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電気その他のインフラが消えた世界でどう生き残るか

「東海アマブログ」記事で、冒頭と後半を省略。中間部分には(これから来る世界大戦での)サバイバル知識として有益な情報が多い。

(以下引用)

今の公共インフラに支えられた便利なライフスタイルが、そのまま永遠に続く可能性は非常に少ない。今から、昔の生活を思い出して、どのようなライフスタイルを求めるべきか、考え直す必要がある。

 新自由主義の「市場原理主義」一色に染まった自民党政権が、金にならない地方の生活や、人々の生活インフラを支えてくれる可能性は、ほぼない。せいぜい、竹中平蔵や岸田文雄が言うとおり、わずかな「金銭的施し」が与えられる程度だろう。
 日本は、いつまでも昔の日本だと思わない方がいい。どんどん悪化しているからだ。

 「昔の生活」を持ち出すのは、昔は、公共インフラが不十分で、とても不便な環境であって、どの家でも井戸水を使い、薪で火をおこして調理したり風呂を焚いたりしていた。暖房は、もっぱら薪炭だったが、隙間だらけの家だったので寒かった。
 我々は否応なしに、そんな時代に逆戻りさせられるかもしれない。

 私は上川陽子と生年月日が同じなので、物心ついたのが1950年代後半であり、1960年代の前半まで子供だった。
 https://www.youtube.com/watch?v=MUAyQgjB5-c

 当時の食生活を思い出すと、もちろん電気はあったが、まだ家庭用冷蔵庫が普及していなくて、生鮮食品といえば、葉物野菜くらいしかなかった。
 ただ、名古屋市、下之一色町から市電に乗って毎朝、シジミ売りのおばさんがやってきて取れたてのシジミを食べることができた。彼女たちは50K近い荷物を背負って、長楽橋から私の住んでいた黄金通にまで売り歩きにきていた。

 当時の食生活の主体は、米を別にすれば、おかずは漬物と乾物だった。ご飯に鰹節や生卵をかけられれば、もの凄い大ご馳走だった。
 今の若い人は知らないが、昔は「乾物」というのが一大食品分野であり、「乾物屋」が八百屋と同じくらいあったのだ。
 売っていたのは、昆布とか鰹節とか、豆とか調味料とか鱈の干物とかだった。塩砂糖は乾物屋で買うのが普通だった。

 今のような、肉料理などほとんどない。冷蔵庫がなかったからだ。せいぜい、肉屋でコロッケやメンチカツを買える程度だった。魚はあったが、いつでも生臭い鰯くらいだった。私は鮮度の悪い臭い煮魚しか食べた記憶がない。
 だから、魚と言えば煮干しか干物だったと思う。
 肉と魚は、冷蔵庫の進歩とともに需要が高まっていったので、1960年代からである。

 動物性蛋白質の摂取が少なかったので、子供たちは、みんな青洟をすすっていた。私もそうだ。金持ちの子供だけが、きれいな鼻の下をしていた。
 母親は新潟出身なので、恵まれた食生活しか知らず、名古屋に嫁いで、ひどい目に遭っていると思っていたようだ。
 しかし、父親は、インパール作戦に従軍して、骨皮筋右衛門になって奇跡的に帰還したので、食事に不満はなかったようだ。

 父親は、滅多矢鱈に塩辛いものを食べたがった。それは、おそらく軍隊で、出される食事の大半が濃い塩漬け食品ばかりなので、慣れてしまっていたのだろう。
 父はSL機関士だったが、とにかく汗をかく商売だから、それでも良かったのかもしれない。クーラーもない時代だったし。
 当時、誰も彼もが汗臭かったのだ。塩も水も、今の何倍も摂取したような気がする。夏場、黒い服など着たら、みんな体から塩が噴き出して真っ白になったものだ。

 当時の食品は、味よりも何よりも腐らないことが大切だったので、とにかく塩辛かった。漬物、味噌漬け、塩蔵食品は今食べたら吐き出すのではないだろうか?
 しかし、もし核戦争が起きたり、上空でEMP爆弾が爆発したとすれば、電気や電子に関係する機器(とりわけコイルの含まれた機器)が数年以上も使用不能になるため、仮に電気が復旧しても、冷蔵庫も洗濯機も長い間使えなくなる。
 保存性を考えれば、また塩辛い食品に戻るしかないのだ。

