「岩下俊三のブログ」から転載。
私は、親と子はまったく別個の存在と思っているし、子供の犯罪に親の責任があるとは思わないので、この文章を掲載したのは文章冒頭に書かれた中村本然氏のこととはまったく無関係に、「悩むことの意義」について考えてみるためである。さらに言えば、かなり前に、ある若者から社会(大人たち)に投げかけられた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題について考えるためである。
先に結論から言えば、「悩むことで(人格が)大きくなる」者もいれば、悩むことでノイローゼになり、鬱病になり、人格破産する者もいるというのが常識的な結論になるだろう。「みんな悩んで大きくなった」というのがたとえば旧制高等学校時代の若者(当時は知的階級の若者の多くは哲学的問題に悩むのが常だった。もっとも、一般庶民は別か。)の話だとするなら、彼らが日本を戦争に導き、日本を破滅させたではないか。
ついでに言えば、下の文章に引用された歌の「ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった」は、テレビコマーシャルで野坂昭如が歌ったものだと思うが、私の記憶では「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み~んな悩んで大きくなった」という歌詞であり、悩んで大きくなったのはソクラテスやプラトンではなく、ソクラテスやプラトンを読んで理解しようと悩む若者のことである。そして、果たして悩むことでみんな大きくなったかと言えば、私の考えでは、悩むことで大きくなる者半分、劣化する者半分、といったところだ。
で、今の若者は、悩むことなど馬鹿らしい、というのが大半だろう。「あれかこれか」の選択があれば、少しでも経済合理性があるのを瞬時に選び、快楽性の高いものを瞬時に選べばそれでいい、という思考なのではないか。(これを私は「実存主義」の一種と見ている。もちろん、「主義」ではなく、無意識的な、実存主義的思考、ということだ。)それは、テレビゲームなどで培われ、学校のテストや入試で培われた「反射神経的選択能力」であり、そこには悩むことの意義など最初から存在していないのだ。そして、それが果たして悪いことなのか、私は判断しかねているのである。というのは、私自身は悩み多き青春時代を送ってきた人間であり、その自分自身の人生前半を無価値だったとまで言うのはためらいがあるし、また、悩みの無い(幸福な)青春を送りたかった、という後悔もあるからだ。(トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の中に、こうした「悩むように生まれついた者」から「悩まない(幸福な)人々」への憧れと羨望が見事に描かれている。もちろん、「悩まない」とは「物事を深く考えない」、ということである。)
話が長くなったので、「悩むこと」について簡単な結論を出しておく。
悩むことに意義があるのは、それが生産的な、前進的な思考である場合のみだろう。そして、「悩む」とは、通常は、実はそれが思考の堂々巡り、結論の出ない泥沼状態であることを意味する。(しかも、ほとんどが苦痛と悲哀を伴っている。)つまり、「悩むこと自体に意味がある」というのは、どんな滅茶苦茶なフォームであれ、球数を多く投げていればいい投手になる、という野蛮な時代のトレーニングのようなものではないか。間違った練習方法は、むしろ体を悪い状態(間違ったフォーム)に固定するものだ、というのが正しい理解だろう。悩むことによって思考が深化し、人間が大きくなるのではない。「考える」こと、しかも堂々巡りではなく、前進的に考えることでしか思考力は高まらないだろう。これは何十年もの間、考えているようで何一つ「考える」ことができなかった私自身の経験から言っている。「思考の堂々巡り」、これこそが最悪の習慣である。(言うまでもないが、これは「同じテーマについて考える」ことの否定ではない。思考が、毎度同じようにしか進展しないことを言っているのである。「同じテーマについて考える」ことは、むしろ大事なことである。それは優れた科学者や芸術家や哲学者の特質だろう。)
「なぜ人を殺してはいけないのか」については、いずれ気が向いた時にでも考えたい。たぶん、そこで「実存主義」(前出の歌の中のニーチェもサルトルも実存主義らしい。そして、石原慎太郎は自分自身を実存主義者だと規定している。)についての私の解釈も論じることになるかと思う。
岩下俊三氏の書かれたものを批判する内容になってしまったが、実はこの「実存主義」的思考が現代の若者の特質だ、と仮定すれば、そして石原慎太郎を(日本における)実存主義の旗手だとすれば、現代は無数の小石原慎太郎で溢れている、ということであり、中村桜州の事件はそれを如実に示したものだと考えることもできる。つまり、話の大筋では、私は岩下俊三氏と一致しているように思う。ただ、「悩むことの意義」という点ではかなり意見を異にする、というだけである。
(以下引用)

空海の研究では一目置かれていた僧侶であり、高野山大学の教授でもある中村本然氏がわが子を通して「図らずも」つきつけた日本の教育や社会の問題は
大きいと言わざるを得ない。
就職もせず(できず)親の家にひき籠って次第に変調をきたしている若者は決して特異な例ではない。高い教養と人格を備えた本然氏であろうともかかる建前だけの、デオドラントな見せかけだけの無臭な社会にあっては最も身近な息子ですら繋ぎ止め制御することが出来なかったのである。
しかも、
大手メディアは「人権」を盾にすべてを覆い隠し、本質的な問題提起から逃げようとするばかりである。すべてをさらけ出しているのは誤報も含めネットだけだ。これではほんとのNEWSを知ることはだれもできなくなってしまう。
メディアリテラシーの問題?バカ言ってんじゃない。単にビビってるだけだろうがっ!!
過日イスラム国に殺された湯川遙菜の死体の写真を教育の現場でつかった教師が教育委員会やPTAといった「デオドラント建前社会」の権化から糾弾されたけれど、人間の「死」というものがなんであるか、また「報道」とはなんであるかを鋭く問題提起して「考えさせる」ことは重要であると思う。
近年、「考える力」や「悩む力」をなくした子供(若者)が増えている。
四択に早く答える訓練しかしていないロボットを育成することには異常に熱心な親は「悩み考える」時間を無駄だとして直ちにメンタルケアの専門家を有難がる傾向にある。
問題にいち早く対処してどうする?問題の前で立ちすくみ躊躇するから、豊かな人間性がゆっくり醸成されていくのだ。
昭和に流行った不良のを思い出せ!
「♪ソソ、ソクラテスもプラトンも~みんな悩んで大きくなった」
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