ただし、世界的に犯罪自体が減っているわけではなく、「粗暴犯」が減っている、ということであり、知能犯、特に社会上層部の犯罪行為は、むしろ増加しているのではないか。もちろん、そうした権力者・権力階級の犯罪の大半は隠蔽されるのが当然であって、水面下で行われる犯罪は膨大なものだろう。
要するに、暴力的犯罪、特に殺人などというものは「割に合わない」から、時代精神が合理性に傾けば傾くほど粗暴犯は減るのが当然だ、というだけの話ではないか。それは慶賀すべきことだが、逆に言えば、殺人が経済合理性に合致すれば、「神無き時代」の合理的人間はためらわずに殺人を選ぶ、ということである。その種のニュースはマスコミ上でも枚挙に暇が無いだろう。しかも、東電による「放射能殺人」やアメリカによる「テロとの戦争」名目のイラク、リビア破壊に伴う殺人などは、誰からも裁かれないのである。
下記記事の後に、「余談」として、高齢者の犯罪が増えていることが書かれている(ここでは省略した。)が、これも「経済合理性」による犯罪がほとんどだろう。罪を犯して刑務所に入れば、飢え死にしなくて済む、という貧困老人が犯罪を行うのは、この上なく合理的な行動ではないか。
(以下引用)
2015-02-08 暴力はなぜ減っているのか? 『犯罪社会学研究』第38号
『犯罪社会学研究』第38号
保育園がいっしょだった親御さんと話していて、また地域で不審者情報が出たというので不安がっていた。その前日、ぼくはある学習会の講師で「犯罪は激減しています」としゃべっていたのであるが、その親御さんの意見をふんふんとうなずいて聞いていた。
そういう話をしていたら福岡県で女子小学生が殺害され、この文書を書いている最中に和歌山県で男子小学生が殺された。「数十秒目を離したスキに…」「自宅のすぐそばで…」と報じられるので、うちのつれあいとかはもう四六時中娘に張り付いてないといけないかのような思いにとらわれている。
日本中、そして先進国で犯罪は減っている
福岡市では犯罪が減っている。2002年をピークにして半分くらいに減っている。
日本全国で同じような傾向をたどっている。
さらにいうと先進国全体で犯罪は減っている。
最初にそのことを知ったのは2013年7月3日の英誌「エコノミスト」の記事だった。それで関心をもって『犯罪社会学研究』という専門誌の竌38「犯罪率の低下は日本社会の中を物語るのか?」という特集(課題研究)を読んだ。
主要犯罪全体の発生率が低下しているのは、主要先進国に共通の現象である。(宮澤節生/同誌p.11)
ただ、先進国全体のこの傾向については、その原因は今一つよくわかっていないというのが結論のようだった。
結局、「国々の間での異同」と「各国の犯罪発生率の変化」を同時に計測する研究が現れるまで、多くの先進国において犯罪発生率が低下しているという現象に対する説得力のある説明は、得られないように思われる。(同前p.17)
同誌では日本だけについていえば、いくつかの仮説が検証されている。研究者の文書なので「これがその原因だ!」みたいにセンセーショナルには書いてないけど、だいたいこんなところがその原因かな、というふうににおわせる、あるいは一定の結論を出している(以下はぼくの主観的なまとめなので、正確には同誌および個別の論文そのものを読んでほしい)。
警察のカウントの仕方
一つは統制主体の問題。簡単に言うと、警察の側の方針変更で、統計数字がかわったんじゃないかということ。
2000年代前半をピークに減っているのは刑法犯の「認知件数」である。
