さて、この世に生れ出た時点で、人間は動物と同じ存在であり、その意味では完全に自由である。つまり、「すべては許されている」はずだ。
それが社会の中で育つに従って、いろいろな社会的規範を叩き込まれ、どんどん行動を縛られていく。つまり、自由を失っていく。
この「自由を失う」ことは、当人にとっては不快極まることであるが、訓練と習慣によってその不快さを意識しなくなる。これは動物を家畜化する(というよりは、家畜としての行動を叩き込む)「馴致」とまったく変わらない。その馴致機関が家庭であり、学校である。
その馴致訓練や馴致機関に欠陥があった場合、反社会的な個人が生じてくる。これがサイコパスと言われる人々である。つまり、社会的規範をまったく顧みず、自分の欲望のみに忠実であるような個性を社会側から見た言い方がサイコパスであるが、この種の人々の中で計算高い連中は、自らの正体をうまく隠して立ち回り、社会的にも高い階層に上ることも多い。思慮の浅い連中は、自らの欲望を抑えきれず、短絡的に犯罪に走る。(思慮が浅いことは、知力が低いということではない。むしろ、思慮の浅薄はその人の教養の程度、すなわち思考素材の質と量で決まる、と思う。)
自由とは何か素晴らしいもののように思われているが、私に完全な自由を与えたら、おそらく、自分の気に入らない人間をこの世からどんどん消し去り、最後には自分ひとりしかこの世界に存在しなくなるだろう。私は読んでいないが、藤子不二雄の「ドラえもん」中の「独裁者スィッチ」がそういう話のようだ。
人間が社会の中でしか生きられない以上、他人と協調して生きるためには自分の自由を制限することを全員が承認しなければならない。その意味で、家庭や学校での「馴致」訓練は必要なのである。ただし、それは「家畜化」でもあることに気を付ける必要がある、というだけだ。
さて、下の記事で、弁護団はこの殺人少女を「刑務所での刑務作業では更生できない。医療少年院ならそれが可能だ」と主張しているが、果たしてそうか。医療少年院でどういう「馴致」が行われるかは知らないが、過去16,7年間の家庭と学校での「馴致」で失敗したものが、医療少年院なら可能だというなら、それは素晴らしい。(刑務所での刑務作業が「更生」を目的としたものだという言い方自体に、何かピント外れなものを感じるのだが。あれは「懲罰」と「営利」が目的であって、刑務作業で更生するなら、工場労働者になれば誰でも人格者になる、とでも言うのか。)
私は基本的に犯罪者の更生というものを信じていないのだが、裁判における冤罪率と同じくらいの割合でなら犯罪者の更生というものもあるかもしれない。しかし、犯罪者の更生に回す金があるなら、犯罪の予防に金をかけるべきだ、と私は思っている。
それはつまり、家庭と学校の在り方を再検討するということでもある。
(以下引用)
佐世保殺害で弁護団「刑務作業では更生できぬ」
長崎県佐世保市の高1女子生徒殺害事件で、殺人などの非行事実で家裁送致された少女(16)の付添人を務める弁護団(3人)が10日、医療少年院送致の保護処分を求める意見書を長崎家裁に提出したことを明らかにした。
家裁送致の際の検察側意見は「刑事処分相当」だったという。家裁は同日、少女の観護措置を26日まで延長することを決定。観護措置の期間中に第1回少年審判が開かれる予定。
10日、弁護団は同市内で記者会見を開いた。検察側の「(少女には)刑事責任能力があり、刑事処分が相当」との意見に対し、弁護団は、刑事責任能力については「争う予定はない」と述べた。
その上で「少女の特質を考えると、刑務所で刑務作業を繰り返すだけでは、真の意味の更生ができない恐れが大きい。再非行の防止には、徹底した治療や矯正が必要で、それが可能な施設は、医療少年院をおいて他にない」と主張した。
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