東大話法ならぬ、「曽野綾子話法」というのが明確に分かりますwww
曽野綾子の文章は、何十年も前からまったく読まなくなったので、最近の彼女の妄言は二次情報を経由してのものしか知らない。読めば不快になるのが分かり切っている文章を読む気力など私には無いのである。
だからこそ、彼女の妄言が妄言であることを論理的に解析した下記記事は、私にとっては有り難い。それは、私が曽野綾子の文章を読まなくてよかった、という確証を与えてくれたからである。
もっとも、世間の大半の人々はこの武田氏のように分析的に文章を読む能力は無いから、残念ながら曽野綾子の「浮薄な噂程度の情報を元にし、何の論理性も無いものだが、自分は選ばれた人間だと信じる人間たちを満足させるような、社会の下層の人々を見下した論断」こそが、彼らを大満足させるものではないか。いや、社会下層の人々さえ、彼女の言葉に頷いて、「自分の不幸は自分の努力不足のためだ。もっと頑張らねば」と考え、努力に努力を重ねて社会の消耗品としての人生を送るかと思う。まあ、努力の結果、多少の地位の向上はあるだろうから、彼女のような「辛口」の言説の意義も少しはあるわけだ。イワシの頭を信心する程度の意義だが。
かくして、虐げられた人々、努力しても報われる余地の無い人々の悲鳴は埋もれ、谷間の百合さんではないが、「すべて世は事も無し」が続いていくのである。
(以下引用)後半(難病者の問題)はやや詳細すぎ、いささか冗長に思うので、「曽野綾子論」の大筋だけ知りたい人は前半だけ読めばいいかと思う。
「誰かを叩きたい欲求」を誘発し続ける古びた論客
■曽野綾子氏にとって成熟とは何か
曽野綾子氏の『人間にとっては成熟とは何か』は「2013年・年間ベストセラー」の総合7位を記録した(トーハン調べ)。曽野氏の言い分のテッパンである「戦争中に比べれば今はなんて贅沢」「途上国に比べれば日本は恵まれている」「若者や女性はなんでも社会に権利を求めるな」というテーゼは、どの本でも共通している。チェーン店のように、どこで何を開いても同じ味を出してくる。最近の日本人(特に若者)は甘やかされている、とする彼女のスタンスが暴走したのが、この夏の週刊誌で物議をかもした「女性社員は子どもが産まれたら会社をお辞めなさい」という時代錯誤も甚だしい見解だった。さて、年の瀬、『週刊ポスト』新春合併号に掲載された曽野氏の年頭エッセイ「浅き夢見て」を読んで卒倒、浅い夢なら醒めてくれと個人的な卒倒だけでなんとか済ませようと踏ん張ったのだが断念、曽野氏の薫陶が世に受け入れられている現状を知れば、そこに懸念を向けて、年末の挨拶に代えさせていただくことをお許し願いたい。
■「原発を承認して住んだのだから」とはいかなる意味か
今もなお、全国で27万8000人(復興庁・11月27日発表)を数える避難者の頬をいたずらに引っぱたくような発言が繰り返される。
「不運や不幸を社会が補償するのが当然だ、というような発想は全く最近のものである。厳密に言うと、今回の事故でも、原発ができる以前からあの土地に住んでいた人はほんとうにお気の毒であった。しかし原発ができた後であの土地に移り住んだ人は、原発を承認して住んだのだから、補償の額も違って当然だろう」。
この手の「ズバリ言うわよ!」的な妄言が、一部で「よくぞ言ってくれた」と受け入られる可能性は高い。原発事故は地域を引き裂き、個人を孤立させた。孤立した個人は、共に歩んできたはずの隣人との「差」を気にし始める。曽野氏は、その「差」の傷口に塩を塗っていく。意識の変化や立場の差は実際に生じているのだから、効果はある。出産発言と同様、ここでも個々人で生じているわだかまりに向かって、争いを誘発する言葉を撒く。個々の声に寄り添うならまだしも、塩を撒くのは、ヘリコプターの上からだ。
