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「実践理性批判」批判(3)

3:同情から善(Gute)をなすことは好ましいが、義務(Pflicht)と責任(Verantwortlichkeit)とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない。
4:また
快楽義務とは峻別される。
5:偉大にして崇高な名である義務は、威嚇によって意志を動かすのではない。かえって法則を定めるのみである。しかしわれわれはこれを尊敬せざるをえない。
6:その根源は、機械的自然から独立した自由な
人格(Persoenlichkeit)にほかならない。

(考察)

3:文の後半「義務と責任とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない」という部分が日本語として理解困難。「道徳的法則と我々との関係」に「義務と責任が与えられる」というのはどういう意味か。「関係」に義務と責任が与えられるとは? 分かりやすく言えば「我々は道徳的法則を守る義務と責任がある」ということかと思うが、なぜこれほど分かりにくい言い方が必要なのか。そして「のみ」という一語も意味不明である。我々は道徳的法則と我々との関係以外には義務と責任を持つ必要は無いとでも言うのか。
あるいは、「同情から善をなした際の義務と責任は道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない」ということだろうか。日本語としては成立するが、意味はやはり理解しにくい。そもそも、同情から善をなすことに義務や責任が生じるということをなぜ事々しく言う必要があるのか。おそらく、これは「善を為すことは絶対的な道徳的法則に依るべきであり、同情などから軽々しく行うべきものではない」という趣旨かと思う。まあ、奇妙な厳格主義であり、そういう意味かどうかは私は強いて主張はしないが、日本語として曖昧すぎる。

4:当たり前である。
5:「義務」が「威嚇によって意志を動かす」というのは奇妙な言い方だが、実際、我々が義務で行動する場合、義務を果たさない場合の「応報」「処罰」を意識しており、それは「威嚇」だとは言える。しかし、「義務」が「法則を定める」はあまりに不自然である。誤訳でなければ、カントの勇み足だろう。義務というのは社会の上位者が下位者に押し付けることもあり、それは「法律」になることはあっても「法則」になるわけではないだろう。また、社会構成員相互の行為がやがて義務として「道徳」となることもあるだろう。しかし、それは「法則」だろうか。守ってもよいし守らなくてもいいものは「法則」ではない。逸脱可能性という点から見て、法律も「法則」とは言えないが、道徳はなおさら「法則」ではない。
6:「その」の指示内容が何か分かりづらいが、前文の中の「義務」だと解釈するのが一番自然だろう。しかし「義務の根源は機械的自然から独立した自由な人格性である」という命題は正か否か。前にも書いたが、「義務」とは自由の束縛であり、自然の欲望に従うことを「機械的自然」として否定するのはいいが、義務に従うことも隷属でしかないはずだ。つまり、ある選択において、善悪いずれでも選ぶことが可能であることが「意志の自由」なのであって、善しか選べない人間とはまさに「時計仕掛けのオレンジ」なのである。それこそまさに「機械的自然」以上の機械性だろう。

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職業:
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趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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