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気の赴くままにつれづれと。
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レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。
「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」
これはトロツキーのレーニン伝に出てくる一節である。
中沢はこう記す。
「レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」
これぞ唯物論である。
レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。
レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。
しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン的唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)
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