問いたい。「原発を承認して住んだのだから」の「承認」とは具体的に何を指しているのか。福島県の不動産のチラシに「そのうち爆発しますのでお安くしておきます」と書いた物件が一軒でもあったろうか。絶対安全です、と呪文のように唱え続けることで騙し倒してきただけではないか。経済産業省・総合資源エネルギー調査会基本政策分科会は、年明けに閣議決定する「エネルギー基本計画」で、原発について「基盤となる重要なベース電源」であると明記するという。原発輸出で外貨獲得に勤しもうとする政府が、国内で原発を稼動してなければ売りにくいっしょ、と企んでいるわけだ。こういった「国家的詐欺の再稼動」を後押しするかのように、馴れ合いの人生訓を染み込ませて「そもそも人生は苦悩に満ちたもの」と悟られると、反論のために用意する言葉がどこまで汚くなっていくのを抑えることができない(必死に抑えた)。
■具体例の無い人生訓に付き合っているだけではいけない
生活保護バッシングで繰り返された典型例、「生保(ナマポ)なのに、パチンコ屋に通ってる」に始まる、「意外と悠々自適なんだよアイツら」と同じような風説を、曽野氏は被災地にも持ち込んだ。
「自宅に戻れなくなった地域の人が、(中略)補償として大人から子供まで月十万円の補償を受けるようになった。そのような家の子供が、転居先の町で、タクシーを乗り回していると先日教えてくれる人がいた」と書く。ひと呼吸置いて「この手の話は無責任な噂話かもしれない」としているのもかかわらず、最終的にエッセイを「苦悩に満ちているのが人生の定型だと認識して一生歩き通すのだ、という覚悟を決めたほうがいい」という訓示で締めくくる態度には、1ミリも心を寄せたくない。補償金によって、地域住民が分断されているのは確かだ。では、分断したのは誰か、という主語を探す時に、その主語が受け取る側にはないことくらい、お気づきいただけないものか。
世代論を、結局のところ建設的な議論を育めないから、と避ける人が多いが、下記のように言われれば、なかなか黙ってはいられまい。
「今、私たちの世代(注:曽野氏は現在82歳)が集まると、社会はどうしてこれほどに、世間を甘やかすようになったのだろう、と言う。若者を甘やかし、年寄りを持ち上げ、障害者の言うことなら何でも正しい、とする。怠け者の貧困さえも人間的なことになったのだ。こんな甘やかしの時代を、私たちは見たこともない」。
これほどまでに暴力的な見解をそのまま載せて年頭挨拶とさせる甘やかしをこれまで読んだことが無い。ちっとも具体例の無い人生訓に付き合っているだけでは何だかこちらまで軽薄と思われてしまいかねないので、なかでも許し難い横暴な言質「障害者の言うことなら何でも正しい(とするなんて)」に関連して、具体的な反論を投げてみることにしよう。ちょうど今、「障害者の言うこと」が切実に問われている案件がある(なお、難病と障害者の言葉の用い方については、難病情報センターHPにあるこちらの見解を参照した)。
■医療費助成制度改正により、全ての難病に自己負担
厚生労働省は2015年1月から難病の医療費助成制度を改めようとしている。骨子としては、助成対象になる難病を現状の56から約300に広げ、現状自己負担ゼロだった重症者にも負担を求めていくという。難病指定を広げることで、助成を受けられる患者が現在の78万人から100万〜150万人ほどに拡大されるのは歓迎すべきだが、逆に、これまで負担なしで治療を受けてきた難病患者に対しても負担を求めることになる。厚労省は当初、自己負担の上限を月3000円~44400円としていたが、患者団体などからの負担増への懸念を受け、月1000円~30000円へと下方修正した。
