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学校の「体育」と本物の体育

古本屋で買った、甲野善紀の「表の体育 裏の体育」がなかなか面白かったので、それに触発された浮遊思考を少し書いておく。
肥田春充という人物のことはずっと前から知ってはいたが、面白い。その「体育法」、まさに「体を育てる」体育、というのが興味深い。私が考えている理想的体育というのが、まさにそれなのである。つまり、「最高の体、最高の健康」を作るものだ。
それは一般の「スポーツ」とはまったく無関係で、記録も勝敗も他者との比較も無い体育だ。現在の、学校教科の「体育」の中で言えば、「準備体操」や「ラジオ体操」がそれに近い。スポーツの中で言えば、せいぜいが空手の「型」などが、記録も勝敗も無い「体育」だと言えるだろうか。後は、水泳も陸上もすべて、他者との比較、記録との戦い、勝敗だらけである。つまり、劣等感と優越感の場である。
繰り返す。「体育」とはまさに「最高の体、最高の健康」を作るためのものだ。もちろん、その最高、とは個人の可能性の範囲内のものである。
ただ、その肥田春充の後半生は、かなり神秘主義的傾向があるようで、言葉は科学性や合理性を説いているが、言葉とは裏腹に、まるで宗教的な「悟り」の話が大半になっている。つまり、「心身一如」ということなのだろうが、初期の「超健康体」を作る、という目的からはだいぶ逸れているように思える。言葉自体がファナティックな感じがするのである。むしろ、前半生において、彼が虚弱児から頑健な体になるように特訓した、その特訓(という言い方は「苦行」めいていてミスリードさせそうだが)の内容こそが知りたいのだが、それについてはあまり書かれていないようだ。
後半生における「臍下丹田に気を集める」みたいな話になると、とたんに馬鹿馬鹿しく感じるのは、私がこの手の話に詳しくないからなのかどうか。それで足下の厚板を踏み破ったとか何とか言われても、「それがどうした」である。家の床を踏み抜いたら、かえって困るだろう。格闘でもするなら、そういう能力も役に立つだろうが、「体育」とは無関係な話だ。まして、晩年における「超能力」の話になると、どうも山師くさく感じてしまうのである。
だが、肥田春充が自分の体を見事に改造した、というのは事実だと思う。それはまさに「体育」なのである。体育は自分でやるものなのだ。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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