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認可保育所・無認可保育所・闇保育所(笑)

「ライブドアニュース」で知った記事だが、現代の幼児保育事情が少し分かって面白い。
書いている内容にはどうも賛同できない考え方もあるが、まあ、客観的情報部分だけ知ればそれでいい。
ところで、私は京都の最低賃金(時給800円で、今度10円上がって810円ww)で働いている。単純軽作業の仕事だから仕方がない。その割りには、生命の危険も無いではない、スリルのある仕事の時もある。まあ、仕事自体にも賃金にも特に不満は無い。仕事相応の賃金だし、健康にもいい。他人に媚びたり機嫌を取ったりする必要もほとんど無いからストレスはゼロである。
だが、それでたとえば1日働いたとして、8時間勤務、7時間の労働時間とすれば、およそ5600円、今の時給なら5670円である。
で、幼児を無認可保育所に預けると、下の記事によれば1万5620円だそうだ。あまりの差にめまいがしそうだ。「幼児など、家の爺さん婆さんに預ければタダだろう」と思うのだが、どうしても自分の両親や夫の両親とは一緒に暮らしたくないのだろうか。まあ、新婚家庭なら分からないでもないが、結婚して数年も経てば、配偶者など家具の一種のような存在だろうし、「夫婦二人きり」にこだわる必要などないのではないか、と私などは思うのだが、自分の給与よりも高い保育料を出しても子供を保育所に預け、自分は働きに出る、という生き方は、まあ、それだけ仕事をすることに満足しているのだろうから、他人がどうこう言う必要もない。
まあ、自業自得、というだけの話である。
だが、ここで一応、「社会的解決策」を出しておく。エヘン。
それは「闇保育所」を流行らせることである。
退職した老夫婦などが、「闇保育所」を開き、そこで安価に子供を預かるのだ。子供は多くて3人くらいまで。それ以上だと目が行き届かないだろう。子育て経験がある老夫婦なら、子供を預けても比較的安全だ。まあ、事故の可能性はゼロでは無いだろうが、保育所に預けるより危険ということも無いはずだ。老人にとっては、老後の無聊を紛らせる、ある意味面白い仕事である。
エスキモーは(今はどうか知らないが)、年を取ると、赤ん坊を養子に取って、子育てを娯楽として楽しむ習慣があるという。他人の子供だろうが、赤ん坊や幼児は可愛いものだ。
「闇保育所」には税金もかからない。私も妻と相談して、そのうちやってみようかな。


(以下引用)

なぜ「保育園児」は「可哀想」で、「保育園児の母」はディスられ続けるのか?

春が来た。花粉の舞う春が。でもノンストップで流れる鼻水隠しの使い捨てマスクをちょいと下げれば、梅やら沈丁花やらのツンと刺すようなあの香りが鼻腔をくすぐる。悪くない、花粉さえなければ。春っていいもんだ。

等々マスクで隠れているのをいいことにブツブツひとりごちながら、10年物のボロベビーカーを押し、この4月から年長に進級する次女の保育園に朝夕往復している。3月も末。

もう赤ちゃんっぽくグデーと寝ることなく、背すじをピーンと伸ばしてベビーカーの先っちょにチンマリ座っている我が家の最終兵器三女(1歳半)は、その行きも帰りもに同行している。だから、勘のいい顔見知りや知人は、こんなふうに声をかけてくることが最近とても多いのだ。

「ああ、この子は保育園、まだなんだね」「この春から入れるの?」

筆者は答える。「そう、まだなんですよう」「いやー、来年の春からです!」

すると「来年? 来月じゃなくて?」と、働く知人らはのけぞるのである。「えー、それまで家でこの子、看ながら仕事、凌ぐの?」

「休日出勤と夜勤で」と筆者。冗談っぽいけどマジだ。「じゃなきゃ、ファミサポか一時保育で誤魔化しながらですかね」

hoikuen
まあ、拙宅の三女が来春から保育園に行くのは、少々の説明では追いつかない深い家庭事情があってのことなのだが。そもそも当地は丸の内勤務のキャリアウーマンなマザーすらもが認可を落とされる激戦地。

保育園に子どもを預け「行ってらっしゃ~い」と手を振られ向かうのが自宅(=兼事務所)などというアヤシイ商売の家の子が、スルリ入園できるほど甘くない(と思い込んで長年頑なに認可園への申請を行わなかったのだけれど、その是非については後述する)。

