忍者ブログ

なぜ体育の授業でスポーツ嫌いが生まれるのか

yu@kの不定期村」というブログから転載。
引用文が長いので前説は書かないが、非常に鋭い指摘で、日本の教育が「非教育的」であることの一つの事例を見事に分析している。全教育関係者必読、である。
話は体育だけではない。美術や音楽の授業も「公開処刑」の場になることが多い。



(以下引用)

どうして「体育の授業」のおかげでスポーツが嫌いになってしまうのだろう

2015-10-19 12:22:24 | 提言



こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

私は昔から運動が苦手だった。全く偉ぶる話でもないのだが、事実として、今でも本当に運動が苦手だ。職場の行事等でスポーツ大会があるといつも気が重いし、往々にしてチームの足を引っ張るポジションに陥る。走力も反射神経もお察しレベル。幼稚園児の頃に母が見かねて水泳教室に通わせてくれなかったら、おそらく今でもカナヅチだっただろう…。書いていて惨めになってくる。

そんな私のツイッターのTLに、昨日以下のようなツイートが流れてきた。




これを機に、昨日は割とずっと「体育の授業」について考えたり調べたりしていた。率直に言うと、私は体育の授業によってスポーツそのものに大きな苦手意識を持ってしまったし、ハッキリ言って「嫌い」に近い感覚を抱くようになった。どうしてそうなってしまったのだろう。改めてググってみると同じような感覚を持っている人はかなり見つかったし、割と前々から各所で議論されてきたことのようだ。最終的には文部科学省のホームページを夜中にずっと読んでいた。


※※※


順を追って紐解いていくと、まずはとっても歪んだスクールカーストの話からになってしまう。

体育の授業で一番嫌だったのは、紅白試合だ。例えば、サッカーやバスケやバレーにソフトボールといったもの。私はこれらの授業で、本当に惨めだった記憶しかない。運動部所属のイケイケのウェイ系なクラスメイトがここぞとばかりに張り切り、主にボールを独占する。そりゃ、上手い人と下手な人が一緒にやったら上手い人にボールが集まるのは当たり前なのだが、下手な人である私のような人間は、ボールにも触れず触ったところで足手まといになり、意味もなくフィールドを右往左往する最高に恥ずかしいひと時を過ごすハメになる。

想像して欲しい。例えば音楽番組でEXILEが歌って踊っている同じステージの隅で訳も分からず放り込まれた人間が滑稽にダンスの真似ごとをしているのだ。それを、クラスメイトという観客にずっと観戦されている。恥ずかしいったらありゃしない。





そんな中、ATSUSHIやTAKAHIROのごとくウェイ系のウェイマンたちは活躍し歓声を集める。彼らは紅白試合に本気なので、例えばサッカーだと「マイボマイボ!」と声を上げながらガチ試合を展開する。そこに私のような運痴野郎が参入する隙は無いし、仮に突入したところで足を引っ張り白い目で見られる展開しか待っていない。彼らウェイマンたちは、ただ本気で試合をやってスポーツを楽しんでいるだけなのだが、ここで「得意な人」と「苦手な人」の間に大きな溝が出来る。たまに「一緒にやろう」と手を差し伸べるタイプのイケメンウェイマンがいるのだけど、彼のような存在は希少種。多くのウェイマンたちは感覚で「(私のような)ボールを回さない方がいい相手」を判断し、意識の外に追いやる。それは、自分たちが楽しむために、試合で勝つために、当然の判断とも言える。

そうして、「苦手な人」は体育の時間で往々にして公開処刑される。クラスメイトが体育座りで見守る中、ひとりずつ跳び箱や何かのプレーをさせられたりと、思い出すだけで胃が痛くなってくる。マラソン大会で遅くにゴールに辿り着いた人が24時間マラソンのように応援されるのも、控え目に言って生き地獄だ。

共通して言えるのは、前述のサッカー紅白試合におけるウェイマンたちも、マラソン大会終盤で応援する集団も、何も悪気が無い、ということだ。彼らはただ本気で楽しんでいるだけだし、むしろ応援に至っては良かれと思ってやっている。「運動が苦手な人」がそこでどんな屈折した感情を抱くかなんて、おそらく考えたこともないんじゃなかろうか。「得意な人」には、「運動・スポーツは楽しいもの」という揺るがない感覚があるだろうから。