認知は被害届を受理することによって変わる。だから、積極的に被害届を出すように促し、積極的に受理すれば増えていくのである。もう一つは、数え方。被害が連続して起きた場合にそれを1とするか2とするかは警察の裁量がはたらく。
同誌の浜井浩一の論文「なぜ犯罪は減少しているのか」では検挙人員がほとんど減っていないことを指摘する。
認知件数は、犯罪統計としての妥当性は高いかもしれないが、被害届の取り扱いなど、その時々の警察の事件に対する取り組み方針の影響を受けやすい。常に同じ対象を安定的に計測しているのかという信頼性からの観点から見ると、最も信頼性が高いのは実は検挙人員である。認知は、被害届を受けて事件を受理・記録しただけだが、事件ではなく人を検挙するためには、当該被疑者が罪を犯した事実を確認するなどきちんとした手続を踏まねばならないからである。(浜井/同誌p.56)
1986年からの長期的な推移のグラフをみると、検挙人員はあまり動きがなく、認知件数だけが突如山をつくるように2000年代前半前後にもりあがり、元に戻り、やや減っていく傾向を示している。
この警察の方針の変化については、同誌で石塚伸一論文「日本の犯罪は減ったか? 減ったとすれば、その原因は何か?」のなかで少し触れている。また、浜井論文では4つの新聞沙汰になった事例をあげて、警察で統計の「操作」をしていたことを示している。
警察の影響を除いた、本当のところはどうなのか。
浜井は、「守備範囲は狭い」と断りながら、「犯罪被害調査」という統計を紹介する。この統計は、市民に対して犯罪に遭ったかどうかを調査して回り、そのサンプルから犯罪の発生率を推測するものである。これだと被害届を出したかどうかにはかかわりなく、被害の実態が浮かび上がることになる。街頭犯罪についていえば、次のようになっているという。
認知件数では、器物損壊を含めて街頭犯罪の多くにおいて2002-2003年をピークとして急上昇、急降下しているのに対して、実際の被害率は一貫して減少していることが確認できる。(浜井/同誌p.59)
つまり、まあ、認知件数ほどじゃないけど、こうした犯罪は減少しているよっていうことになる。警察の方針変更とか統計いじりの影響をうけながらも、犯罪は減少しているとみていいってことだとぼくは感じた。
防犯技術の向上
じゃあ、やっぱり、「なぜ犯罪は減ったのか?」。
警察ががんばったとかいうことはあるだろうか。
浜井論文では、警察白書で認知件数減少に大きく寄与している犯罪として、車上ねらい(29.6%)、自転車盗(15.7%)、自動販売機ねらい(14.8%)、オートバイ盗(13.1%)があげられていることを紹介している(認知件数の減少に対して、街頭犯罪全体が占める寄与率は85.6%で、つまり車上ねらいなどの街頭犯罪が減ったことがほぼそのまま認知件数全体の減少につながっているとしている)。
浜井論文では、自動販売機の堅牢化と駐車場における防犯カメラの効果についてのべている。自動販売機の堅牢化は、2006年ごろに堅牢化が完了し、自動販売機ねらいの認知件数は他の犯罪と違った増減を示したという。
他の街頭犯罪とは明らかに異なる動きをしている。そして、それが自動販売機に占める堅牢化率と相関しており、自動販売機ねらいの認知件数の減少には、一定程度以上に堅牢化の効果があったものと推認できる。(浜井/同誌p.60)
防犯カメラの効果については、浜井論文では、特に統計的な指摘はされていない。防犯カメラは導入に賛否があるものだが、浜井はキャンベル共同計画のレビューを参照し「防犯カメラは唯一駐車場における車両関係犯罪の防止に効果があることが確認されており」と述べている。この指摘は斉藤貴男『安心のファシズム』でも見られた。