よって、筆者宅の9歳の長女は「流しの一時保育ビジター→私立幼稚園2年保育→14時以降は近所のナーサリー(私立認証保育園)」というダブルスクール状態で凌いだのだし、5歳の次女は姉が顔を売っておいたお陰で、半年待ちの末(これでも待ち短い)、2歳半からこのナーサリーに預かって貰えて現在に至っている。

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さて。普通の人に「認可」だ「認可外(無認可)」だ「認証」だと言ったところで、たいてい一発ではその違いを理解しては貰えないものだけど、ざっくり言えばニンカの他には税金があんまり落ちていないということだ。要はニンカ以外は高い、保育料が。かなり違う。

特に認可外保育園を1時間あたり幾らの一時保育(ビジター)で8時間利用する、とかいう場合にはもう「エエエエエッ?!」という保育料になってしまうのだが、こういうことって普通の人にはほとんど知られていない。折角なので詳解したいと思う。


認可外と一括りにしても保育施設により保育料はピンキリではある。ただ、キリな場合でも0歳1歳児はおおむね割高で、だいたいビジター料金1時間2,000円~3,000円程度と見ておく必要がある(施設によってはその他、ご利用前に入会金や登録料などもかかる)。

近所の認可外に、拙宅の1歳児(クラスとしては3月中なら0歳児クラス)を明日の9時から17時までビジターで預けるとしよう。すると、

・保育料1,890円×8時間=15,120円
・昼食(給食)費=400円
・3時のおやつ=100円

計15,620円かかる。
たった1日(というか8時間)でだ。
筆者風情のささやかなギャラなど吹き飛ぶ勢い、というか消えてマイナスになる。


反していわゆる認可保育園の場合。その保育料は逆の意味で「エエエエエエッ?!」だ。

東京23区内某区の「前年分所得税900,000円以上」という最高スペック(高額所得者!)での保育料徴収基準額、3歳未満児の場合の数字を見てみよう。

「第1子に適用する基準額」の場合57,500円で「第2子以降の基準額」では40,250円。これは1ヵ月でだ。

57,500円というのは金額だけ見れば充分デカイけれど、先の15,620円で割れば4日でモトが取れてオツリがくる額である。比較するまでもなく激安、猫も杓子も「ニンカニンカ」と言う所以である。

もちろん、「ニンカ」が保育施設として優れている点は保育料のお得さだけではまったくないのだが、また必ずしも何の問題も無いわけではないのだが、とりあえず拙稿では触れずにおく。また保育園という場の価値についても詳細は場を改めて書く。

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さてここで唐突に、表題の謎解きを始めたい。

実は、筆者の長女が幼稚園に通っていたころ、ムチャクチャな保育園批判を我が身に受けることがままあった。筆者は幼稚園児母でありつつ、手近な保育園児母でもあったのでちょうど良かった(?)のだろう。そのときは面食らいつつも後で「ははん」と納得したことが以下の内容である。


そもそも「保育園育ちの子はサルのように乱暴」「保育園の子は愛情に餓えている」「保育園育ちの子は“だから”可哀想」という由緒正しいディス三柱は、幼稚園母界では根強い前提だ。

かつ、「保育園児の親はズルい」と(押しなべて)思われているものらしい。ウソだと思うなら手近な幼稚園ママに「ぶっちゃけどうよ?」と聞いてみては如何だろうか。おそらく「ズルい」に首肯する人は存外多いはずだ。


曰く「8時間などという長時間保育でラクしている」「お弁当じゃなく給食なのでラクしている」からズルい。さらに「幼稚園では当然の、親の参加と注力を前提とした大行事を、根こそぎスキップできて気楽(時間・手間的にラクをしている)」だからズルい。

そして、実はそれよりも、「安すぎる保育料・軽負担という恩恵」を「のうのうと享受している」からズルい、のだ。「夫婦二馬力でバンバン稼いでるくせに保育料が、幼稚園に払ってるお月謝と同じかそれより安いってどういうこと?」「税金ガメ過ぎじゃないの?」。もっとも、保育園母がいないところで言いたいことを言うのは自由だ。

でも認可と認証の違いも知らず、バンバン稼ぐ人の多額な納税額も考慮せず、ただ「ズルい」で済まされては懸命に働く母らは浮かばれない。明らかなる誤謬は誇りを持って訂正したほうがいい。


同時に返す刀で、家庭で子育てしながら幼稚園に行く子どもたちをディスる必要も無いのは言うまでも無いことである。人の置かれる状況、境涯、考え方その他、変化していくのが世の条理なのだ。

