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言葉の前で立ち止まれ

「世に倦む日々」のコメントの一つを転載。
転載した理由は、この中に書かれている「プロタゴラス」についての記述に興味を持ったからだ。
おそらく、この世界史教科書を読んだ学生の9割9分までは、「ソフィスト=詭弁家」という前知識を持っており、プロタゴラスとは、ソクラテスによって否定された、取るに足りない思想家、として歯牙にもかけず、テスト用に名前と主張概要だけを覚えて、試験が終われば完全に忘れ去るだろう。これが「学校で学ぶ」ということの実態ではないだろうか。
いったい誰が、そこで立ち止まって、このプロタゴラスの主張を考察するだろうか。テストに追われる学生にそんな暇などありはしない。そんな暇があれば、異性とつきあい、アニメを見、漫画を読んだほうがマシだ、と思うだろう。若者ならそうして当然だ。だが、易きに流れることは、成長に必要な「心や精神の負荷」を経験しないままに時間だけを食いつぶすということでもある。
さて、このプロタゴラスの主張はただの「詭弁家」の主張だろうか。私はそうは思わない。
それ以前に、このテキストの記述に問題は無いか。分けて考えていこう。

「プロタゴラスのように
「人間は万物の尺度」といって、
客観的真理の存在を否定したり、
国法や道徳の主観性を説くものもいた。」


「国法や道徳の主観性」は多くの人が認めるところだろう。禁酒法のように集団ヒステリー的に成立した法律は枚挙に暇が無いだろうし、かつての道徳が次の時代には弊履のごとく捨てられる例も枚挙に暇が無い。(だから法や道徳が無意味だというのではない。そこを誤解されては困る。プロタゴラスも、法や道徳が不要だとは言っていないだろう。「絶対視するな」ということだと思う。それは当然のことなのだ。)
「人間は万物の尺度」というのもまさにその通りだろう。人間の文化と文明は人類が「人間の尺度」で世界を理解し、その尺度を使って世界を変えてきた足跡なのである。
で、問題となりそうなのはプロタゴラスが「客観的真理の存在を否定」した、というところだ。
これによって、プロタゴラス(=ソフィスト)は「真理を否定する人々」であるから、彼らの言うことも「真理ではない」、従って、「ソフィストは嘘つき連中だ、詭弁家だ」ということになっていったかと思われる。
で、それの何がおかしいの、と言う人がいるかもしれない。

いいですか、プロタゴラスは「真理を否定した」のではなく、「客観的真理の存在を否定した」のですよ。

彼は、「真理が客観的に認識できる」かどうかに疑問を呈したのではないか。あるいは、「真理を共有認識にできるかどうか」は疑問だ、と言ったのではないか。
要するに、「客観的真理の存在を否定」とは「真理の否定」ではなく、「客観性というものの否定」だろう、というのが私の理解である。それならば、彼はまったくの「真理」を述べている、と私は思う。そんな、「真理は存在しない。だから私の言っているのもすべて嘘です」と馬鹿な主張をする人間がいるはずはない。
私のプロタゴラス理解が正しいなら、私も彼の一派である。厳密な「客観性」など存在しない。存在するのは「だいたいこんなもの」だけだ。その「だいたいこんなもの」が果たして麗々しい「真理」の名に値するか。
真理は確かに存在するだろう。だが、その客観性を証明することは不可能なのである。客観性を言い立てることから、思想的詐欺が始まる。いや、思想界だけのことではない。

それ(厳密な客観性、すなわち「認識の完全な共有」は不可能だ、という私の主張)を疑うなら、「私が認識している赤い色」とあなたが認識している赤い色が完全に同じ色であることを私に証明してみろ、と言っておく。

というわけで、下の短い文章もなかなか深遠な問題を幾つも含んでいる。私も高校世界史や倫理の教科書がまた読みたくなった。高校生の頃のようにテストに追われさえしなければ、学ぶことや考えることは娯楽にもなるのである。

言い忘れたが、山川の教科書の記述の問題は、日本語(あるいはすべての言葉)自体の持つ罠であり、「客観的真理の否定」と言う時に、「否定」の言葉が「客観」と「真理」の複合事物を受けるため、いったいどちらを否定しているのか不明になる、ということで、山川出版社に責任があるわけではない。これは読む側が注意すべきことだが、国語教師でそれを教える人はほとんどゼロだと思う。(「白い」と「馬」は別の観念ジャンルだから、「白馬」は「馬」ではない、という有名な「白馬非馬論」も、ある意味では正しいのである。)

要するに、デカルトが言うとおり、「物事は分けて捉えろ」というのが正確な思考の大原則だ、ということだ。


(以下引用)

Commented by カプリコン at 2015-04-18 20:40 x
「脱構築」という言葉の意味を貴ブログを読み読み続けることで自分なりに理解しているつもりです。
つい最近高校を卒業した我が子の世界史の教科書を読み始めたら面白くて、毎日数ページずつ読んでいます。山川出版のものです。自分が高校のとき初めて世界史の教科書と出会いのめり込んで学習したことを思い出しています。
ギリシャの文学のところで「民主政の発展とともに、哲学はしだいにその対象を自然から人間や社会に移し、市民生活に不可欠となった弁論を教える職業教師(ソフィスト)たちがあらわれたが、その代表者プロタゴラスのように「人間は万物の尺度」といって、客観的真理の存在を否定したり、国法や道徳の主観性を説くものもいた。これに対してソクラテスは独特の問答法によって人々の無知を悟らせ、ただしい徳を自覚して主体的に生きるべきことを説いた」とあります。30ほど前の世界史の教科書にも同じような文面でソフィストとソクラテスの対比が書かれていた記憶があります。
積極的平和主義なんて詭弁です。それにクロ現や報ステの報道のあり方に政府が干渉をするなんてこの国はいったいどこに向かっているのでしょうか。
この国のリーダーの中で天皇陛下だけが正しい歴史認識をのべ、日本国憲法の理念を大切にし実践をしている事実の重みを自分なりに考えています。 

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