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「イデオロギー拒否というイデオロギー」の陥穽

「世に倦む日々」記事の末尾だけ転載。
大事なことが書かれていると思う。
「右とか左とかいうイデオロギーはもう古い」というイデオロギーは、今けっこう流行っているのだが、イデオロギーから解放された政治活動は(それが明示的か暗示的かの違いがあるだけで)元来ありえない。そして、こうした「イデオロギー拒否というイデオロギー」は、現実の事態を不明瞭にし、民衆が戦うべき敵の姿を隠してしまうという悪質な効果がある。
これが、「世に倦む日々」氏が懸念していることだろう。これを氏は「脱構築」派の特徴と見ているようだ。
「脱構築」派とは、旧来の左翼と一線を画する、「社会主義や共産主義という大きな物語(観念的思考)ではなく、日常のデティールを大事にすることで現実の波(社会の蔵する重い問題)を軽やかに乗り切ろう」という新しいリベラルかな、と「脱構築」には疎い私は想像している。
まあ、旧来の左翼が「観念から現実へ」というタイプだったのに対し、新しいリベラル、あるいは左翼リベラルは「現実から現実へ」ということになるのではないか。だが、そこに陥穽がある。
つまり、「現実から現実へ」では、現実の細部に足を掬われるだけであり、現実の根本問題を解決する方向にはなかなか行かないのではないか、と私は思うわけだ。彼らは現実を良く研究しているから、その言葉はある程度の説得性はある。だが、いかにも「軽い」のである。彼らは間違ったことは言わないかもしれないが、現実を土台から改変するような提言もできない。現実を変える力は、実は観念にある。「脱構築」派は現実の悪の細部の悪のみを是正はするかもしれないが、それによって逆に現実の根本の悪を延命させるものだ、というのが「世に倦む日々」氏の焦燥を私が勝手に推測したものだ。
以上はただの推測にしかすぎないし、リベラルと左翼を同一視すること自体がおかしいのかもしれない。しかし、左翼リベラルという言葉は現在市民権を得ているようだから、左翼とリベラルには親近性があることは誰でも認めているのだろう。ただ、これが左翼リベラルとなると、旧来の左翼とはかなり性質が違ってくるように思う。もともとリベラリズムとは「自由主義」であり、それが左翼と結びつくのは、政治的進歩主義が社会主義的政策とほぼ同一だったからだろう。ところが、今や進歩主義とは「市民の自由と安全を制限し、企業の自由を拡大する」政策となり、社会主義とは真逆のものになっている。となれば、かつての左翼思想を廃れた古い思想と考えるべきではない、という結論になるのではないか。この点では私は「イデオロギーの重大性を見直せ」という「世に倦む日々」氏に与するものである。


(以下引用)


右も左もイデオロギーはもう古い。目の前の現実や事象に対して、それをイデオロギー的な意味づけで裁断する発想は間違っている。こういうイデオロギー拒否の相対主義の言説は、(学校で教師から脱構築の教育を受けた)若い世代に特に受け入れられやすい。この論法が切り返しとして提出され、人が納得してしまうと、危険な右翼的現実をストレートに批判する言論は封殺されてしまう。右翼批判が意味がなくなり、右翼批判の言論が成立し得なくなる。実際のところ、1980年代後半の脱構築ムーブメントがアカデミーで興隆して以降、日本の論壇はこの視角と思潮で染まり、右傾化現象を正しく捕捉して指弾する営為が難しくなった。逆に言えば、こうして目の前の現実を丸ごと肯定する思考の訓練と習慣の定着によって、戦後民主主義や社会主義を第一の価値観として持っていた者たちが静かに転向し、後退し、右翼を悪として批判する声を上げなくなり、右翼化するイデオロギー状況に保身で順応して行った。この30年間のマスコミの中で、そういう順応なり適応の態度を模範として見せてくれたのは、例えば三雲孝江がその一人として浮かぶ。日本の人々は、学校で習って身につけた戦後民主主義の原理原則へのコミットを薄め、脱構築の態度に変質し、そこからさらに右翼肯定へと変貌を遂げている。自らの思想的原点の固守が弱く、現実に流されやすく、多数に混ざりたがるのは日本人の特性でもある。

多数派の流れとなった右翼のイデオロギーは、決してイデオロギーとして客観認識されて捕捉されることなく、右翼の敵である戦後民主主義や社会主義の思想が一方的にイデオロギーとしてレッテル貼りされ、不当視され、悪性視されている。現在の日本語の用法では、右翼の政敵の思想をイデオロギーと呼んでいて、イデオロギーという言葉は、学問的な定義の一般性と中立性を失い、日常の会話の文脈として特定の思想性を指すものとなった。嘗ては、社会空間におけるイデオロギーのシェアが左右半々であったため、右翼の思想も左翼の思想もイデオロギーとして対象認識されていたけれど、現実の政治空間が右翼だけでオキュパイされると、その制圧支配を正当化するべく、右翼の思想は正常な常識とされ、正論とされ、イデオロギーの概念で対象化されなくなるのだ。除外される。そうした思想環境の中で、従来は左翼が生息した地平を脱構築がリプレイスしたが、脱構築が唱えるところの「右も左もイデオロギーはもう古い」の言説は、きわめて自己欺瞞的なレトリックであり、公平な相対主義の見地に立っているように装いながら、実は否定する対象として「右のイデオロギー」は全く意識されていない。「冷戦思考の二項対立はもう古いから」と脱構築が立論するとき、古い思考として非難され排斥されてきたのは、もっぱら冷戦に敗北した(とされる)左の思想だけだった。

現実の日本の政治社会が甚だしく右傾化していることは、タイムや、ニューヨークタイムズや、ガーディアンや、その他の欧米のプレスが注目して異常を報道しているとおりで、世界の中から見られている日本が客観的な事実である。否定できない。どれほど朝日がキャンペーンを張り、右傾化を懸命に否定しても、それは日本の国内を洗脳して間違った観念を植えつけているだけで、無駄で無意味な営みでしかない。世界は朝日の報道を正しいとは認めない。日本駐在のニューヨークタイムズや中央日報やドイツ紙の記者たちが、小熊英二のこの「右翼少数論」の記事を読んだとき、果たして彼らはどういう感想を持つだろうか。不感症による誤認か、もしくは正常性バイアスによる歪んだ認識だと評価するのではないか。

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