一度「保育園母=ズルい」という刷り込みを持ってしまった、その人自身が後に認可保育園を利用しなければならない立場になったとき。かつて他人を呪った言葉が、要らぬ罪悪感をもって自分自身に戻り、その自由を縛り上げてしまうことのほうが憂慮されるし、不幸だ。
白状すると、かつての筆者が、そうだったのである。

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とはいえ、「育児は手抜きできてラクしてられて税金ガッポリ掠め取ってお得でズルしまくってる」ような「ズルい親」を助長する保育園という施設を、何もかもごっちゃ混ぜにイメージしてその虚像に対しルサンチマンと憐憫を滾らせている層が少なからぬこと。
或いはそんな層をバックアップしてきた一馬力の男性たちの認識なんてそんなもんだということを、あらゆる「保育園」にコミットする親は、じゅうじゅう踏まえておかなければならない。

そういった色眼鏡を外し、金勘定を排したところから、「子どもたち自身」の幸福を第一に忖度(そんたく)しなければならない。これは大前提である。

一度巣食った勘違い?はしかし、その後えんえん数十年単位で持続することもある。だから「孫が保育園に入った不憫さに泣くバァバ」などが現れ、また「可愛い孫を保育園なんかに預けてラクする嫁を怨むジィジ」なども発生する。でも、そんなふうに泣かれたり怨まれたりする筋合いなんてどこにもない。

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「ああ、この子は保育園、まだなのね」「この春から入れるの?」

冒頭のやりとりに、筆者は答える。「そうなんですよう」「いや、来年からです!」

すると「保育園、あんまり早く入れても、可哀想だもんねえ」……そう頷かれる、こともある。いや、そういう反応のほうが実数は多い。


言っている人に悪意は無い。「子どもは、お母さんのそばに長くいられたほうがいいもんねぇ」「ですねぇ。でも親と一緒にいるっていうのもある意味、可哀想なんですよう」
でも筆者はこう答えている。これは本心だ。

なぜなら、締め切り間際の今日は、もう3時間近く母の膝の上に跨り服をめくってオッパイを銜えウトウトし続けているのが、我が1歳児の現実なのだから……(これちょっと、可哀想じゃない?)。


保育園児と非保育園児のどっちが可哀想?なんてディスり合いには、まったく、何の意味も、価値も、無い。



藤原千秋藤原千秋
大手住宅メーカー営業職を経て2001年よりAllAboutガイド。おもに住宅、家事まわりを専門とするライター・アドバイザー。著・監修書に『「ゆる家事」のすすめ いつもの家事がどんどんラクになる!』(高橋書店)『二世帯住宅の考え方・作り方・暮らし方』(学研)等。9歳5歳1歳三女の母。


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なぜ体育の授業でスポーツ嫌いが生まれるのか

yu@kの不定期村」というブログから転載。
引用文が長いので前説は書かないが、非常に鋭い指摘で、日本の教育が「非教育的」であることの一つの事例を見事に分析している。全教育関係者必読、である。
話は体育だけではない。美術や音楽の授業も「公開処刑」の場になることが多い。



(以下引用)

どうして「体育の授業」のおかげでスポーツが嫌いになってしまうのだろう

2015-10-19 12:22:24 | 提言



こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

私は昔から運動が苦手だった。全く偉ぶる話でもないのだが、事実として、今でも本当に運動が苦手だ。職場の行事等でスポーツ大会があるといつも気が重いし、往々にしてチームの足を引っ張るポジションに陥る。走力も反射神経もお察しレベル。幼稚園児の頃に母が見かねて水泳教室に通わせてくれなかったら、おそらく今でもカナヅチだっただろう…。書いていて惨めになってくる。

そんな私のツイッターのTLに、昨日以下のようなツイートが流れてきた。




これを機に、昨日は割とずっと「体育の授業」について考えたり調べたりしていた。率直に言うと、私は体育の授業によってスポーツそのものに大きな苦手意識を持ってしまったし、ハッキリ言って「嫌い」に近い感覚を抱くようになった。どうしてそうなってしまったのだろう。改めてググってみると同じような感覚を持っている人はかなり見つかったし、割と前々から各所で議論されてきたことのようだ。最終的には文部科学省のホームページを夜中にずっと読んでいた。


※※※


順を追って紐解いていくと、まずはとっても歪んだスクールカーストの話からになってしまう。

体育の授業で一番嫌だったのは、紅白試合だ。例えば、サッカーやバスケやバレーにソフトボールといったもの。私はこれらの授業で、本当に惨めだった記憶しかない。運動部所属のイケイケのウェイ系なクラスメイトがここぞとばかりに張り切り、主にボールを独占する。そりゃ、上手い人と下手な人が一緒にやったら上手い人にボールが集まるのは当たり前なのだが、下手な人である私のような人間は、ボールにも触れず触ったところで足手まといになり、意味もなくフィールドを右往左往する最高に恥ずかしいひと時を過ごすハメになる。

