「神戸だいすき」ブログ記事の一部である。
神戸だいすきさんの我の強さ(これを沖縄方言では「ワンカラワンカラ」(我から我から、俺から俺から)と呼ぶが)は、彼女の文章を読んでいれば自ずと分かるし、私はこういうキャラクターが大の苦手なのだが、成功者には多いタイプだろう。しかし、それが自分の欠点でもあることを神戸だいすきさんは分かっているようだ。そして、「宗教者こそ欲が深い」というのは面白い視点である。ただし、これはその宗教の創始者より、その末流の宗教組織の団員に多い、という話ではないか。また、新興宗教だと、その組織自体がカネ儲け手段になっていることも多いだろう。
まあ、個人的に何かを信じるのと、何かの教団で活動をするのは別の話だろうが、「神仏の力を借りて、自分の欲望を実現したいという人格」というのは、確かに非宗教者以上の我欲の強さだろう。また、無宗教の他人まで自分の信じる宗教に強引に勧誘する宗教組織もある。表面では、「それが相手を救う道だ」ということだろうが、迷惑な話である。それが仏教なら「ほっとけ(仏)」だww ただし、「般若心経」を愛好するという点では私も私なりの仏教徒なのである。新約聖書や、旧約の伝道の書や雅歌や箴言も好きだ。知恵の言葉は、宗教であれ何であれ人生の指針になる。
(以下引用)
それと、もう一つの真理は、なかなか受け入れがたいものだったけど
「宗教をやるひとこそ、一般の人以上に欲が深い」
これは、先輩が教えてくれた。
「なにか、自分に大幸運が舞い込んだら、軽々しく人に話してはいけません。妬みを買います。
まして、教団内での抜擢なんかは、同朋に話してはいけません。
神仏まで、つかって自分の願をかなえたいと考える人間は、宗教にみむきもしな人たちより、はるかに欲が深い。ゆめゆめ油断しないこと」
最初は、驚いたよ。でも、これは真実。残念ながら真実。
強欲でなければ「神仏」まで、私物化しようとは、考えない。触らぬ神に祟りなし。
う~ん。先輩は、そういって「己の我欲を、清めること、どこまでいっても、自分がかわいいその心を清めること」を、強調したのだけど。
なかなかね、己を顧みて、己の非を清めるのは、並大抵ではない。
もう、ずっと前だけど、何年も願いがかなわないのは、なぜだろうと(実際は、己が強欲だっただけなんだけど)考えながら、修行に向かっていたのね。
駅で乗り継ぎの時、人にぶつかりそうになりながら、隙間を縫って先を急ぎ、我勝ちに、改札口をすり抜けながら
「はっと、気づいた」
私・・・じぶんさえよかったら、よいと考えている・・・・
私、自分が一番でなければ、我慢ができない・・・
私・・・ほかの人を押しのけて、前に出たい。
ああああ~これじゃあ、悪因縁が切れないのも、当たり前だ。私って「我」の塊じゃないか!!
どひゃ~どうしよう・・・・おろおろ考える。
「そうだ、気が付いたのだから、これから、”どうぞお先に”と、周囲の人々に譲ることにしよう!!」
おお!よい、思い付きだ!!そうだ、そうだったんだ。
それから、改札口の前では、一歩下がって、譲る。どこでも、かしこでも、譲る。
「え~!私って、よいこじゃん!」段々得意になる。
こんな立派なことに気づいて、それを実践している私ってステキ!
お寺に到着したころには、得意満面。
今日こそは、ほめてもらえると確信する。
あの日のことは、生涯忘れないよ。
私は、修行の場で「どうぞお先に、どうぞお先に」と、胸の中で唱え続けて、ほめてもらえると思っていた。
左から一人一人の修行を指導する霊能者が、近づいてくる。
さあ、次が私の番だ!
「どうぞお先に。どうぞお先に、これから、私は、皆に譲ります」と、熱心に祈る。
瞬間、霊能者は踵を返して、もと来た方向に戻っていった。
「え?私が、先やのに!」瞬間、のど元に「私の方が先や」という言葉が、登ってきた。
霊能者は一言も、発さなかったけど、
私には、神仏の声が聞こえた。
「あなたの”どうぞお先に”は、口先だけのことですよ。」
私は、その時、新約聖書の一説を思い出したよ。
「私は、この人を知りません。」
「私は、この人を知りません、」
「私は、この人と、関係ありません」
ペテロが3回否んだとき
「コケコッコー」と、一番鶏が鳴いた。
「お前は、一番鶏が鳴く前に、3度、私を否むであろう」という、キリストの言葉を思い出して、ペテロは激しく泣いた。
ペテロは、鶏の声を聴くまで、自分は、忠実で清廉潔白な信者だと信じていたのです。
でも、その時、己の罪に気づいた。自分では、キリストに忠実なつもりだった。
でも、自分は、ただ、命が惜しくて主人を裏切る汚い人間であることを知ったのです。
私もあの時、己の汚さを認めた。
誰よりも、私は、欲深い。欲深いから、神仏まで利用して自分の欲を達成しようとしている。自分は、そういう人間だった。
ある意味、あの日は、私の修行の原点だったかもしれません。
私が一番、私はこうしたい…欲が強ければこそ、前に出て、どんな苦しみにも耐える。
でも、これは、反面、自分さえよければ、他人なんか、どうでもいいという冷酷な面を隠している。
生涯かけても、この強欲を消すことはできないだろうけど、生涯、その自分を正しく見つめることはできる。
一番鶏が時を告げるごと、私は、自分の悪を思い出し、ペテロと一緒に泣くのです。
ローマ法王庁聖ペテロ教会。
ペテロの名前をかたりながら、いったい、何万回キリストをうらぎったことか?!