このような防犯技術の向上、それへの投資によって犯罪が減少していくことについては、「エコノミスト」にも指摘があった。
先進国で犯罪が急激に減少している。…最大の要因は、単純に警備対策が向上したことかもしれない。自動車のイモビライザ―は遊び半分の盗難を防いでいる。銀行強盗は、防弾スクリーン、警備員、印付き紙幣でほぼ姿を消した。警報機とDNAデータベースが強盗の逮捕率を高めている。…小規模な店舗さえ、監視カメラやセキュリティタグに投資している。一部の犯罪は今や極めてリスクの高いものとなっている。(「エコノミスト」2013年7月20日号)
警察白書は、警察の側のさまざまな取り組みの強化を認知件数の減少と結びつけているが、それについての言及は浜井論文にはあまりない。
少子高齢化が影響
浜井論文では「1960年以降1990年代半ばくらいまで殺人、強盗、強姦、傷害などほとんどの伝統的暴力犯罪の認知件数は減少していた」(浜井/『犯罪社会学研究』第38号p.64)という事実の原因の一つを「少子・高齢化」ではないかとしている。
実は、年齢と犯罪は密接な関係があり、その関係を調べて見ると一般的な犯罪の過半数以上は30歳未満の若者によって行われるということがわかっている。…先進国のほとんどにおいて年齢階層別の検挙人員を人口比で見ると、10歳くらいから非行が始まり15-20歳でピークを迎え、就職・結婚とともに次第に減少していく現象が見られる。日本においても1990年までは、一般刑法犯(検挙人員)の約7割は30歳未満の青少年によって行われていた。つまり、少子・高齢化によって青少年人口が減少すれば、人口構成的に犯罪の担い手が減少することを意味している。(浜井/同誌p.64、強調は引用者)
少子化は多くの先進国に共通する特徴であるから、これが原因の一つであるというのはうなずける。
「人類史上最も暴力の少ない社会に生きている」
ぼくが『犯罪社会学研究』の当該号を読んで一番びっくりしたのは、ここ千年近くのスパンでみると、暴力による殺人が減っていること、「人類史上最も暴力の少ない社会に生きている」(浜井/同誌p.66)という規定だった。
世界的に著名な心理学者であるピンカーは、様々な資料を駆使してヨーロッパでは西暦1200年ぐらいから、人口あたりの殺人率が減少していることを明らかにしている。(浜井/同誌p.66)
ピンカーの議論は次のようにさらにくわしく紹介されている。
こうした長期的な暴力の減少は、殺人といった犯罪に限らず、戦争での死亡者数、死刑、拷問や奴隷においても同じように見られることを例示しながら、これらの人の生命身体や尊厳を傷つけるような力の行使の減少は、人類が種としても(文明)社会としても発展し続けていったことによって、あらゆる意味で暴力を回避する傾向が高まっていった結果であると主張している。(浜井同前)
「いやあ第二次世界大戦で大量に人が死ぬ時代は別でしょう」とか思っていたので、なおびっくりした。さらに、最近の武装組織によるテロ事件の「頻発」などを連日のように聞けば「死亡者数、死刑、拷問や奴隷においても同じように見られる」という限定はとても重要だし、目を見開かされる思いだ。
このデータが正しいと前提して、なぜこうした成果がかちとれたのか。
ピンカーは、人類の中で暴力が減少しているのは、私たちの中にある「内なる悪魔(inner demons)」と「より良き天使(better engles)」の戦いの結果、私たちを暴力へと駆り立てる「内なる悪魔」を、私たちを暴力から遠ざける「より良き天使」が凌駕した結果だと主張している。(浜井/同誌p.66-67)
え? 「内なる悪魔」? 「より良き天使」?
