要は無いのかもしれませんが、やはり女にはもてたいし、女は虫が嫌いな奴が多そうだから、虫になるのは御免こうむりましょう。お前が寝床の中で虫になっている姿は想像したくもないわ。ところで、カフカさんは…。カフカさんですか。いやに仲良さげな言い方になっちゃいましたね。…そんなことはどうでもいい。これだけ話してくればもう親戚も友人も同然だ。袖すりあうも多生の縁ってな。そりゃあ、多少はね。その多少とは違う。前世からの縁ということだ。あまり話をそらすな。ええと、何の話だったっけ。カフカさんは…まで言いましたよ。よく覚えているな。そのカフカさんに「オドルデク」という小説があってな、これがまさに不条理の極み。オドルデクというのが家のどこかにいるのだが、それが生き物なのか物なのか、何をしているのか、何のためにいるのか、さっぱり分からない、という話だ。へえ、オドルデクってと、踊っているんですか。まあ、動いてはいるが、踊ってはいないようだ。じゃあなんで踊るでくなんですか。でくってえと何ですか。木偶は人形のことだな。じゃあ、踊る人形。あれっ、聞いたことありますよ。子供のころ、シャーロック・ホームズで読んだ。暗号ものの推理小説だ。じゃあ、カフカさん、パクったな。いや、オドルデクは踊る人形とはまったく別の話だ。オドルデクというのが名前全体で、それが踊りを踊るわけではない。何だ、紛らわしい。ポチとかジョンとかつければ分かりやすいのに。それでは不条理の味が出ない。へえ、さっきは「つくづく」には味も色もない、って言いませんでしたっけ。「つくづく」と不条理が親戚なら、不条理の方には味があるってのはインチキじゃないですか。インチキではない。不条理を人に感じさせるには、小説家もそれなりの工夫が必要だから、オドルデクという奇妙な名前を作ったのだ。工夫したあげくが踊る人形じゃあ、あまり頭のいい作家じゃなさそうですな。何を失礼なことを言う。それ、さっきお前が言ったが、海辺のカフカという題名で日本の作家が新しく小説を書くくらい、偉い作家なのだ。へえ、カフカって作家は海辺に住んでいたんですか。まあ、そうだろう。私はその小説を読んでいないから、詳しくは分からんが、たぶん、カフカという作家を主人公にした伝記だと思う。伝記と小説は別でしょう。まあ、伝記小説というのもある。事実にもとづいた小説ならたくさんあるしな。

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現代の「小さな恋のメロディ」の結末は

「ライブドアニュース」から転載。
この事件についてさほど知らないので、論評する資格は無いが、まだほんの子供を30箇所以上も刃物で刺す、というのは何なのだろう。
過去の残虐殺人と比べても、どこか違うものがあるような気がする。おそらく、被害者少女と同行の少年も既に殺されているのではないか、と思うが、彼らがそうなった事情は何なのか。彼らの様子を見た青年(たち)の、「子供同士のくせにいちゃいちゃしやがって気にくわねえ」くらいの気持ちが、簡単に殺人にまで至ったとすれば、これは個人の精神的病いなのか、時代の病いなのか。
「短絡性」「衝動性」「こらえ性の無さ」というのは時代風潮だ、と私は思っている。
この12歳の少年少女の逃避行(なのか何なのか、詳しくは分からないが)から私が即座に連想したのは映画「小さな恋のメロディ」だった。現代の「小さな恋のメロディ」が、これほど残虐な結末になろうとは、この少年少女は想像もしていなかっただろう。
時代が変わったのである。子供たちを取り巻く環境が変わったのだ。
牧歌的な時代は終わったのだ。


(以下引用)

【高槻少女刺殺事件】ネット掲示板に犯行予告か…猟奇的すぎる新展開






写真はツイッターより

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 お盆休み中の日本列島を震撼させた猟奇事件が急展開だ。


 大阪府高槻市の物流会社駐車場で8月13日夜、顔や手を粘着テープでぐるぐる巻きにされた少女とみられる遺体が見つかった事件。発覚から5日後の18日、遺体が大阪府寝屋川市の中学1年、平田奈津美さん(13)だったと判明した。平田さんは12日夜から「友だちの家へ泊まりに行く」と言い残して出かけたまま行方が分からなくなっていた。


 平田さんと同行していたとみられる同級生の星野凌斗さん(12)の所在も明らかになっておらず、大阪府警は、2人が事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査を進めている。