神戸だいすきさんの我の強さ(これを沖縄方言では「ワンカラワンカラ」(我から我から、俺から俺から)と呼ぶが)は、彼女の文章を読んでいれば自ずと分かるし、私はこういうキャラクターが大の苦手なのだが、成功者には多いタイプだろう。しかし、それが自分の欠点でもあることを神戸だいすきさんは分かっているようだ。そして、「宗教者こそ欲が深い」というのは面白い視点である。ただし、これはその宗教の創始者より、その末流の宗教組織の団員に多い、という話ではないか。また、新興宗教だと、その組織自体がカネ儲け手段になっていることも多いだろう。
まあ、個人的に何かを信じるのと、何かの教団で活動をするのは別の話だろうが、「神仏の力を借りて、自分の欲望を実現したいという人格」というのは、確かに非宗教者以上の我欲の強さだろう。また、無宗教の他人まで自分の信じる宗教に強引に勧誘する宗教組織もある。表面では、「それが相手を救う道だ」ということだろうが、迷惑な話である。それが仏教なら「ほっとけ(仏)」だww ただし、「般若心経」を愛好するという点では私も私なりの仏教徒なのである。新約聖書や、旧約の伝道の書や雅歌や箴言も好きだ。知恵の言葉は、宗教であれ何であれ人生の指針になる。
(以下引用)
それと、もう一つの真理は、なかなか受け入れがたいものだったけど
「宗教をやるひとこそ、一般の人以上に欲が深い」
これは、先輩が教えてくれた。
「なにか、自分に大幸運が舞い込んだら、軽々しく人に話してはいけません。妬みを買います。
まして、教団内での抜擢なんかは、同朋に話してはいけません。
神仏まで、つかって自分の願をかなえたいと考える人間は、宗教にみむきもしな人たちより、はるかに欲が深い。ゆめゆめ油断しないこと」
最初は、驚いたよ。でも、これは真実。残念ながら真実。
強欲でなければ「神仏」まで、私物化しようとは、考えない。触らぬ神に祟りなし。
う~ん。先輩は、そういって「己の我欲を、清めること、どこまでいっても、自分がかわいいその心を清めること」を、強調したのだけど。
なかなかね、己を顧みて、己の非を清めるのは、並大抵ではない。
もう、ずっと前だけど、何年も願いがかなわないのは、なぜだろうと(実際は、己が強欲だっただけなんだけど)考えながら、修行に向かっていたのね。
駅で乗り継ぎの時、人にぶつかりそうになりながら、隙間を縫って先を急ぎ、我勝ちに、改札口をすり抜けながら
「はっと、気づいた」
私・・・じぶんさえよかったら、よいと考えている・・・・
私、自分が一番でなければ、我慢ができない・・・
私・・・ほかの人を押しのけて、前に出たい。
ああああ~これじゃあ、悪因縁が切れないのも、当たり前だ。私って「我」の塊じゃないか!!
どひゃ~どうしよう・・・・おろおろ考える。
「そうだ、気が付いたのだから、これから、”どうぞお先に”と、周囲の人々に譲ることにしよう!!」
おお!よい、思い付きだ!!そうだ、そうだったんだ。
それから、改札口の前では、一歩下がって、譲る。どこでも、かしこでも、譲る。
「え~!私って、よいこじゃん!」段々得意になる。
こんな立派なことに気づいて、それを実践している私ってステキ!
お寺に到着したころには、得意満面。
今日こそは、ほめてもらえると確信する。
あの日のことは、生涯忘れないよ。
私は、修行の場で「どうぞお先に、どうぞお先に」と、胸の中で唱え続けて、ほめてもらえると思っていた。
左から一人一人の修行を指導する霊能者が、近づいてくる。
さあ、次が私の番だ!
「どうぞお先に。どうぞお先に、これから、私は、皆に譲ります」と、熱心に祈る。
瞬間、霊能者は踵を返して、もと来た方向に戻っていった。
「え?私が、先やのに!」瞬間、のど元に「私の方が先や」という言葉が、登ってきた。
霊能者は一言も、発さなかったけど、
私には、神仏の声が聞こえた。
「あなたの”どうぞお先に”は、口先だけのことですよ。」
私は、その時、新約聖書の一説を思い出したよ。
「私は、この人を知りません。」
「私は、この人を知りません、」
「私は、この人と、関係ありません」
ペテロが3回否んだとき
「コケコッコー」と、一番鶏が鳴いた。
「お前は、一番鶏が鳴く前に、3度、私を否むであろう」という、キリストの言葉を思い出して、ペテロは激しく泣いた。
ペテロは、鶏の声を聴くまで、自分は、忠実で清廉潔白な信者だと信じていたのです。
でも、その時、己の罪に気づいた。自分では、キリストに忠実なつもりだった。
でも、自分は、ただ、命が惜しくて主人を裏切る汚い人間であることを知ったのです。
私もあの時、己の汚さを認めた。
誰よりも、私は、欲深い。欲深いから、神仏まで利用して自分の欲を達成しようとしている。自分は、そういう人間だった。
ある意味、あの日は、私の修行の原点だったかもしれません。
私が一番、私はこうしたい…欲が強ければこそ、前に出て、どんな苦しみにも耐える。
でも、これは、反面、自分さえよければ、他人なんか、どうでもいいという冷酷な面を隠している。
生涯かけても、この強欲を消すことはできないだろうけど、生涯、その自分を正しく見つめることはできる。
一番鶏が時を告げるごと、私は、自分の悪を思い出し、ペテロと一緒に泣くのです。
ローマ法王庁聖ペテロ教会。
ペテロの名前をかたりながら、いったい、何万回キリストをうらぎったことか?!
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