「播州武侯祠遍照院」から転載。
(以下引用)
論語は儒教の入門書、易経は奥義書といった位置付けである。
その儒教では、真と呼べるものは何ひとつないと考えていて、そのため、儒教の典籍には、真という字は一度も出てこないのである。
老荘などには真の字が出てきて、その道の至極を説くときに、それを真(真理)と呼ぶ。
しかし、真が本当に真であるか否かは、合理的に説明ができないものである。
儒教は思想、哲学、宗教といったものではなく、言うなれば社会を安泰にするための学問なのである。
学問であるのなら、それは仮説の積み重ねでしかないわけであり、それを真理だとするわけにはいかない。
真理という言葉を持ち出せば、そこで学問的考察はストップしてしまい、それが真理だと信じる必要が出てくる。
真理を信じるのは学問ではなく宗教である。
(以下引用)
論語は儒教の入門書、易経は奥義書といった位置付けである。
その儒教では、真と呼べるものは何ひとつないと考えていて、そのため、儒教の典籍には、真という字は一度も出てこないのである。
老荘などには真の字が出てきて、その道の至極を説くときに、それを真(真理)と呼ぶ。
しかし、真が本当に真であるか否かは、合理的に説明ができないものである。
儒教は思想、哲学、宗教といったものではなく、言うなれば社会を安泰にするための学問なのである。
学問であるのなら、それは仮説の積み重ねでしかないわけであり、それを真理だとするわけにはいかない。
真理という言葉を持ち出せば、そこで学問的考察はストップしてしまい、それが真理だと信じる必要が出てくる。
真理を信じるのは学問ではなく宗教である。
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