(以下引用)
共同存在[編集]
客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。
彼ら[編集]
「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである[412]。
現存在は他者たちによる乗っ取り要求に従属する。現存在は「私である」というあり方で存在すると同時に、「他者と共に私である」という形でも存在する。 「私である」という形だけで存在できることはめったになく、「我々である」と同時に「彼らと共に」存在しなければならないのである[413]。 ハイデガーの言葉によれば次のようになる。
現実の公共的環境において、輸送機関などの公共手段を使用したり新聞などの情報サービスを利用したりするとき、ある一人の他者は隣にいるもう一人の他者と何ら変わりがない。自己の現存在が『他者たち』のあり方に完全に溶け込むのである。
現存在は他者たちのなかに没入するが、それらは特定の誰でもなく『ダス・マン(Das Man)』としてあり、没個性的で顔の見えない集団である[414]。
日常生活のなかでは現存在が他者たちに溶け込み、他者たちと化す。同時に、他者たちも溶解し現存在の一部となる。このようなものとしての『彼ら』を識別することは極めて難しく、ここに『彼ら』の力の源がある。
目立たず、確認し難い故に「彼ら」の真の独裁性が発揮される。「彼ら」が楽しむ通りに私たちは楽しむ。「彼ら」が見て評価する通りに私たちは鑑賞し、評価する。「彼ら」がこれは酷いと思うその同じものについて私たちもこれは酷いと思う。「彼ら」は私たち全てであり、その「彼ら」が日常性におけるあり方を規定する。[415]
大衆性[編集]
ハイデガーが提示したのは「大衆社会」理論に対する哲学者からの一風変わった答えだった。ハイデガーは当時、カール・ヤスパースの著作に親しんでおり、彼の主著『現代の精神的状況』は、機械時代に突入した現代文明における「精神の生」と「人を奴隷化する諸力」の闘争を描く。 「人を奴隷化する諸力」とは、現代と現代文化が持つ様々な力であり、工業力の飽くなき機械化、製品の標準化、大都市、新しい文化、商業化された娯楽、大規模なスポーツ競技会、映画、ラジオ、通俗ジャーナリズム、「世論」の操作、等々[416]。 これらの力から生まれるのが「大衆効果」即ち、心を伴わない均一性と危険極まりない順応性を良しとする文化が「独自の判断」を行う可能性を圧し潰し「行動の自由」を雲散霧消させる。則ち現代社会は「個」の抹消という恐るべき現象を生み出すこととなる[417]。
『大衆文化』についてのこれらの理論は、全てを商品化する資本主義と『ポップカルチャー』の攻勢に対する保守的なエリート知識人からの悲鳴にも似た反論と解釈することもできる。 ハイデガーのいう『彼ら』は単なる「大衆」とは異なり、現存在も「個人」と単純に同一視することはできない。唯一無二の現存在が「彼ら」に吸収され、無力な状況に置かれる。ハイデガーの哲学的に冷静な文章の端々にヒステリックな否定の声がみられる。
「それ」が私であるはずかない![418]
しかし「彼ら」のどこがそれ程までに恐ろしいのか。ハイデガーは次のように指摘する。 『公共性(Öffent lichkeit)』は顔の見えない「世間」と同一化するというのは、自分自身のあり方を手放すことになる。
かくして、この特定の現存在は、その日常性において『彼ら』に責任を免除される。
そして『平均性(durchschnittlichkeit)』をハイデガーは罵倒する。
『彼ら』は何を試みることができるか、試みてよいかを予め決め、例外的なあらゆることに監視の目を向ける。平均より「優れた」ことは全て、密やかに抑えつけられる。「独創的」なものは全て一夜のうちにならされて、とうによく知られたものに変えられる。「闘争」によって得られるものは全て単なる操作の対象になる。あらゆる「謎」が力を失う。この「平均性」は、現存在の基本的傾向の一つを露呈する。すなわち、存在のあらゆる可能性を「平坦化」する傾向である。
頽落[編集]
現存在は日常生活において『頽落(Verfallenheit)』した状況にある。すなわち「彼らと共に」世界・内・存在に没入している。手元にあるものに配慮することまでが「彼ら」の影響にさらされる。哲学用語として用いられても「頽落」はどこか神学の匂いがする。神のまえにある罪深い人間と同様に現存在も頽落する。では、ハイデガーのいう頽落はなにから構成されているのだろうか。 『頽落』は現存在にとって基本的なあり方の一つである。
- (1)『世間話(Gerede)』
公共世界における日常会話。「平均的理解が可能」な話し方。「おしゃべり」といってもいい。
- (2)『好奇心(Nengier)』
好奇心を持つのは良いことではないのか。ハイデガーによると、好奇心は新しい流行(『彼ら』は目下何をしているのか)と代理経験を欲することである。
- (3)『誘惑(Versuchung)』
世界・内に没入、彼らに服従しようとする誘惑。
- (4)『鎮静(Beruhigung)』
現存在の落ち着かない気分を日常生活における様々な満足によって洗い流される。現存在の複雑なあり方が我と我が手で世俗的御祓を受ける。
存在論的に真である統一された自己から自らを切り離すことをいう。[420]
- (5)『疎外(Endfremdung)』
被投性と投企可能性[編集]
この日常世界を避けることは可能だろうか。現存在はそのなかに投げ込まれている。『被投(Geworfenheit)』は現存在にとってコントロールのきかない世界のなかにあるということで「絶望の淵に投げ込まれる」というにも等しい。この状態は『選択された』ものではない。この世界は現存在が責任を負えず、選んだ訳でもない事物に満ちている。にも拘らず、現存在は行動し、選択し、責任を負う余地が残されている。
『投企(Entwurf)』とは、現存在が自らにとってあれこれの可能性に向かい、自らを投げかけることである。潜在的可能性は現存在の一部になっている。 現存在にとって、存在することの潜在的可能性が「ある」ことに他ならない。
しかし、被投性が可能性の足をひっぱる。現存在は単に何でも好きなものに投企できるわけではない。「投企」の周辺状況、現存在の技能や知能、等々が投企を制約する。したがって現存在は、被投性と可能性の曖昧な闘争に制約されて存在することになる。現存在は「底の底まで投げ込まれた可能性」である[421]。
気遣い[編集]
内・存在と共存在、手元と目前にあるものに対処すること、「彼ら」の世界と頽落、被投性と投企可能性、ハイデガーはこれらは統一されたものとし、統一概念として『気遣い(Sorge)』を提示する。 現存在は「気遣い」を通じて次のものを統一する。
- (1)『可能性』(現存在の投企)
- (2)『被投性』(現存在の可能性を制約する)
- (3)『頽落』(「彼ら」の世界に現存在を縛り付ける)
これら全てが「気遣い」という言葉の示す通り、現存在にとって重要である。「気遣い」を向ける事によって現存在は統一される。ハイデガーによれば、現存在は「関心(気遣い)」という構造のなかに存在する[422]。