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牡丹切りて気の衰えし夕べかな

蕪村の次の句は、私は昔から、「上手く、ある何かを言い当てているなあ」と思っているのだが、それが何か、考えてみる。


   牡丹切りて気の衰えし夕べかな



ここで「気が衰えて」いるのは何か。牡丹か、作者自身か。
私自身は、これを読んだ最初から「作者の気が衰えたのだ」としか解釈しなかったのだが、もしかしたら、間違いかもしれない。牡丹を切って花活けにでも入れれば、夕方にはその生気が衰えているだろうから、気が衰えたのは牡丹だ、という解釈も無理ではないだろう。だが、そうすると、この句の生命(意義)そのものが無くなる気がする。
牡丹を切った。その夕方に、何となく自分の気が衰えたような気がした、という解釈でいいのではないか。なぜ気が衰えるのか。そもそも牡丹を切ったのはなぜか。まあ、後者については、生け花のため、でいいと思うが、あるいは枯れた牡丹の花を切り捨てたのかもしれない。その枯れた牡丹に自分自身の姿を見て、気が衰えたように思った、という解釈はどうか。生命の盛りの牡丹の花を切ったのと、枯れた牡丹の花を切るのとでは、句の意味合いに大きな違いが出るような気がする。
ところで、「気」とは何か。生命力だ、というのが私の解釈だが、これは「生命感」と言ってもいい。自分が今まさに生きている、という実感だ。もともと夕方という時間は、その生命感が世界から失われる時間ではないか。すべてが薄闇の中に埋没していく時間である。灯火をともしても、それは偽りの光だ。生命感はやはり太陽の光から生まれるのである。
「牡丹切りて」という字余りの「て」の字が、だらりとした感じ、生命の退潮を感じさせる。

  牡丹切り、気の衰えし夕べかな

だともう少し生命感が生まれ、逆にこの句の意義は無くなるのではないか。これは生命の退潮を主意とした句だろうから。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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