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人を殺してはいけない、か

まず、最悪の真実から書くことにする。
それは、ドストエフスキーの或る小説(「カラマーゾフの兄弟」だったかと思う。)に書かれていた、

「神が存在しなければ、すべては許される。」

という言葉である。
私は、この言葉は、ドストエフスキー以外には古今の哲学者も文学者も言わなかった「最悪の真実」であり、文明社会に投じられた、核兵器にも似た破壊的な威力を持つ言葉だと思う。
そして、それが恐ろしいのは、実は人類のほとんどは、この言葉が真実であることを心の奥底では分かっているところだ。だが、この言葉が真実であることを認めたら、あらゆる法と道徳は壊滅状態になるのである。
いいですか、

「すべては許される」のですよ。

殺人も、強姦も、近親相姦も、暴力も、拷問も、略奪も、嘘も冒涜もすべてである。
我々がそれらを犯罪としモラルに反する行為だとしているのは単に社会秩序を守るための便宜にすぎないことは、法や道徳がどうして発生したかを考え、そして法や道徳が場所や時代によってどれだけ変わるかを考えれば分かることである。
ドストエフスキーは、この言葉を、

「しかし、神は存在する」

という思想を前提として述べているのだが、問題は、ここで或る人が「神は存在しない」と確信したらどうなるか、ということだ。
その人が「神が存在しなければ、すべては許される」と考え、「神は存在しない」と確信したなら、「人間にはあらゆる行為が許されている」と自動的に答えが出るわけだ。
そして、その人が自分を他に優越する存在だと見做していれば、彼の思考はたぶん、こう続くだろう。
「ただし、自分の行為には、人間たちが勝手に作り上げた法律や道徳によって規制がかけられている。では、それに従う必要はあるか。
私は、他人が勝手に作り上げた法や道徳に従う意義を認めない。それらは私の自由を縛るものだ。この世に偶然的に生まれて、自分の人生から最高の果実を得るためには、私は世間では悪とされていることをも堂々と行う必要がある。なぜなら、悪は私が自分の欲望を達成するために必要な行為だからだ。もちろん、世間の意気地無しどものように、法や道徳を小心翼々と守り、安全で迂遠な道を行くこともできる。だが、そんな生き方の何が面白い。
奪え、殺せ、弱者を踏みにじれ、そしてすべてを手に入れろ。それでこそこの世に生まれた甲斐がある。力の無い、弱虫どもは奴隷の一生を送るがよい。俺は、強者として、超人として生きる」

これが私の考えるニーチェ的な「実存主義」である。
そして、こうした考え方は、本人が意識しているかどうかは別として、若者の一部には必ず存在していると私は推測している。ISISなどのテロ組織に参加する若者は、イスラム教への関心よりも、むしろテロの持つ「超人的な力」を求めて参加していると私は見ている。
現代では、すでに、神の存在を考えること自体がナンセンス扱いされる、というのが普通だろう。ならば、「神の存在しない世界」で、道徳や倫理(すなわち、法的定義以外の「善と悪」という判断基準)というものがどんな基盤の上に成り立つだろうか。私は、その基盤を見つけるのはかなり困難だと思う。法の場合は刑罰が厳然として存在するから、強制力も支配力もあるが、道徳に関しては、当人の人生経験と読書体験くらいしか基盤が無いのである。偉い人が「道徳を守れ」、と言う、その偉い人自身が道徳的には最悪の人物だったりする。

このへんで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えておこう。
答えは単純である。

「法律で禁じられているから」

これだけだ。道徳という不確かなものではこの問題に答えることはできない。

「なぜ法律は殺人を禁じているか」

は、別の問題だ。ちなみに、法はあらゆる殺人を禁じてはいない。言うまでもなく、戦争においては、敵を殺せ、と国家が命令する。そして死刑制度は国家そのものが殺人を行うことだ。つまり、法律は「絶対的に殺人はいけない」とはまったく言っていないのである。

上に書いたような答えでは当然誰でも不満に思うだろう。だが、実際に、「神が存在しなければ、すべては許されている」のであり、殺人だけを禁ずるいわれは無い。
動物でも人間でも「敵は殺せ、味方は殺すな」が原則であり、「殺すこと」自体が禁じられている、というのは実は幻想である。言い換えれば、法律や道徳は壮大な「虚構の体系」だと言える。しかし、その虚構は社会の平和と秩序を守っているのである。誰かを殺せば、その遺族によって自分も殺されて当然である。だから法は殺人を禁じる。そしてそれは十分に合理的なものであり、殺人はこうして禁止されるわけだ。しかし、哲学上の問題として言うならば、「人を殺していけない」絶対的な理由は存在しない、と私は思っている。

念のために言うが、私は人を殺すことを勧めているわけではまったくない。まして、「お前は人を殺していいと言ったのだから、お前を殺す」などという言いがかりは迷惑である。(人を殺していい、とは少しも言ってない。「人を殺していけない絶対的な理由は存在しない」と言っているのであって、それ以外の理由は無数にあるだろう。「社会の平和と秩序の維持」も立派な理由だ。そもそも、なぜ無益に人を殺す必要があるのか。)

私自身は、人間の文化の大半は美しい虚構であり、虚構であっても(あるいは虚構だからこそ)大きな価値がある、と考えている。道徳もその一つである。私が悪が嫌いなのは、端的に言って、それが醜い行為だからだ。善は行動の美なのである。

エゴイズムによる行動ほど醜いものは無い。そして、悪とはすべてエゴイズムから来るものだ。上に書いた「超人思想」(石原慎太郎が自分を実存主義者だと規定するなら、その思想はこんなものではないか、と私が空想したもので、ニーチェ的なものだろうとは思うが、私はニーチェを詳しく読んでいないので、確かではない。)も、要するにエゴイズムでしかない。醜い思想である。
エゴイズムによる行動の醜さは、たとえば行列への割り込みのような日常的事象の中から拾い上げてみたほうが、よく分かると思う。巨大な悪は、エゴイズムからのものでも、その巨大さだけで(常人には為しえない行為という)一種のヒーロー性を帯びてしまうのである。

では、美とは何か、特に行動の美とは何か、という問題が次に出てくるが、これもまたそのうち、気が向いたら考えてみることにする。





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