※※※


例えば私は根っからの文化系で20年あまり音楽をやってきた。吹奏楽やクラシックと今も関わる生活を送っている。だから、(あえてこう書くが)、平均よりはリズム感がある方だと自負している。そんな私が何らかの集まりで初対面の人やらとカラオケに行った時に、たまに絶望的にリズム感のない人と出会うことがある。誰でも知っているポピュラーな曲のサビでも、わざとやってるんじゃないかというくらいにズレる。「どうしてこの裏拍が入れないの?」「なんでそんな肝心なフレーズをすっぽかすの?」と、割と真剣に疑問を抱いてしまう。

おそらく、運動が得意な人もこういう感覚なんじゃないだろうか。人には向き不向き・得意不得意があるのは当たり前なのだが、自分がその界隈に浸かっていると、それが不得意な人の存在がいつのまにか理解し難くなっていく。それは嘲笑でも軽蔑でも何でもなく、ただただ純粋に、「“できない”ことが理解できない」のだ。だから、体育の授業において私のような「運動が苦手な人」は、得意な人からすると「理解できない相手」であり、「なぜ楽しいはずのスポーツを楽しめないのか?」という無意識な疑問を出発点に、意識から外れていくのだろう。「そもそもできないから苦手意識がある」という感覚が共通項になることは滅多にない。(誤解が嫌なので再度書くが、「理解できない」ことが「悪い」という話ではなく、それはある種当たり前のことであると思う)

私は特撮が好きなのだが、今の嫁さんと付き合っていた頃に話の流れで「ショッカー」の話題になった。嫁さんは「え?“ショッカー”って何?」と真っ直ぐな疑問をぶつけてきたのだが、私にとっては「初代仮面ライダーの敵組織の名称」として半ば常識レベルの知識だと思っていたので、心底驚いた。「ドラえもんの好物はどら焼き」くらいのレベルで皆が知っていると思っていた。その後も「ち、違うんだ!あの全身黒タイツの奴らの名前が“ショッカー”という訳じゃないんだ。合ってるけど違うんだよ!」と面倒臭い説明を重ねてしまった記憶がある。





上のカラオケやショッカーの例で、「結局自分の音楽得意自慢かよ」とか「オタクの知識マウントうぜぇな」と思った人もいると思う。心の中で、大なり小なりモヤッとしたものを抱いた人も多いのではないだろうか。それこそがまさに、「運動が苦手な人」が「得意な人」に感じてきた感覚だ。互いに悪気は全く無いのに、その断絶が結果として出来上がってしまう。無意識に、相手に非常に屈折した形で劣等感と嫉妬心を抱かせてしまう。抱いた方も抱いた方で、その感情への自己嫌悪とも付き合っていく。こうして「運動が苦手な人」は、小中高の12年間ずっと、体育の時間でそんなドス黒い感覚を味わい続けていく。


※※※


ここまで読んで、「そんな難しいこと考えずに素直に楽しめよ」、と思う人もいると思う。しかし、私のような人間から言わせれば、まさにその視線こそがダメージになってしまう。素直に楽しみたいのは当たり前なのだ。大人になって今でもスポーツに苦手意識があるけども、体を動かすこと自体は嫌いじゃない。自分のペースでウォーキングしたり、夫婦でスポーツ施設に行ったりするのも楽しい。でも、例えばサッカーに代表されるような団体競技に、言い知れぬ嫌悪感を持ってしまうのだ。それは、小さい頃から前述の感覚を味わってきたからだし、それがオタク層とウェイマンたちのスクールカーストにまで自虐的に波及してしまい、本来悪くもないウェイマンたちに心の中で毒づくような、そんな人格を形作ってしまう。

おかげで、申し訳ないがワールドカップの時に渋谷で騒ぐサッカーのサポーターに対する嫌悪感には凄まじいものがある。あそこには、学生時代に感じた「ウェイマンたちの悪意のない悪意による集団圧力」のようなものが渦巻いて見える。「なんで楽しめないの?」「なんでこの祭りに乗れないの?」と、一緒に騒ぐのが当たり前かのような視線を向けられている錯覚を覚える。





もちろん言うまでもなく、あの手の乱痴気集団に一番迷惑しているのは節度を持ったサッカーファンだろう。あんなのは往々にしてごく一部の話なのに、一緒にされたくはないはずだ。しかしネットでは、まるで彼らに親でも殺されたかのように「民度が低い」「日本の辱」と袋叩きの光景が繰り広げられる(実際に他者に迷惑をかけている面も強いが)。これも根底にあるのは、オタク層が過去の体育の時間に受けたトラウマ感情の再発(裏返し)なんじゃないかな、と思えてならない。