難病とは文字通り、治すことが難しい病であるから、半永久的に負担を強いられることになる。具体的に下方修正される前の記事(朝日デジタル)で、日本難病・疾病団体協議会の伊藤たてお代表理事が「重症の定義があいまいで、どの程度負担が軽くなるのかわからず、現時点で評価できない」と慎重になっているように、膨れ上がる医療費を何とかして抑制しようと試みる政府の思惑に翻弄されないように注視していく必要がある。なお、生活保護を受けている人はこれまで通り負担なし、負担額は世帯年収に応じて決まるという。この辺りの「曲解」も不安ではある。
■「この法案は、人間の個人的な『死』に関して国家が介入するという政治的なもの」
難病患者には、もうひとつのプレッシャーが重なった。尊厳死に関する法案を検討する自民党のプロジェクトチームが今月3日に初会合を開き、尊厳死の法案化について、来年の通常国会提出を目指すとしたのだ。「法案では、患者の事前の意思表示があり、医師が回復の可能性がなく死期が間近と判断した場合に、医師が延命措置をしなくても『刑事上などの責任を免除される』としている」(毎日新聞)というのだから、この法案によって醸成されるであろう世論は、難病患者にとっては大きな心理的負担となる。「尊厳死の法制化を認めない市民の会」は極めて明確な反対声明を出している。「この法案は、人間の個人的な『死』に関して国家が介入するという政治的なものです。(中略)法制化の動きは増大する医療費の圧縮や臓器移植への期待などを背景にして活発になってきております。わたしたちは、本来の意味での『死の尊厳』を守るためにこれを阻止しなければならないと考えております」。
石原伸晃氏は、胃ろう措置で暮らす患者を視察して「人間に寄生しているエイリアンが人間を食べて生きているみたいだ」と言ってのけたし、麻生太郎氏は終末医療について語る際、患者を「チューブの人間」と呼び、「私は遺書を書いて『そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから』と渡してある」とした(ロイター)。尊厳死の法制化は、こうした「重い障害のある者は去れ」と言わんばかりの雰囲気作りとリンクさせて考える必要がある。
■「誰かを叩きたい」欲求に対してこれほど速効性のある餌まきは無い
曽野綾子氏の「障害者の言うことなら何でも正しい(とするなんて)」という言い様は、何もこの記事だけではなく繰り返されてきた。(これはこれで差別的な言葉だが)彼女の論旨を「老害」の一言で片付けてしまう人も多い。確かに、そうやって片付けてしまいたくもなる。しかし、彼女の「成熟」とやらがここまで世間に受け入れられ、世間の「雰囲気作り」に一役買っているのだとすれば、やっぱりこうやってわざわざ断じておきたくなる。この10月まで、道徳の教科化を提言してきた、政府の教育再生実行会議の有識者メンバーだったことも敢えて記しておきたい。
最近読んだ傑作ノンフィクションに、清水潔『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続誘拐殺人事件』があるが、この本の中で著者は「最も小さな声に耳を傾ける」ことを自分に課し続ける。とても心に刺さるテーゼ、だった。大きな声、つまりは、雰囲気だけで大勢をさらっていくような、分かりやすくインパクトのある声や姿勢は、確実に小さな声を揉み消していく。被災者は補償金で潤っててタクシーに乗ってる子供までいるそうよ、障害者も女性も権利ばかり叫んでるけども人生とはそもそも苦労の連続なのよ、若者たちは甘えてるわね私たちの頃やアフリカの子どもたちとは違って......こういった大胆な言動がウケるのは分かる(いや、ホントはちっとも分からないんだけど)。今年、だいぶその手の方々から乱暴なメールを頂戴したが、あちこちから湧く「誰かを叩きたい欲求」に対してこれほど速効性のある餌まきは無い。この手の餌まきは特段彼女だけがしているわけではない、あちこちで繰り返されている。小さな声を発しようとする人たちの口を黙らせようとする強引な言葉遣いを「成熟」とは呼ばせない。