想像して欲しい。例えば音楽番組でEXILEが歌って踊っている同じステージの隅で訳も分からず放り込まれた人間が滑稽にダンスの真似ごとをしているのだ。それを、クラスメイトという観客にずっと観戦されている。恥ずかしいったらありゃしない。





そんな中、ATSUSHIやTAKAHIROのごとくウェイ系のウェイマンたちは活躍し歓声を集める。彼らは紅白試合に本気なので、例えばサッカーだと「マイボマイボ!」と声を上げながらガチ試合を展開する。そこに私のような運痴野郎が参入する隙は無いし、仮に突入したところで足を引っ張り白い目で見られる展開しか待っていない。彼らウェイマンたちは、ただ本気で試合をやってスポーツを楽しんでいるだけなのだが、ここで「得意な人」と「苦手な人」の間に大きな溝が出来る。たまに「一緒にやろう」と手を差し伸べるタイプのイケメンウェイマンがいるのだけど、彼のような存在は希少種。多くのウェイマンたちは感覚で「(私のような)ボールを回さない方がいい相手」を判断し、意識の外に追いやる。それは、自分たちが楽しむために、試合で勝つために、当然の判断とも言える。

そうして、「苦手な人」は体育の時間で往々にして公開処刑される。クラスメイトが体育座りで見守る中、ひとりずつ跳び箱や何かのプレーをさせられたりと、思い出すだけで胃が痛くなってくる。マラソン大会で遅くにゴールに辿り着いた人が24時間マラソンのように応援されるのも、控え目に言って生き地獄だ。

共通して言えるのは、前述のサッカー紅白試合におけるウェイマンたちも、マラソン大会終盤で応援する集団も、何も悪気が無い、ということだ。彼らはただ本気で楽しんでいるだけだし、むしろ応援に至っては良かれと思ってやっている。「運動が苦手な人」がそこでどんな屈折した感情を抱くかなんて、おそらく考えたこともないんじゃなかろうか。「得意な人」には、「運動・スポーツは楽しいもの」という揺るがない感覚があるだろうから。


※※※


例えば私は根っからの文化系で20年あまり音楽をやってきた。吹奏楽やクラシックと今も関わる生活を送っている。だから、(あえてこう書くが)、平均よりはリズム感がある方だと自負している。そんな私が何らかの集まりで初対面の人やらとカラオケに行った時に、たまに絶望的にリズム感のない人と出会うことがある。誰でも知っているポピュラーな曲のサビでも、わざとやってるんじゃないかというくらいにズレる。「どうしてこの裏拍が入れないの?」「なんでそんな肝心なフレーズをすっぽかすの?」と、割と真剣に疑問を抱いてしまう。

おそらく、運動が得意な人もこういう感覚なんじゃないだろうか。人には向き不向き・得意不得意があるのは当たり前なのだが、自分がその界隈に浸かっていると、それが不得意な人の存在がいつのまにか理解し難くなっていく。それは嘲笑でも軽蔑でも何でもなく、ただただ純粋に、「“できない”ことが理解できない」のだ。だから、体育の授業において私のような「運動が苦手な人」は、得意な人からすると「理解できない相手」であり、「なぜ楽しいはずのスポーツを楽しめないのか?」という無意識な疑問を出発点に、意識から外れていくのだろう。「そもそもできないから苦手意識がある」という感覚が共通項になることは滅多にない。(誤解が嫌なので再度書くが、「理解できない」ことが「悪い」という話ではなく、それはある種当たり前のことであると思う)

私は特撮が好きなのだが、今の嫁さんと付き合っていた頃に話の流れで「ショッカー」の話題になった。嫁さんは「え?“ショッカー”って何?」と真っ直ぐな疑問をぶつけてきたのだが、私にとっては「初代仮面ライダーの敵組織の名称」として半ば常識レベルの知識だと思っていたので、心底驚いた。「ドラえもんの好物はどら焼き」くらいのレベルで皆が知っていると思っていた。その後も「ち、違うんだ!あの全身黒タイツの奴らの名前が“ショッカー”という訳じゃないんだ。合ってるけど違うんだよ!」と面倒臭い説明を重ねてしまった記憶がある。





