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「意志と表象としての世界」の考察(7)

·        61節 意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外のすべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定から人間のエゴイズムの根拠が説明できる。


·        62節 正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。


·        63節 マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越したところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダのウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の神話に通じるものがある。


·        64節 並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に抗して刑死する反逆者と、――人間本性の二つの注目すべき特徴。


·        65節 真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはならないこと。善は相対概念である。


·        66節 徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでもない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。 エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれから解放され、さらに積極的な好意、慈善、人類愛へ向かう。


·        67節 他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣くのは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわち同情(慈悲)である。


·        68節 真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。 普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じ て解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力がある。


·        69節 意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別の例外がある。


·        70節 完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなしに、認識の転換に由来することにある。キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグスティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、わたしの教説とも内的に一致している。




(考察)

第61節 ここに来て、「意志」の定義が分からなくなるが、ショーペンハウアーは自然界の生命と生存の根拠としての意志(盲目の意志)と人間の意志(意識された意志)を区別しているように見える。「自己以外のすべては表象のうちにある」というのは「唯我主義」と呼ばれる思想のように見えるが、別かもしれない。確かに「認識」の上では自分以外のすべての存在は表象だが、実際にそれに手を触れると確かにそれはそこに実在すると分かる。それで唯我主義・唯我思想は否定されるだろう。人間のエゴイズムの根拠は動物全体における自己保存本能だと私は思う。つまり、意志と表象の対立とは別の話だろう。
第62節 判断不能。
第63節 私は古代インド哲学を知らないので判断不能。怪しげな印象である。はたして「永遠の正義」は存在するか? 地域や時代が変われば正義は異なるというのが現実であり、普遍的正義として何が適切かは哲学の大問題だろう。それが「加害者と被害者の差異を超越した」ところにある、というのは面白い視点だと思う。俗な考えかもしれないが、ロールズの「無知のヴェール」を隔てて問題の事象を観察する、つまり、加害者とも被害者とも無関係の大所高所から善悪の判断をする、というのに似ている気もする。

大澤真幸が読む

 正義にかなった社会が満たすべき条件は何か。本書は、この問いに正面から答えようとした。正義の制度は二つの原理を満たさなくてはならない、と。
 第一原理。基本的自由(言論・集会の自由、思想の自由等)に関して人々は平等でなくてはならない。第二原理は二項から成る。まず機会均等の原理。性別や家柄等によって特定の地位に就けない、ということは許されない。ついで格差原理。不平等な措置は、最も貧しい人に最大の便益をもたらすときだけ正当化される。所得に比例した累進課税などを思うとよい。
 わりと普通だ。しかし本書の最も興味深い部分は、この結論ではない。これらの原理を導くときにロールズが用いた論法である。この二原理がどうして正義であると言えるのか。それは、ある仮説的な社会契約を考えたときに、人々はこれらの原理を満たすルールを選択するはずだ、と推測できるからだ。
 どんな社会契約か。全員が、「無知のヴェール」の背後に隠れる。この魔法のヴェールの背後では、誰もが、自分がこの社会の中で何者であるのか、を忘れてしまう。自分の国籍も性別も資産も才能もわからなくなる。こういう状況で、人々はどんなルールに合意するだろうか。
 例えば自分が裕福なら、格差原理には賛成しないだろう。しかしそれは格差原理が正義に反しているからではなく、その人の利益に反するからだ。正義かどうかは、自分が裕福か貧乏かわからない人が、何に合意するかで決まる。
 ロールズのこの論法は後に、批判された。私が何者でもないとすれば、有意味な選択などできない。選択は何かのためになされる。選択が可能なためには、私がどこに所属しているか分かっていなくてはならない。
 もっともな批判だ。それでも私は、ロールズの論理の方により深い真実を感じる。人は自分が所属する共同体を超える普遍性を求める。人類にとって何がよいのかを考えずにはいられないのが人間だ。(社会学者)=朝日新聞2018年10月13日掲載




第64節 判断不能。
第65節 同意。
第66節 同感、という気もするが判断保留。原書を読まないと判断不能か。
第67節 ほぼ同感だが、「他者と自分の同一視」あるいは「他者との一体化の欲望」が愛である、と簡単に言いたい。
第68節 不同意。苦悩というものを異常に高く評価していると思う。キチガイは聖者ではない。鞭身教徒などはキチガイだろう。また、「苦」と「苦悩」は別である。「苦」は良き試練となることはあるだろうが、懊悩が意義を持つことは稀だろう。
第69節 意志が「苦悩」の原因となるから意志を廃絶すべきだ、とするなら、前の節で苦悩を聖人に至る道としたことと矛盾していないか。苦悩が肯定されるなら意志も肯定するのが論理的なのではないか。
第70節 「自由が意志から生じるのではなしに、認識の転換に由来する」というのは、どういうことか、これだけでは判断不能。そもそも「自由」とは何の自由なのか。そして、前のどこかで宗教(信仰)を否定していたと思うが、この部分はそれと矛盾しないか。





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