 そこで、長期保存性のある食品を、今のうちに研究し、準備しておこうというのが、このブログの主題である。
 震災・戦争・行政崩壊などでインフラが遮断されたとき、一番困るのは水で、次に電気、そして暖房と調理だが、仮に冷蔵庫が使えなくなると、肉や魚、牛乳がやられる。
 子供たちは、ご飯と漬物で過ごさなければならず、蛋白質不足で青洟児童が出てくるが、別に死ぬわけではないから、それほど深刻に考える必要はない。
 私の時代、私のような貧しい家では、子供が青洟を垂らすのが普通だった。

 水供給が途絶えると、トイレの水が流せないではすまない。暖房ができなくなると命に関わることになる。
 食事は、煮炊き調理が困難になるので、保存食主体になる。これは買うと高いので、自作に限るが、上手に作れるようになるには、何回も失敗を重ねる経験が必要だ。

 私は、味噌を自作したり、ナスや赤カブの味噌漬けをかなりたくさん作っているし、保存食を主題に考える機会が多かった。私の住む地域は、スーパーまで車で20分くらいかかるので、食品を買える機会が少ないので、どうしても自作中心になる。

 そして、自宅の山林から木を一本一本引っこ抜いて小さな畑を作った。
 最初のうちはよくできていたが、20年を経た今では病害虫がたくさん出てきて不作になり、野菜はプランターで新しい土によって作ることの方が多くなった。
 畑を再生するには、耕運機で深く耕してビニールを被せて夏場の太陽光で高温殺菌しなければならない。その耕運機で、今トラブっている。

 今年は、春先がひどく寒くて、とりわけ野菜の生育が悪かった、畑で育てるとうどんこ病やモザイク病が出るので、プランターで育てていたが、今年は、キュウリが10本くらいしかできていない。ナスはまだ実が小さいが、葉がテントウムシダマシにやられて生育が遅れている。無農薬主義では、どうにもならなくなっている。
 トマトの実がつかない。買ってきた「トマトの土」が、窒素過多だったのか?
 ゴーヤは、やっと一本食べられただけ。まあ五個くらい実がついているが。

 もし、可能であったなら、味噌は自作した方がいいと思う。原料の大豆は、地方の農協でまとめ買いをすれば安くあがるが、JAと別行動している農業グループがよい。
 私は二回作ったが、残念ながら、あまりうまくいかなかった。仕込みのとき、暖かかったり、消毒が不十分だと麹に腐敗菌が混じったりするのだ。
 美味しい味噌を造れる人は、何をやらせても上手にできる人だろう。
 ちょうど、たくわんを仕込む時期と重なるので、糠が味噌と混ざったりすると、味噌に異臭が出る可能性がある。微生物食品は、かなり繊細な取り扱いが必要だ。

 微生物食品といえば、私は安い味噌を購入して、ナスや赤カブを大量に仕込んでいる。これは結構長期間、ときには数年も持つので、可能なら作った方がいい。
 ナスの2年ものは真っ黒になって塩がきついが、もしかしたらこの世で、もっとも素晴らしい香りではなかと思うほど、素晴らしい食品になることがある。

 その他、梅酒もたくさん作ったが、原料のリカーで腹を下しやすいので、三年ものになってたくさん残ってしまっている。
 蕪は自家畑にできたものを、甘酢漬けや味噌漬けにしている。これも数年の古漬けにして、細かく砕いてカレーライスのリンゴ代わりに使っている。なかなかうまくて、ヨーグルトとの相性が非常に良い。

 さて、電気が止まり、長期間復旧の可能性もないとき、同時に水道やガスも止まってしまう可能性が強い。インフラが壊滅するのだ。
 こんなとき、清冽な清水の湧く場所を知っていると心強い。人里の川は、あまり清潔ではないが、清水は岩の隙間から泉のようにあふれ出してきて、安全性味覚共に最高の飲料水である。

 私が過疎の田舎に住んでいる最大の理由が、非常時に清冽な水が容易に得られるからだ。今のところは井戸を利用しているが、電気が途絶えるとポンプが回らないので、近所の山の清水を探しに行かなければならない。
 井戸には手押しポンプも設置してあるが、中の木製部品が腐るのと、近所にAという元プロ泥棒の超異常人物がいて、もしかしたらシロアリ用ヒ素剤を嫌がらせで投入した可能性があるので、封鎖してしまった。
 2年前、私の腕に白い小さな白斑がたくさんできて、もしかしたらヒ素を入れられたと疑っているのだ。

 非常用の飲料水になる、清冽な湧水の場所は、もちろん、歩いて行ける場所も含めて、たくさん確保している。
 2年前から、私は、井戸水が怖くて飲めないので、飲料調理水は、すべて近所の山の清水を使っている。

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職業:
仙人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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