上のカラオケやショッカーの例で、「結局自分の音楽得意自慢かよ」とか「オタクの知識マウントうぜぇな」と思った人もいると思う。心の中で、大なり小なりモヤッとしたものを抱いた人も多いのではないだろうか。それこそがまさに、「運動が苦手な人」が「得意な人」に感じてきた感覚だ。互いに悪気は全く無いのに、その断絶が結果として出来上がってしまう。無意識に、相手に非常に屈折した形で劣等感と嫉妬心を抱かせてしまう。抱いた方も抱いた方で、その感情への自己嫌悪とも付き合っていく。こうして「運動が苦手な人」は、小中高の12年間ずっと、体育の時間でそんなドス黒い感覚を味わい続けていく。


※※※


ここまで読んで、「そんな難しいこと考えずに素直に楽しめよ」、と思う人もいると思う。しかし、私のような人間から言わせれば、まさにその視線こそがダメージになってしまう。素直に楽しみたいのは当たり前なのだ。大人になって今でもスポーツに苦手意識があるけども、体を動かすこと自体は嫌いじゃない。自分のペースでウォーキングしたり、夫婦でスポーツ施設に行ったりするのも楽しい。でも、例えばサッカーに代表されるような団体競技に、言い知れぬ嫌悪感を持ってしまうのだ。それは、小さい頃から前述の感覚を味わってきたからだし、それがオタク層とウェイマンたちのスクールカーストにまで自虐的に波及してしまい、本来悪くもないウェイマンたちに心の中で毒づくような、そんな人格を形作ってしまう。

おかげで、申し訳ないがワールドカップの時に渋谷で騒ぐサッカーのサポーターに対する嫌悪感には凄まじいものがある。あそこには、学生時代に感じた「ウェイマンたちの悪意のない悪意による集団圧力」のようなものが渦巻いて見える。「なんで楽しめないの?」「なんでこの祭りに乗れないの?」と、一緒に騒ぐのが当たり前かのような視線を向けられている錯覚を覚える。





もちろん言うまでもなく、あの手の乱痴気集団に一番迷惑しているのは節度を持ったサッカーファンだろう。あんなのは往々にしてごく一部の話なのに、一緒にされたくはないはずだ。しかしネットでは、まるで彼らに親でも殺されたかのように「民度が低い」「日本の辱」と袋叩きの光景が繰り広げられる(実際に他者に迷惑をかけている面も強いが)。これも根底にあるのは、オタク層が過去の体育の時間に受けたトラウマ感情の再発(裏返し)なんじゃないかな、と思えてならない。

「苦手」「できない」が理解されず、更には「楽しんで当たり前」という視線を向けられてしまう。できなければ「やる気がないからだ」と言われ、やったらやったでお荷物扱いされる。こうやって、「運動が苦手な人」はスクールカーストを嫌でも意識してしまい、行き場のない憎しみと自己嫌悪から「スポーツ嫌い」になってしまうのではないだろうか。


※※※


度々書いているが、そのウェイマンたちや、スポーツが得意な人・楽しんでいる人が悪いという話をしているのではない。ATSUSHIやTAKAHIROも、ただ一生懸命にパフォーマンスに興じているだけで、ステージの隅の私を辱めようなんて思ってもいないだろう。しかし、事前にHIRO社長にダンスを教えてもらったり、ATSUSHIとカラオケで練習をしていたならまだしも、突然ステージにぶち込まれるのだ。

体育の紅白試合もそれと同じようなもので、サッカーのルールやポジションなんてほとんど知らないのに、いきなり競技をさせられる。ウェイマンたちは経験則から戦略や攻め手を感じ取り連携を取るが、それが全く分からない私には動くことさえできない。当たり前のように「ボールがどこに来るか」が分からないので、それは裏を返すと「ボールがどこに来ないか」も分からない、ということだ。つまり、突っ立っているだけで邪魔になる。座学でいくと、九九もアルファベットも分からないのに数学や英語のテストを受けるような感覚である。冷や汗が止まらない。





柔道など事故(怪我)が起きやすいものはしっかりと基本の受け身から教えてくれるが、球技を中心に「知っていて当然」かのように始まる競技において基本を教わった記憶は私にはあまりない。体育の先生も「スポーツは楽しくて当たり前」な環境で育った人が多いだろうから、むしろ練習や基礎より模擬試合の方が生徒も楽しめると思っているのだろう。こちとら模擬試合の方が苦痛なのに、ここでも「“わからない”ことがわからない」という断絶が作用してしまう。基本も教わらず、ただ惨めな公開処刑を体験する。それが、私にとっての「体育の授業」だった。

