前に載せた「ふたつの唯物論」の中の紙谷氏の文章である。
(以下引用)
(引用終わり)
最初に読んだ時から私が違和感を感じたのが
「意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
そのことを感じる力が唯物論である。」
という紙谷氏のこの「唯物論の定義」である。
まあ、昔の書き飛ばした(失礼)文章の重箱の隅をつつかれても迷惑だろうが、これは哲学的に大きな問題というか、問題のある発言だと思うからここで問題にするわけだ。
一応、手近な辞書で「唯物論」の解説を探してみると、
物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。(「新明解百科語」三省堂)
とある。まあ、これが常識的な唯物論の定義だろう。
では「愛」はどのように物質に還元されてとらえられるのだろうか。世界を美しいと感じるその感情はどのように物質に還元されるのだろうか。つまり「美しい物質」と「美しくない物質」があるのか、それともそれは見る人の心という「物質」のメカニズムで作られる現象なのだろうか。そもそも、心とは存在するのか。精神はいずれすべて物質に還元されるのか。
他者への畏敬や可愛く思う気持ちもすべて物質的現象なのか。
私には、紙谷氏とはまったく異なり、唯物論とは「すべてただの物質だ」という「世界の軽視」「人間の軽視」「精神の軽視」にしかつながらないように思える。
ナウシカははたして「唯物論者」なのだろうか。
(以下引用)
左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
さにあらず。
世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソやネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。
意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
そのことを感じる力が唯物論である。
「こんなに世界は美しいのに
こんなに世界は輝いているのに……」
荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。
(引用終わり)
最初に読んだ時から私が違和感を感じたのが
「意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
そのことを感じる力が唯物論である。」
という紙谷氏のこの「唯物論の定義」である。
まあ、昔の書き飛ばした(失礼)文章の重箱の隅をつつかれても迷惑だろうが、これは哲学的に大きな問題というか、問題のある発言だと思うからここで問題にするわけだ。
一応、手近な辞書で「唯物論」の解説を探してみると、
物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。(「新明解百科語」三省堂)
とある。まあ、これが常識的な唯物論の定義だろう。
では「愛」はどのように物質に還元されてとらえられるのだろうか。世界を美しいと感じるその感情はどのように物質に還元されるのだろうか。つまり「美しい物質」と「美しくない物質」があるのか、それともそれは見る人の心という「物質」のメカニズムで作られる現象なのだろうか。そもそも、心とは存在するのか。精神はいずれすべて物質に還元されるのか。
他者への畏敬や可愛く思う気持ちもすべて物質的現象なのか。
私には、紙谷氏とはまったく異なり、唯物論とは「すべてただの物質だ」という「世界の軽視」「人間の軽視」「精神の軽視」にしかつながらないように思える。
ナウシカははたして「唯物論者」なのだろうか。
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