7:純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。
8:将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由(frei, Freiheit)である。
9:また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。
(考察)
7:「純粋実践理性」の定義が不明であることは冒頭に書いたが、おそらく「純粋理性」が「世界認識」の理性、つまり「世界はこのようである(ザイン)」であるのに対して「実践理性」は「我々はこのように行動すべきである(ゾルレン)」を認識するための理性だろう。まあ、このような区別が必要か、また区別が可能なのかは彼らドイツ観念論哲学者たちの「趣味」的判断でしかないと私は思うが、「純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する」というのも奇妙な言葉である。世界認識は純粋理性においても知性だけでなく感性によるものでもある、と考えるのが自然なのではないか。なぜ「行動を司る理性」においてのみ知性と感性が同時に働くのか。これは、おそらく「共感」とか「同情」などの「感情」のことを「感性」と言っているのだと私は思うが、原著書を見ないと何とも言えない。とにかく、通常の「感性」の意味で読むとこの一文は奇妙である。
8:舌足らずな文章で、カントがこう言った文脈が分からないとこの文も解釈が難しいが、まあ、要約というのは難しい作業だから仕方がない。この一文を逆に見れば「将来のことが正確に予見できる行動を選ぶ行為は自由とは言えない」という思想があるわけだろう。なぜわざわざカントがこれを問題にしたのかが問題だ。つまり、私が何度も言う「時計仕掛けのオレンジ」問題だ。「善しか選びえない状態で善を選ぶのは自由ではない」ということである。逆に「悪を選べば確実に損をする状態で善を選ぶのは本当に道徳的行為か」と疑問を呈することできるわけである。それは「計算して利益を選んだだけである」からだ。ドストエフスキーが「2・2が4」を嫌ったのもそこである。
しかし「将来の結果を(予見できる)」ではなく「将来における人間の行為を(予見できる)」という文章だと、カントが何を言っているのか、私には判断不能である。
9:「法則」とは「道徳的法則」だと思われるが、そのようなものが存在するかどうかは疑問である。時代や土地が違えば道徳の内容がガラリと変わるのは良く知られた事実だ。ただし、時代や土地に限定されない「普遍的道徳」を考察し作り上げることこそ哲学者のやるべき仕事だろう。また、世の中にはまったく良心を持たない人間もかなりの割合で存在することをカントは無視している。
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