国語や算数といったいわゆる「五教科」「受験科目」には、基礎から教え、苦手な生徒をどうその教科に向き合わせるかといった方法論が深く議論されているイメージがある。私の実体験においても、例えば理解度によってクラスを分けて、苦手な人にどう教えるかに腐心していた先生は多い記憶がある。しかし「体育」となると、途端にその性格が薄くなってはいかないだろうか。「スポーツは楽しくて当たり前」、そんな悪気のない前提で囲ってしまい、「苦手な人」をどうそれに向き合わせるかという感覚に欠けてはいないだろうか。もちろん、苦手な人に手を差し伸べる体育教師やイケメンウェイマンも世の中には沢山いるのだろうが、少なくとも私は不運にもあまりそのような人には出会えなかった。(すでにダメージが大きく気付けないパターンもあったかもしれない…)


※※※


最初に書いた文部科学省のホームページに、『体育の目的の具体的な内容-すべての子どもたちが身に付けるべきもの-』という項がある。この中にも「『身体能力』に過度の重点を置くことは、逆に子どもたちの体育嫌いやスポーツ嫌いを助長することにつながりかねない」と書かれており、私のような人間を生み出してしまう危険性については言及されている。

しかし、そもそもそれよりも上の段である序文にある「体育は他の教科・科目ではできない身体運動を通しての『経験』ができる教科・科目である。例えば、『身体を動かす楽しさ』に関する経験、『競争、達成』に関する経験、集団活動の経験などをすることができる」という方向性が、多くの「運動が苦手な人」に効果的に行われているのか、大きな疑問を抱いてしまう。「体育の授業」で「身体を動かす楽しさ」を感じた記憶は滅多にないし、「競争、達成」なんて始めから負けレースでしかなかったし、「集団活動」についてはスクールカーストを意識させられるばかりだった。そこに「自分なりに頑張ってみよう」が受け入れられた経験は、ハッキリ言って無い。

私のような存在を含め、「体育の授業」が日本のスポーツ総人口をガリガリ削っているのではないか、という思いが拭えない。体を動かすこと自体は好きなのに、スポーツ、それも団体競技には果てしない苦手意識と嫌悪感がある。そして、そんな自分も嫌になってしまう。私だって、本当はEXILEのようにかっこよく踊ってみたいのである。









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理性的言論と洗脳的言論

「カマヤンのツィッター」から転載。
いつの間にか右翼カルト宗教の「幸福の科学」が市民権を得て、それと同時に「アカ」という言葉が再び平気で使用される時代になっているようだ。
創価学会も最初はカルト扱いだったのだが、今や公明党は与党政権の一部である。新興宗教というものは強い。盲信した信者が我が身を犠牲にしても積極的に布教活動や選挙活動をするからだろう。
理性的言論は宗教的言論(洗脳工作)よりはるかに弱い。



(以下引用)




やや日刊カルト新聞 @daily_cult

  1. 法政大学の学祭では、学祭の禁酒化反対集会を学内で開いたら業務妨害と言われ停学&出禁になったという法政大文連の人が入り口で大学職員と揉めてた。一方で、中では幸福の科学が他大学の学生信者を動員して偽装伝道してる。「業務妨害」でさえなければカルトの偽装伝道も野放しか。
  2. Retweeted by カマヤン1192
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  2. 法政大学の学祭、幸福の科学「HSカフェ(心のエステ)での性格診断で「色に例えるなら赤。坂本龍馬のような革命家タイプ」と言われた。「革命家というと、マルクスとか、さっきこの大学の前ビラ配ってた中核派も同じタイプ?」と尋ねると「そうですね。マルクスはアカですね」と言われた。

    Retweeted by カマヤン1192

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強者の思想・弱者の思想

孔徳秋水さんのツィッターから転載。
吉田兼好は「徒然草」の中で、「友とするに悪(わろ)きもの」の一つに、「病(やまい)なく、身強き人」を挙げている。こういう人は、他人(弱者)への同情がまったく無いからだろう。下のツィートも、そういう「強者」が、「弱者をいじめるのが楽しい人間」になるか、そこまでは行かなくても弱者に対して無理解・無神経な人間になりがちであることを言っているのではないか。
弱者は、「強者弱者問題」の脳内シミュレーションの結果、自分が強者になれば、絶対に、「弱者を迫害する側」に回るだろうから、強者になることを放棄する、ということもある。(権力的立場を最初から放棄するわけだ。)仮に努力して強い力を手に入れても、「弱者だった過去の自分」を忘れることはあまり無いのではないか。そして弱者に同情的になるのではないか、と思うが、それとも、強者になると、一転して「弱者差別」の側に回るのだろうか。
強者は、弱者を迫害することで一層強者としての地盤を強固にする。弱者への同情は、自分の地位を危うくするのである。