犯行を示唆する内容の書き込みが…

 被害者の身元が判明する前から、インターネット上では、消息を絶った平田さんらの情報を求めるツイッターの書き込みなどが拡散し、事件との関連を指摘する声が挙がっていた。


「平田さんや星野さんの写真とともに『この子達を探しています』と書かれたビラの画像が出回っていた。服装や身体的特徴が似ていたことから、『遺体の少女じゃないか』と一部で話題になっていた」(捜査関係者)


 刃物で30か所以上もめった刺しにするという残忍な手口から、快楽殺人の可能性も指摘されるなど、犯人像に注目が集まっている。


 そんななか、事件の詳細が明らかになる前に大手掲示板「2ちゃんねる」に不穏な書き込みが何者かによって行われていたことが判明した。


 書き込まれたのは、遺体が平田さんであると明らかになる前の8月16日のことだ。事件に関するスレッドの中に唐突にこんな投稿が寄せられた。


《怯えて身を寄せ合った二人組みを刺したから身体半分しか傷がつかなかった》


 犯行を示唆するかのような内容。さらに文章はこう続く。


《自家用車に乗せてた死体をトラックに詰め込もうとおもったが、死に顔がこわかったので、テープでぐるぐる巻きにしたらまだ動き初めてあせった。(中略)運び出そうと思ったら車が着たから焦って逃げ出したんだ。だから車にはもう一つ死体が乗ったまま》


 書き込みがなされた時点で少女の遺体発見の一報があったのみで、星野さんに繋がる情報は出ていなかった。犯人しか知り得ないような内容に「犯行の告白ではないか」とネット上は騒然となった。


 さらに書き込みはこう締めくくられている。


《今日は大雨警報がでている。河にでも流そうか…ということで明日か明後日もいっこ見つかる。淀川芥川あたりか》


 果たしてこれは犯人の言葉なのか。幼い少女の命を奪った事件だけに、この書き込み自体がウソであれば、かなり不愉快であるが、この書き込みが示す最悪のシナリオが現実のものにならないよう切に願うのも確か。一刻も早い犯人逮捕が待たれる。


(取材・文/浅間三蔵)





(追記)下記ツィートのような可能性もあるので、私自身がこの事件をブログに取り上げたこともスピンへの協力になってしまったかもしれない、と自戒する必要がありそうだ。


カマヤン1192 @kamayan1192

寝屋川の殺人事件、そんなに連日トップ報道するほどの事件だと思わないけどなあ。国会報道時間を削るために寝屋川の殺人事件報道を過剰にしているんじゃないかなあ。俺の住んでいたアパートでの殺人事件なんて全く報道されなかった。










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8月18日放映のNHKアニメ「団地ともお」のこと

昨日、偶然にNHKのアニメ「団地ともお」というのを後半だけ見たのだが、それが「あの戦争」について今の日本人がどう対しているか、という姿をリアルに描いていたので驚いた。画風は(原作漫画もそうだが)どちらかと言えば稚拙な感じで、内容は「あまり出来のよくない小学生とその家族や周辺人物の日常」をのどかに描いたものであり、まあ、「ちびまる子ちゃん」か「サザエさん」の同類だと思えばいい。それが「あの戦争」を、戦争そのものではなく、「学校ではほとんど教えられることが無かったために、『あの戦争』とどう向き合っていいのか分からない」普通の人々の今の姿を描くことで、逆に、これまで何が隠されてきたのか、これからそれとどう向き合っていけばいいのかを考えさせるという、見事に教育的な(揶揄的な意味ではなく、肯定的な意味で言うのである。)内容のアニメになっていた。NHKも現場にいる人々は知的で良心的な人々が多いのだと思う。彼らの「籾井体制」へのひそかなレジスタンスをこのアニメに見た思いである。
この回の「団地ともお」は、ぜひネットなどで流布されてほしいものだ。