「苦手」「できない」が理解されず、更には「楽しんで当たり前」という視線を向けられてしまう。できなければ「やる気がないからだ」と言われ、やったらやったでお荷物扱いされる。こうやって、「運動が苦手な人」はスクールカーストを嫌でも意識してしまい、行き場のない憎しみと自己嫌悪から「スポーツ嫌い」になってしまうのではないだろうか。


※※※


度々書いているが、そのウェイマンたちや、スポーツが得意な人・楽しんでいる人が悪いという話をしているのではない。ATSUSHIやTAKAHIROも、ただ一生懸命にパフォーマンスに興じているだけで、ステージの隅の私を辱めようなんて思ってもいないだろう。しかし、事前にHIRO社長にダンスを教えてもらったり、ATSUSHIとカラオケで練習をしていたならまだしも、突然ステージにぶち込まれるのだ。

体育の紅白試合もそれと同じようなもので、サッカーのルールやポジションなんてほとんど知らないのに、いきなり競技をさせられる。ウェイマンたちは経験則から戦略や攻め手を感じ取り連携を取るが、それが全く分からない私には動くことさえできない。当たり前のように「ボールがどこに来るか」が分からないので、それは裏を返すと「ボールがどこに来ないか」も分からない、ということだ。つまり、突っ立っているだけで邪魔になる。座学でいくと、九九もアルファベットも分からないのに数学や英語のテストを受けるような感覚である。冷や汗が止まらない。





柔道など事故(怪我)が起きやすいものはしっかりと基本の受け身から教えてくれるが、球技を中心に「知っていて当然」かのように始まる競技において基本を教わった記憶は私にはあまりない。体育の先生も「スポーツは楽しくて当たり前」な環境で育った人が多いだろうから、むしろ練習や基礎より模擬試合の方が生徒も楽しめると思っているのだろう。こちとら模擬試合の方が苦痛なのに、ここでも「“わからない”ことがわからない」という断絶が作用してしまう。基本も教わらず、ただ惨めな公開処刑を体験する。それが、私にとっての「体育の授業」だった。

国語や算数といったいわゆる「五教科」「受験科目」には、基礎から教え、苦手な生徒をどうその教科に向き合わせるかといった方法論が深く議論されているイメージがある。私の実体験においても、例えば理解度によってクラスを分けて、苦手な人にどう教えるかに腐心していた先生は多い記憶がある。しかし「体育」となると、途端にその性格が薄くなってはいかないだろうか。「スポーツは楽しくて当たり前」、そんな悪気のない前提で囲ってしまい、「苦手な人」をどうそれに向き合わせるかという感覚に欠けてはいないだろうか。もちろん、苦手な人に手を差し伸べる体育教師やイケメンウェイマンも世の中には沢山いるのだろうが、少なくとも私は不運にもあまりそのような人には出会えなかった。(すでにダメージが大きく気付けないパターンもあったかもしれない…)


※※※


最初に書いた文部科学省のホームページに、『体育の目的の具体的な内容-すべての子どもたちが身に付けるべきもの-』という項がある。この中にも「『身体能力』に過度の重点を置くことは、逆に子どもたちの体育嫌いやスポーツ嫌いを助長することにつながりかねない」と書かれており、私のような人間を生み出してしまう危険性については言及されている。

しかし、そもそもそれよりも上の段である序文にある「体育は他の教科・科目ではできない身体運動を通しての『経験』ができる教科・科目である。例えば、『身体を動かす楽しさ』に関する経験、『競争、達成』に関する経験、集団活動の経験などをすることができる」という方向性が、多くの「運動が苦手な人」に効果的に行われているのか、大きな疑問を抱いてしまう。「体育の授業」で「身体を動かす楽しさ」を感じた記憶は滅多にないし、「競争、達成」なんて始めから負けレースでしかなかったし、「集団活動」についてはスクールカーストを意識させられるばかりだった。そこに「自分なりに頑張ってみよう」が受け入れられた経験は、ハッキリ言って無い。

私のような存在を含め、「体育の授業」が日本のスポーツ総人口をガリガリ削っているのではないか、という思いが拭えない。体を動かすこと自体は好きなのに、スポーツ、それも団体競技には果てしない苦手意識と嫌悪感がある。そして、そんな自分も嫌になってしまう。私だって、本当はEXILEのようにかっこよく踊ってみたいのである。









拍手

PR

この記事にコメントする

Name
Title
Mail
URL
Comment
Pass
Pictgram
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
13
14 19
24 25 26 27
28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析