だが、強者でありながら、弱者への同情を持つ人々もいる。
そういう心を「侠」と言う。
男らしさ、などではない。(世間の「男らしさ」は、肉体的な力や外見、粗暴な勇気や自分の野獣性の誇示であることが多い。筋肉に包まれた体の中身が猿か豚である、ということもある。)女性でも「侠」の心を持つ人はたくさんいるし、むしろ女性の方が弱者への同情心が強いものだ。また、女性でも権力欲の強い、「外面だけ女で中身は権力親父」という女性もたくさんいる。自分自身が権力を得なくても、権力のある男に取り入って権力の分け前を得たいと思う人間は、男女を問わず、無数にいる。




(以下引用)




この世には二種類の人間がいる…弱者をいじめるのが楽しい人間と苦痛な人間。両者では善悪の基準がそもそも正反対になる。

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ボケ老人の「尊厳」よりも優先すべきものがあるのでは?

普通に「歩道」を歩いていて、自動車にひき殺されるとは、世の中、何が起こるか分からない。おそらく、事故の補償も無いだろうから、死んだ人の家族は泣くに泣けないのではないか。
認知症の人間が自動車を運転している、という段階で既に問題だろう。医者は、この患者に自動車の運転はやめ、免許は返上するように言っただろうか。
こういう事故が起こって怖いのは、マイナンバーの記録に治療履歴なども入れるようにという要望が、「民間から」起こりかねないことだ。
認知症の人間は、いわば精神病と同じことなのだから、適当な管理施設を作って、そこから出さないようにしたほうが(家族のためにも)いいのではないか。家庭で面倒を見るなら、患者が外で事故など起こさないように万全の体制を取る責任もあると思う。
私のような「冷たい意見」を言うと、「認知症患者の尊厳を守れ」という「尊厳キチガイ」が出て来るものだが、ボケ老人の尊厳より先に守るもの(つまり、他の人間の命や安全)があるだろう。


(以下「ライブドアニュース」から転載)

運転手“認知症の症状”で通院 宮崎市暴走


運転手“認知症の症状”で通院 宮崎市暴走

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 宮崎市で28日、軽乗用車が歩行者らをはねながら歩道を暴走し、女性2人が死亡した事故で、軽乗用車を運転していた男性は認知症の症状があり、病院へ通っていたことが新たにわかった。

 この事故は28日、宮崎市内で男性(73)が運転する軽乗用車が歩道に乗り上げ、歩行者ら6人をはねながら約700メートル暴走したもの。この事故で、宮崎市に住む藤本みどりさん(66)と高木喜久枝さん(50)が死亡し、車を運転していた男性を含む5人が重軽傷を負った。その後の捜査関係者への取材で、男性は数年前から認知症の症状があり、病院へ通っていたことが新たにわかった。

 目撃者の女性「信号待ちをしていたら、歩道を走っている車が見えたので、自転車がバーってなぎ倒されて、車があっという間に横転するのを見たので、ただ事じゃないと思って」

 認知症だったという運転手の男性。警察は29日、危険運転致死傷の疑いで、鹿児島県にある男性の自宅に捜査に入った。警察によると、男性は28日朝、妻に目的地を告げずに鹿児島県の自宅を出発。その後、約100キロ離れた宮崎市で事故を起こした。目撃者によると、軽乗用車は時速60キロ近いスピードが出ていたという。

 暴走している最中の運転手を見た男性「ばーっとこちらを走っていった。この前を通っていって。(Q:運転手はどんな様子?)意識はあったと思いますね。ちゃんと前向いていたし。意識がなかったらふらついたりしませんかね。駅までかなり距離ありますから。まっすぐ行ってますんで」

 警察によると、男性は事故当時、会話がままならず、救急隊員や警察官の問いかけに対して、すべて「はい」と答え、「車道と歩道を間違ったのか」の質問にも「はい」と答えたという。警察は男性の回復を待ち、詳しく事情を聞く方針。


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効率主義の罠

「お」を発声する一瞬の時間を節約することで、何か人生が豊かになるのだろうか。
「お」が無駄だと思うなら「おはよう」も「はよう」でいいだろう。
「お帰りなさい」と「帰りなさい」では正反対だから、誰も「お」を省略はしない。しかし、「無駄」だと思うと省略する。
それを効率的だと考えるからだ。
だが、その省略で失われたものは本当に無駄だったのか。

我々の人生は、多くの「無駄」によって、逆に豊かになっているのではないか。
レジャーすら「効率的に」遊ぼうとするのが現代人である。企業的思考が我々の日常まで支配している。いや、毒している。

