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「ふたつの唯物論」の考察

「ふたつの『唯物論』」というか、紙谷高雪氏の文章について、あるいはその文章で論じられている草草についての考察をするが、まあ、原文との細かい照合は面倒だし、私はここでは「印象」で論じるつもりなので、以下の文章に原文との不適合がある可能性は高いだろう。
最初に、「解釈」についてのS・ソンタグの言葉を引用する。と言うのは、紙谷氏の文章そのものが「レーニンについての中沢新一の解釈についての紙谷氏の解釈」であるからだ。とすると、それは「誰の思想」なのだろうか。それを「正確に論じる」ことがどれほどの意味を持つのか、ということになる。「レーニンの笑い」の意味(解釈)など、明らかに中沢新一の「度を越した解釈」だとしか私には思えない。

(以下引用)

「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)

(引用終わり)

まず、「ふたつの唯物論」の間の論争だが、驚かされるのは、こういう議論が初期ソ連の指導層内で大真面目で論争されていたことだ。それが革命や政治とどういう関係があるのか。どれだけの重要性があったのか。私には単に「どんな知的論争であれ相手に負けたくない」というインテリたちのプライドのぶつかり合いにしか見えない。つまり「哲学において相手より上だと証明できたら、それは自分のすべての知的優位を立証する」という思考が存在したのではないか。それは当然、政治的闘争でも「こちらのほうが知的に優れているのだからこちらの言い分に全員が従うべきだ」となるわけである。私はスターリンなどがこういう論争に積極的に参加したとは思わない。それだけの教養は彼には無かっただろう。しかし、政治力や実行力(テロを含む)では彼は他の指導者たちより勝っていたわけだ。
で、「ふたつの唯物論」については私はレーニンの考えに近いが、それが「共産主義」と関わるとはまったく思わない。紙谷氏とは正反対であるわけだ。共産主義化することで、人間はこの世界とより密接に関わり幸福になるとはまったく思わない。ソ連は「本物の共産主義」ではなかったとしても、それに近い政治体制だったことは事実だろう。で、人々はそこで幸福だったか? 世界とより関わり、その幸福さを芸術などに表現したか? まったく、ゼロである。
当たり前の話だ。たとえば小説などは「主に現実の不幸や矛盾を題材にする」ものだ。プロレタリア作家にとって「現実の幸福を描く」小説などブルジョワ芸術視され軽蔑されるだろう。では、プロレタリア小説家は、革命が成功したら何を描くのか。「共産主義体制下の不幸や矛盾」を描けるか。描けるはずがない。描いたら国家反逆罪で投獄されるだろう。現にソ連ではそうなった。では、共産主義政府の下での「幸福を描く」か? そんなのは見たことが無い。あっても、北朝鮮のマスゲームのような愚劣な仮装にしかならないだろう。
とりあえず、唯物主義社会は別に共産主義だけではない。むしろ資本主義社会こそ唯物主義の極致だろう。しかし、そこでは宗教もビジネス(生活の資)として堂々と存在できる。つまりビジネス最優先社会とは、下劣極まりないものもビジネスとして存在できるし、高尚なものも存在できるわけだ。それを「自由主義」と言ってもいい。もちろん、上級国民の自由は最大限で下級国民の自由は最小限であるが、共産主義国家よりはマシだろう。(ここで言う「共産主義国家」は理想としてのそれではなく、「現実に近い」共産主義国家である。)


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