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豺狼のごとき人間、豺狼のごとき生き方

曽野綾子、石原慎太郎らに見られる、「弱肉強食」正当化思想は、動物の世界の法則をそのまま人間世界に当てはめ、人間を動物の水準にまで引き戻すことであって、人類の精神的進化や文明と文化の否定のようなものだ。そもそも、動物の力と人間世界における力はまったく別である。
確かに人間の世界でも動物的な力はある程度有効なのだが、それを追求して大山倍達のような「空手バカ」になっても、あまり意味があるとも思えない。素手で牛を殴り殺す力があろうと、牛を殺すには牛殺し用のハンマーというものがあるから無駄な話だ、と当時の武芸の達人の一人が言ったというが、その通りである。力道山がチンピラのヤッパ(短刀)一つで刺し殺された事件は、肉体的力というものへの絶望を、当時の子供たちに与えたものである。まあ、実際に面と向かい合えば、相手が素手で牛を殴り殺せる力の持ち主であることは確かに相当の威圧感にはなるだろうし、そういう威圧力はある程度、生きる上では有効な力にもなるだろうが、それが人間世界での通常の力である金力や権力(身分・地位の力)を上回るとも思えない。
では、「弱肉強食」を信じる人間はどうするかと言えば、当然、金力と権力を手に入れるのが一生のテーマになるわけだ。そして、まさしく、曽野綾子は「権力芸者」「権力ホステス」となり石原慎太郎は国会議員になり、東京都知事になったわけである。おめでとう、おめでとう、である。だが、そんな人生など、恥ずかしい人生だ。金や権力をどれほど手に入れようが、その精神性の醜さ、低劣さの代償にはならない。
まあ、そういう批評は、彼らからみればイソップ物語のキツネの言う「あれは酸っぱいブドウさ」に類する負け惜しみだ、としか思わないのだろうが、本気で言うが、私は曽野綾子や石原慎太郎の精神のままで、彼らと同じ人生を送れると言われても、絶対にお断りする。動物差別をする気はないが、輪廻転生があるとして、蛇や鮫に生まれ変われるぞ、と言われるようなものである。それが堂々たる獅子や虎だろうが、ただの「弱肉強食」のケモノでしかない。
金や権力で手に入れられる贅沢な生活など、何の意味もないことだ。人間、起きて半畳、寝て一畳ではないか。一度に飯を5人前食おうが、病気になるだけのことだ。寝るのに二十畳の大きさのベッドも不要である。美女など、若い盛りにしか用は無いし、今では整形手術で誰でも美男美女になれる時代だから美男美女の価値もたいして無い。では何のために苦労をして金や権力を求めるのか。ご苦労な話である。生きるのに必要な金さえあれば、それ以上に何が必要か。安倍晋三のように太鼓持ちとゴルフをし、太鼓持ちたちと高級テンプラを食う生活など、頼まれてもやりたくもない。ゲスどもと顔を合わせて平気なのはゲスな人間だけである。
亡父の「抜粋帳」にこんな言葉があった。

「年収20ポンド、一年の支出19ポンド19シリング6ペンス、その結果は、即ち幸福さ。
年収20ポンド、一年の支出20ポンド6ペンス、その結果は、即ち不幸さ」(ディケンズ)

当たり前の人間の幸福とは、この程度のもので作られるのだ。社会の役目は、あらゆる人に、この20ポンドの収入を保障し、その支出が20ポンドを超えないように税制を作ることである。



(以下引用)



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