このエピソードは、現代人が効率主義の罠に嵌りこんでいることを教えているかのようだ。


(以下引用)カマヤンのツィッターで知ったツィートである。



             さんがリツイート

公園で老人が「おいっちに、さんし…」と言いながら体操していたので、「最初の『お』、いりますかね?」と声をかけると、「人生も残りわずか、丁寧に生きていきたいんです」と返され、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。


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優しく殺して

私自身は、前々から言うように、「周囲に迷惑をかけず、簡単に死ねる制度を作るべきだ」と考えている。本人の意思さえ確認できれば、10万円くらいで(できれば無料で)安楽死でき、遺体処理までしてくれる、というのが望ましい。
「尊厳死」などと気取ったことを言うから話が面倒なことになるのであり、老衰老人や末期患者に最初から尊厳など無いだろう。「生きているのが面倒になれば、優しく殺してくれる」制度を作るかどうかというだけのことだ。それが当人の希望であり、当人にとって幸せなら、殺せばいいのである。

問題は、「尊厳死」の書類に自らサインした後、目の前の、自分自身の確実な死を待つことの恐怖に人は耐えられるか、ということだ。

私の場合は、まあ、生きているのも辛いが、死ぬ勇気も無い、という状態になった場合は、知らない間に誰かが殺してくれる、というのが理想である。
墓など不要で、遺体は土に埋めて作物や牧草の肥料にでもすればいいし、葬式も不要だ。

「優しく歌って」の原題は、確か「killing me softly with his song」だったと記憶しているが、歌を聴いて感動して死ぬ、というのもいい。ジャイアンリサイタルだと、拷問かもしれないが。



(以下引用)




2015年10月29日 02:05

 

【話題】カリフォルニア州で尊厳死が合法化 「日本でもそうすべき」との声続々だが、危険な反応も

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引用元:【話題】カリフォルニア州で"尊厳死"が合法化 「日本でもそうすべき」との声続々だが、危険な反応も [H27/10/28]


http://uni.open2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1445997958/
1: ◆qQDmM1OH5Q46 2015/10/28(水)11:05:58 ID:???
 今月5日、アメリカ・カリフォルニア州のジェリー・ブラウン知事が、
末期患者に対し医師の幇助(ほうじょ)を伴う自殺を合法化する法案に署名。
すなわち、"尊厳死"が可能となる。日本でも尊厳死を求める動きが見られ、
今回の署名に対し、さまざまな意見が飛び交っている。

(略)

 こうしたニュースを受け、日本からは「弱者を死に追いやるなよ」
「家族に泣かれたら死にますって言わなきゃいけなくなるのか」
「死ぬ権利によって死んだ場合、老齢による衰弱死になるのかどうか、保険絡みで気になる」
など、さまざまな意見が上がっている。
「(中略)」

以下略 全文 BIGLOBEニュース/tocana10月27日(火)19時0分
http://news.biglobe.ne.jp/trend/1028/toc_151028_6453944477.html

2: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)11:08:25 ID:3yV
なんとしても日本人を減らさないと、中国、アメリカの負けが確定しちゃうもんな

4: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)11:28:10 ID:Y1U
>>2
老人が死んで現役世代の負担が減れば国力は大幅に回復できるから問題ない
まあ年齢制限や深刻な病気などの条件は必要だが

3: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)11:13:00 ID:A4f
若い人が年寄りの介護で共倒れしてるんだから、対策を考えないとどうしようもないよ。

8: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)11:41:38 ID:lm0
今の日本で臓器移植提供の同意書署名で無料で安楽死できる施設が出来たら、老若に関わらず殺到すると思うな。
迷惑かけずに消えるようにいなくなりたいという人は沢山いるでしょう。

9: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)11:42:06 ID:QGg
本人の意思確認は絶対に必要だと思う
ガン末期だの老衰だの大怪我でも苦痛に耐えかねる状態で
治る見込みも無いときだけにして欲しい

そして意思確認で問題なのが重度知的障碍者とボケ老人…

17: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)13:10:17 ID:ayz
末期症状で地獄のような苦痛が伴うのに延命され続けるのは人権侵害じゃないのか

20: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)15:26:12 ID:hEm
弱者を死に追いやってるのは社会なんだよなぁ

23: 名無しさん@おーぷん 2015/10/28(水)15:45:07 ID:rLk
日本でも治療しない大病院は既にあるぞ
地方で他に病院がないところだ
つかこれやると空気読んだら自殺しないといけなくなるからダメだよ

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