ここで「内なる悪魔」と呼ばれているものは、個人レベルでは復讐心やサディズム、社会レベルではイデオロギーであり、「より良き天使」と呼ばれているものは、共感性、セルフコントロール、モラル感覚、理性といったものである。(浜井/同誌p.67)
えー、人間の心が発達したっていうの? それはちょっとにわかに信じられないなあとこの浜井の要約だけ見るとそう感じる。
しかし、ピンカーがこの結論を出すうえで、前提となる事実を述べている。そのことについて浜井は次のように要約している。
具体的には、統治機構、教育、貿易・経済、国際化といったものの発展が、復讐・暴力への衝動・情動や有毒なイデオロギーを制御し、理性の力によって暴力への誘惑を減退させることに成功したというのである。ピンカーは、これを文明化プロセス(civilizing process)や人間性の進化(humanitarian revolution)等の概念で説明している。(浜井/同誌p.66)
これならわかる。というか、実感に沿っている。
たとえば、戦争という巨大な暴力を発動させることを食いとめる条約、国家機構、国際機構がある。教育が浸透することで暴力をあおる団体がある日やってきてこれを煽動してもそれによって暴力には駆り立てられないような素地が生まれる。貿易や国際化がすすむことでお互いの国に依存するようになるし、お互いの民族や国を知る機会もふえる。
日本だけを考えてみても、戦前と戦後ではこれらが果たしている役割は大きいだろう。 戦前には戦争を制御する装置が弱い国家機構と憲法しかなかった。戦後、これらは国家から起こるあらゆる戦争の原因を除去する構造をそなえた憲法にすげ替えられた。教育も日本という国家や「民族」を誇大視する偏狭な教育が反省された。貿易や交流の発展でとりわけ中国や韓国の人たちがどのような人たちかを知る機会は増えている。いまヘイトスピーチのような煽動がされて暴力事件も起きているが、国全体が暴力へと駆り立てられるという事態にはいたっていない。予断は許されないが
いずれにせよ、この千年、数百年の間に世界規模で殺人や暴力が減っているというのは、実にものすごいことではないだろうか。いや、素直に感動しない? 暴力によって人が殺されないということに人類は成功しつつあるっていうんだから。
いま中東やアフリカから大量に人が殺されたり死んだりしているニュースが頻繁に伝わってくる。テロ、内戦、暴力による死ばかり。
しかし、ぼくらはそれに絶望しなくてよい、ということだ。いや、もちろんだからといって「いやー、よかった。めでたしめでたし」というわけではないが…。
幸いにも、日本にいるぼくらは中東やアフリカの出来事を距離をもって眺められる位置にいる。そこで起きている暴力を抑えるために、冷静なアプローチができるということだ。ピンカーが指摘したように「統治機構、教育、貿易・経済、国際化といったものの発展が、復讐・暴力への衝動・情動や有毒なイデオロギーを制御し、理性の力によって暴力への誘惑を減退させることに成功した」という確信にもとづいて、その道を強化していけばいいのである。
この確信は、フランスの風刺画事件や日本のヘイトスピーチのようなものも、克服できるのではないかという楽観を与えてくれる。
もちろん、中東をどう平和にするか、ヘイトスピーチをどうなくしていくか、専門家でもないぼくには具体的な妙案があるわけではない。
しかし、さっきあげた確信は、むちゃむちゃアホっぽい言い方になるけど、みんなでいろいろ知恵を出していけば何とかなっていくよ、という楽天的な気持ちをわかせてくれるのだ。
ぼくはマルクス主義者なので、根本的にヘーゲルと同じような歴史観をもっている。つまり人間の歴史というのはジグザグはあっても対極的には理性が勝利していく、というものだ。*1
この浜井論文に描かれていることは、犯罪学者の中では“常識”のようなものかもしれない。しかし、単なる犯罪の統計・傾向の問題だけでなく、この論文はぼくの歴史観まで裏打ちしてくれるものだった。
特にピンカーの著作は非常に興味深かった。注をみると、まだ日本語訳は出されていないようである。*2誰かやってくれないだろうか。……と思っていまググったら、あるな! 邦訳が! しかもつい最近!
タイトルが『暴力の人類史』。あー、売ることだけ考えたら原題のサブタイトル「暴力はなぜ減ってきたのか」がよかったかもねー。「なぜ世界から暴力は減ってきたのか」くらいにしたらバッチリでは。
いや、まあこんな大部の本、『暴力の人類史』みたいなカタくて大仰な感じのタイトルにした方がいいのかな。ケチつけてすんませんでした。
邦訳が出てるんだったら、上記にぼくが述べたことはピンカーの意図を正しく言い表しているかどうかわからんので、とりあえず読んで確認することにしよう。