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デカルト主義からデ・カルト主義へ

「大摩邇」から、私の興味を引いた記事を二つ転載。
(引用1)は「るいネット」から、(引用2)は「in deep」からのものであるようだ。
まず(引用1)だが、少々首をひねるところはある。丹田呼吸は「出息入息を念じつつ行なう」という部分である。いちいち呼吸を「念じつつ行なう」なんて、それこそ呼吸をするということだけに意識が囚われてしまい、「ものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ」云々ということと正反対になりそうである。もちろん、これは「最初のうちは」念じつつ行ない、後ではそれが身について「赤ちゃんの頃は自然にやっている」のと同様に無意識なものになるのだろう。
切迫した呼吸は瀕死の人間の特徴であり、これを怪我や病気でもない人間が日常からやっているとすれば、あまりいいものではないだろうと推定できる。
この「丹田呼吸」は単なる「腹式呼吸」と何が違うのだろうか。
そもそも私は武道などでいう「丹田」という概念がよく分からないのである。腹式呼吸では、あくまで呼吸は胃のあたり、臍の上あたりが膨らむだけだろうから、丹田呼吸とは別なのだろうか。「下腹部の充実した」というのは、「気力が漲った」という状態に近いように思うのだが、いったいなぜ下腹部が気力と関係するのか、どうもよく分からない。
まあ、意識を感覚器官の集まった頭部からできるだけ遠ざけ、下におろすことで「落ち着かせる」ということ、そしてその「落ち着かせる」のに適当な位置は人間の重心部分である下腹部(上肢と下肢の中間部・腰骨で覆われた不動部分)なのか、というのが私が今適当に推測したことだ。
要するに「落ち着く」という日本語はまさに絶妙なもので、「落ち」て「着く」のが「落ち着く」であり、その反対が「浮つく」である。我々現代人はほとんどの人間が浮ついた生き方、浮ついた生活をしているのは誰でもそう感じているだろう。そこで、「少し落ち着け」ということになるが、浮ついた人間の特徴が、切迫した、せかせかした態度、せかせかした呼吸ではないか。「丹田呼吸」などと事々しく言わなくても、「落ち着く」ためには深呼吸をし、呼吸を鎮めるのが有効だ、ということはほとんどの人が経験的に知っている。その「落ち着き」を非常の際にも保てる人間を達人と言うのだろう。
しかし、

「かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。」

とはまた凄いことを言うものである。呼吸法一つで人生問題すべて解決、みたいなものだ。現代なら「公共広告機構」から誇大宣伝で捕まるんじゃないか。まあ、これは「古代宣伝」だから「誇大」でもいいのか。(笑)

(引用2)を載せた理由は、私自身がこの引用された言葉とは反対に「懐疑主義」を大事なことだと考えているからだ。(これはここまで書いた記事内容自体からも分かるだろう。)しかし、懐疑主義がもたらす「否定的感情、マイナス感情」というものは確かに存在しているとは思う。
新興宗教信者などを「馬鹿だなあ」と否定するのは簡単だが、彼らがそれによってある種の「幸福」を得ていることは確かだろう。その幸福までは否定はできない。そうすると、「論理的整合性」だけを追及する生き方と、盲目的「信者的」生き方と、どちらが「良い人生」なのか、軽々には言えない、ということである。
そもそも私自身、デカルト「信者」、西洋式合理主義思想「信者」だ、と片づけてもいいのである。ただ、その「合理主義」にすら疑いを持っている、という点では純粋合理主義信者ではないのだが、「あらゆるものを疑え」というデカルト主義を突き詰めれば、「懐疑主義そのものをも疑え」となるわけで、純粋デカルト主義者だとは言えそうだ。デカルト主義の極点はデカルト主義の否定にあり、ということ。(笑)
今思いついたが「デカルト」という名は「デ・カルト」と分けられ、「de」は「分離・否定」を意味する。カルト(cult:偽宗教・狂熱)を分離し、否定するわけだ。私は「デ・カルト主義者」を名乗ることにしよう。要するに「中庸主義者」にすぎないのだが。




(引用1)

丹田呼吸法というのがあります。
「丹田」は、臍の下あたり、女性でいえば子宮あたりとも言えます。
そこを意識しての呼吸で、赤ちゃんの頃は自然にやっているそうです。
(やり方はリンク等を参照してください。)

現代人は、ストレスを感じやすくなっており、それが胸式の浅い呼吸を引き起こし、体調不良につながり…、と悪循環に陥りやすい構造にあります。
だから、意識的にこの丹田呼吸をすることで、身も心も健やかになれるそう。

釈迦の教え「大安般守意経」の中にも、この呼吸についての記載があります。

『釈迦がある時、祇園精舎で多くの弟子を集めて正しい呼吸の重要さについて話された。出息入息を念じつつ行なうならば、おのずと下腹部の充実した丹田呼吸になっている。この呼吸法は眼も疲れず病まず、そしてものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ、後で悔を残すような楽しみに染まらないことを覚えるであろうと。かように出入息法を修行するならば大いなる果と大いなる福利を得るであろうと。かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。』(リンク)より


(引用2)

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。

「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。



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