知り合いの左翼の女性に、「もし子どもが生まれたらどんな名前をつけたいか、あるいは、その名前にどんな人生の期待をこめるのか」と聞いたとき、彼女は「この世界が美しいと思ってくれる子になってほしい」と答えた。
いい答えだ、と感心した。
左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
さにあらず。
世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソやネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。
意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
そのことを感じる力が唯物論である。
「こんなに世界は美しいのに
こんなに世界は輝いているのに……」
荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。
中沢新一『はじまりのレーニン』を単行本で読んだのは学生時代で、そのころはいまひとつよくわからないところがあったのだが、今回本屋で偶然にも同時代ライブラリーとなっているのを手にとって、持っているにもかかわらず、もう一度買って読み直してしまった。そうしたら、面白いことこのうえないではないか! 思わず線を引きまくるぼく。
レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。
「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」
これはトロツキーのレーニン伝に出てくる一節である。
中沢はこう記す。
「レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」
これぞ唯物論である。
レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。
レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。
しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン的唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)
中沢は、ここでレーニンがボルシェヴィキ内部でおこなってきた哲学論争を紹介する。
レーニンに対立する一派は、当時の自然科学者マッハの哲学の影響を深く受けていた。
「人間の外に、なにか『物質』と呼ばれるものが、客観的に実在しているわけではなく、それは感覚の複合がつくりあげる、思想上の記号なのだ、とマッハは語るのだ。……そういう実証科学では、カントの『物自体』について考える必要もないし、また人間の外部に実在する『物質』というものを、考える必要もない。もしも人間の外の『物自体』と経験のあいだに、なんらかの関係があるとしても…おたがいの間には、恣意的なつながりしかない。それにだいたい、経験の『要素』は、ニューロンを通過するパルスにすぎないのだ。重要なのは、それを経験に組織化する『形式』や『構造』をあきらかにすることであって、外の物質的実在について、うんぬんすることではない。マッハ主義はこのように主張する。その現代性はあきらかである」(中沢)
レーニンに対立する一派は、そのような主観の組織化がどのように客観性を獲得するかといえば、それは集団の場で社会性を獲得するからだ、と主張する。つまり、最初は自分の経験の、感覚の束にすぎないのだが、「みんながそういうから」という理由で、それは「客観性」を獲得するのだというわけである。
「記号論とは、なんとまあ、ブルジョワ教養小説のようなつくりをしているではないか、とレーニンはあざける。そうではない。客観は、人間の意識の絶対的な外部にあるのだ、とレーニンは考える。社会性がなくても、経験の組織化などがなくても、それは実在する」(中沢)
まことにそのとおりである。
中沢は、この本のなかで、マッハをはじめとする主観的観念論を「現代的」だと規定する。そうだ。現代的な哲学潮流の大勢はこの流れをくむものである。
しかし、客観世界とは、そのように、ぼくらの経験や感覚にしばられた底の浅い、(ぼくらにとって)「整然」としたものであろうか? せいぜいぼくらの感覚で「組織化」できる程度のものであれば、世界とはなんと貧しいことか。
世界とはそんな浅薄なものではない、もっと豊かで深い。