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デカルト主義からデ・カルト主義へ

「大摩邇」から、私の興味を引いた記事を二つ転載。
(引用1)は「るいネット」から、(引用2)は「in deep」からのものであるようだ。
まず(引用1)だが、少々首をひねるところはある。丹田呼吸は「出息入息を念じつつ行なう」という部分である。いちいち呼吸を「念じつつ行なう」なんて、それこそ呼吸をするということだけに意識が囚われてしまい、「ものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ」云々ということと正反対になりそうである。もちろん、これは「最初のうちは」念じつつ行ない、後ではそれが身について「赤ちゃんの頃は自然にやっている」のと同様に無意識なものになるのだろう。
切迫した呼吸は瀕死の人間の特徴であり、これを怪我や病気でもない人間が日常からやっているとすれば、あまりいいものではないだろうと推定できる。
この「丹田呼吸」は単なる「腹式呼吸」と何が違うのだろうか。
そもそも私は武道などでいう「丹田」という概念がよく分からないのである。腹式呼吸では、あくまで呼吸は胃のあたり、臍の上あたりが膨らむだけだろうから、丹田呼吸とは別なのだろうか。「下腹部の充実した」というのは、「気力が漲った」という状態に近いように思うのだが、いったいなぜ下腹部が気力と関係するのか、どうもよく分からない。
まあ、意識を感覚器官の集まった頭部からできるだけ遠ざけ、下におろすことで「落ち着かせる」ということ、そしてその「落ち着かせる」のに適当な位置は人間の重心部分である下腹部(上肢と下肢の中間部・腰骨で覆われた不動部分)なのか、というのが私が今適当に推測したことだ。
要するに「落ち着く」という日本語はまさに絶妙なもので、「落ち」て「着く」のが「落ち着く」であり、その反対が「浮つく」である。我々現代人はほとんどの人間が浮ついた生き方、浮ついた生活をしているのは誰でもそう感じているだろう。そこで、「少し落ち着け」ということになるが、浮ついた人間の特徴が、切迫した、せかせかした態度、せかせかした呼吸ではないか。「丹田呼吸」などと事々しく言わなくても、「落ち着く」ためには深呼吸をし、呼吸を鎮めるのが有効だ、ということはほとんどの人が経験的に知っている。その「落ち着き」を非常の際にも保てる人間を達人と言うのだろう。
しかし、

「かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。」

とはまた凄いことを言うものである。呼吸法一つで人生問題すべて解決、みたいなものだ。現代なら「公共広告機構」から誇大宣伝で捕まるんじゃないか。まあ、これは「古代宣伝」だから「誇大」でもいいのか。(笑)

(引用2)を載せた理由は、私自身がこの引用された言葉とは反対に「懐疑主義」を大事なことだと考えているからだ。(これはここまで書いた記事内容自体からも分かるだろう。)しかし、懐疑主義がもたらす「否定的感情、マイナス感情」というものは確かに存在しているとは思う。
新興宗教信者などを「馬鹿だなあ」と否定するのは簡単だが、彼らがそれによってある種の「幸福」を得ていることは確かだろう。その幸福までは否定はできない。そうすると、「論理的整合性」だけを追及する生き方と、盲目的「信者的」生き方と、どちらが「良い人生」なのか、軽々には言えない、ということである。
そもそも私自身、デカルト「信者」、西洋式合理主義思想「信者」だ、と片づけてもいいのである。ただ、その「合理主義」にすら疑いを持っている、という点では純粋合理主義信者ではないのだが、「あらゆるものを疑え」というデカルト主義を突き詰めれば、「懐疑主義そのものをも疑え」となるわけで、純粋デカルト主義者だとは言えそうだ。デカルト主義の極点はデカルト主義の否定にあり、ということ。(笑)
今思いついたが「デカルト」という名は「デ・カルト」と分けられ、「de」は「分離・否定」を意味する。カルト(cult:偽宗教・狂熱)を分離し、否定するわけだ。私は「デ・カルト主義者」を名乗ることにしよう。要するに「中庸主義者」にすぎないのだが。




(引用1)

丹田呼吸法というのがあります。
「丹田」は、臍の下あたり、女性でいえば子宮あたりとも言えます。
そこを意識しての呼吸で、赤ちゃんの頃は自然にやっているそうです。
(やり方はリンク等を参照してください。)

現代人は、ストレスを感じやすくなっており、それが胸式の浅い呼吸を引き起こし、体調不良につながり…、と悪循環に陥りやすい構造にあります。
だから、意識的にこの丹田呼吸をすることで、身も心も健やかになれるそう。

釈迦の教え「大安般守意経」の中にも、この呼吸についての記載があります。

『釈迦がある時、祇園精舎で多くの弟子を集めて正しい呼吸の重要さについて話された。出息入息を念じつつ行なうならば、おのずと下腹部の充実した丹田呼吸になっている。この呼吸法は眼も疲れず病まず、そしてものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ、後で悔を残すような楽しみに染まらないことを覚えるであろうと。かように出入息法を修行するならば大いなる果と大いなる福利を得るであろうと。かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。』(リンク)より


(引用2)

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。

「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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